今よりもまだ、幼い頃。
なにも恐れるものなどなくて、そんな感情すら知らなかった、守られていた時代。
そんな思い出がまったくないのかと言われれば――嘘になる。
けれども少年は、そんなものはなかったのだと自らに言い聞かせ、己の記憶すらも欺いた。
不要、振り捨てて
世界から全ての音が消えたみたいだ。
激しく地を叩く水音に、小鳥の囁き、木々のさざめきをかき消された森の奥地。
大樹の枝葉を屋根に雨宿り、ラトはその幹に頭を預けた。
帰路につくために雨が上がるのを待つ必要はなかった。
視界は悪いが、すでに人生の半分の年月を過ごしてきた小屋の位置を測り間違うはずはない。彼の養い親によって小屋に施された魔術の気配を辿ることは、もはや苦ではなかったから。
ずぶ濡れになってセレンに世話を焼かれるだろうことを考えなければ、なんの問題もない。
しかし、少年はまだ奥地に入った目的を果たしていない。戻るつもりはないようだった。
「止んでも…………これじゃ、見つかんないな」
ラトは止む気配の見えない空を仰ぐ。
黒く淀んだ曇天が、森を押しつぶそうとでもいうかのように低く下がっていた。息の詰まる圧迫感を感じ、それから逃れたいがための吐息をつく。
同じことが前にもあったような気がした。
ふわりと持ち上げられるような浮遊感とともに、そんな思いがラトの中に生まれる。
少年は眉を寄せ、ふと浮かんできた「違和感」のような記憶を手繰ろうとした。
養い親に出会う以前のことを自ら思い出そうとすることができるようになったのは、つい最近になってのことだった。
優しくない記憶。
ふとした弾みで脳裏をよぎった瞬間に、思い出してしまったことを後悔する。ナイフで切り裂かれたような痛みを伴うこともある。
過去の記憶を痛みと感じるのは、今を過ごすこの場所があたたかさに満ちているからだ。
あたたかすぎて時に息苦しささえ覚えるくらいに。
大地に染み渡る雨。
膝を抱えて途方に暮れる幼子。
暗く、黒い雷雲。
肩にかかった、だれかの――
「――風邪、引いても知らないわよ?」
突然耳元に響いた囁きに、しかしラトは驚かない。
神出鬼没――そんな言葉がぴたりと似合う養い親は、ラトを入れた傘の下でふわと笑った。
「引かねぇよ」
「あら、そう? そう言って一週間うんうん寝込んだのは、どこのどちら様だったかしらねぇ」
「何年前の話だよ」
養い親が差し出したもう一本の傘を受け取ったラトは、それを広げて大樹の根元から離れた。
「明日でいいって言ったのに」
「よくない。今日持ってかないとカイルの父さんが困る」
「はぁ……真面目な子ねぇ。私に似て」
「どの口が言うのソレ。おこがましい」
「難しい言葉使うようになっちゃって、まあ」
わざわざ森の奥地――とはいうものの、もはやラトにとっては庭も同然となっている――に踏み入ったのは、ラムロットに唯一の医者が必要とする薬草を採集したいがためだった。
「それじゃ、せっかくだから私も手伝おうかしらね」
「つか、アンタの仕事だろ」
記憶の端に引っかかっていたものがある。
それを引き上げ、紐解いた瞬間に湧き上がった感情は――不愉快、その一言だった。
『――は、なにも悪くないのよ。
ごめんね……守ってあげられなくて。弱いお母さんで、ごめんね』
おれは、あんたなんて知らない。必要ない。
あんたたちがつけた名前も要らない。
存在しない人間は、だれを守ることなんかできやしない。
それに。
おれが必要として、おれを必要としてくれているのは、あんたじゃない。
いちおう謝っておく。ごめん。
あんたはおれを捨ててはいないけど、おれはあんたを捨てていく。
今のおれにとって、あんたの思い出なんてものは意味を持たない荷物にしかならないから。
「あぁ……迎え、いらなかったみたいね」
養い親が見上げた空からは、光が一筋射していた。
西の空から流れくるのは白い雲。雨も小降りになりつつある。
「要るよ」
ぼそりとした呟きが聞こえなかったのか、養い親は不思議そうに首を傾げた。
「だから……要った。迎え」
顔を背け目を合わせようとしないラトに、苦笑交じりに相貌を崩し――リィンは「そう」と目を細めてみせた。