闇月夜
小さな町は静まりかえっていた。
寝静まるには早すぎるであろう宵の頃。この町唯一の盛況を見せるはずの飲み処の扉は堅く閉じられ、話声ひとつ聞こえない。
家々のカーテンの隙間から漏れる弱光と篝火、薄雲のかかった半月。それ以外の明かりはない。
誰一人見当たらない目抜き通りの隅で、一つの影が形を変える。
篝火は影の形を映し出し、紅に染められた髪が炎に揺れる。
炎に照らされて色を変えているわけではない鮮やかな紅色の髪持つ者は、ヒトならざるものを思わせる同色の瞳を月に向け、つまらなそうに睥睨した。
ヒトの形をした、そうではないもの。
決して異形と呼べない――むしろ秀麗な姿のその男は、石畳をゆっくりと踏みしめ歩を進めだす。
男を動かすのは、渇き。
自らの理性では制御できない渇望。飢餓感。
それをわずかでも満たしてくれる餌を求め、男は前へと向かう。
「占い、どうですか?」
若い女の声が、男を呼び止める。
折り畳み式だろうか、仄かな光を灯すランプの置かれた机を軒下に広げ、女が一人、ひっそりと座っていた。
「けっこう当たるんですよ。
この町でのお客さん、あなたが初めてですけどねー」
あははと気の抜けた笑いを発し、手招きをする占い師であるらしい女。
男はなにも答えなかった。ただ、感情の読み取れない表情で見つめるだけだ。
しん、と落ちるような静寂は、長くは続かなかった。
腰を上げた占い師が男の腕をむんずと掴み、ずるずると引きずって無理やり椅子に押し込めたからだ。男が抵抗をしなかったとはいえ、鮮やかな手口だった。
「……何をする」
「だから占いですって。私、さっきこの町に着いたばかりなんですけどねー、だーれも通らなくって商売にならないんですよ。
あ、押し売りじゃないんで安心してくださいね。お金いりませんから。暇で話し相手欲しかっただけなんで」
地を這うような低い声に微塵も臆さず、占い師はまくしたてる。
気まぐれな側面も持つ男は、戯れにつき合うことにしたらしい。占い師がカードを切り始める様子を無表情に、しかし興味深そうに眺めている。
カードを並べ終えた女が「最初に、好きなの一枚めくってください」と行動を示した。
その図形は何らかの意味を持っているのだろうが、男には見当もつかなかった。言われるがままに一枚をめくろうとしたところで――
「あ! 待った!」
出し抜けな制止に、男の手はカードの端にかかったままぴたと止まる。
「名前。聞くの忘れてました」
「…………占い師だろう。名前くらい占え」
「や、占い関係ないんで」
占い師の言葉を無視し、男はカードをめくる。
そこには夕日に照らされた海の絵が描かれていた。
「あぁ! ちょっと教えてくれたっていいじゃないですか! 大事! 円滑なコミュニケーションのためにお互いを知るのに大事!」
「うるさい。終わってから考えてやる」
「けちぃですねー……じゃ次、選んでくださーい」
頬を膨らませた占い師は広げたカードの上に両手を置き、なにかを確かめてから続きを促した。
全ての工程が済んだらしい。
占い師は男が開いたカードを一枚一枚丁寧に並べ替え、順番に手を置いてから目を閉じた。
「――とても、大きな力を手にするかもしれません。
持った者を飲み込んで、それでも大きくなり続けるような力。
でも、あなたはその力には飲み込まれない。慢心しない限り自分の一部にしてうまくつきあっていける。
こんな感じですね。すごいの出ちゃいました」
今まで私が見た中で一番の帝王のカードですよー、と、軽い調子で占い師が笑う。
男は喜ぶ様子もなく、しばらくなにかを考えているようだった。
そして初めて表情らしい表情を浮かべ、微かに口の端を持ち上げた。
「ところでこの町、なんなんですかね。
しーんと静まりかえっちゃって……人通らないから私、今夜のお宿どうしようって感じだったんですけど」
「最近食人鬼が出ているそうだからな。そのせいだろう」
「なんですかそれーっ! ちょっとそれやばやばじゃないですか!
あなたこんなとこうろうろしてて大丈夫です? あーもう誰か教えてくれたっていいのにっ」
食人鬼と聞いて途端に顔色を変えた占い師は、かん高い声をあげた後、ぶつぶつと文句を言い連ねる。誰一人通らなかったのだから、当然教える人物もいなかったのだろう。
それにしても、もっと早くに不審を覚え、自分から尋ねに行ってもよさそうなものだが。
「今夜は出ない」
占い師の様子を面白そうに眺めていた男が口を開く。
「え。なんでわかるんです?」
「勘だ」
「信用できない!
うぅ〜……お宿さん探しに行こう……」
泣きそうな顔でカードを片付け始める占い師の背中を見つめ、紅髪の男は薄い微笑を浮かべていた。
「ラスティだ」
闇の中に溶けてしまいそうな声。
占い師がそれに気づいて振り返ったときには、もう男の姿はどこにもなかった。
「……恥ずかしがり屋さん?」
それまで男が座っていたはずの場所に腰かけて、占い師は目を閉じる。
月も、星も、篝火も、彼女にはなにも与えない。
彼女が生まれたときから共にあり続けたのは光ではなく、闇だったから。
「私はミヅキ。
――ありがとね。優しい食人鬼さん」
闇に向かって笑いかける。
その声が男には聞こえているような気がして、占い師は大きく伸びをし、なにも映さない瞳で半月を仰いだ。