魔法使いの弟子
帰らずの森、と呼ばれていた森がある。
それは、少年だった男が10の歳を重ねたときに、その名の意義を失った。
ある日ふらりと現れたある人物から『脅威が去った』と情報がもたらされた以降、帰らずの森と呼ばれた由縁――一度入ったものが二度と出てくること叶わぬ迷いの森はその力を消したのだ。
それ以後、帰らずの森と呼ばれていた森には決まった名前もつけられず、ただラムロットの森だの、裏の森だのと好き勝手に呼ばれている。
「せんせーーいっ」
まだわずかに舌足らずの子どもの声が、やわらかな木漏れ日差し込む森の中に響き渡った。
頬を上気させて走り寄ってきた少女。
その小さな手に握られる、縁のぎざついた細い葉を見た男の目が細められる。
「ねぇっ、これなんてなまえっ? あっちにいっぱい生えてたの!」
大変な発見をしたのだと息せき切って報告する少女の姿にかつての自分の姿を重ね、男の顔に覚えず笑みが浮かぶ。
男は膝を折り、視線を合わせた少女の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「よく見つけたなー。これはなぁ、ルワールドロップ。
これは根っこの部分を乾燥させると熱さましの薬になるんだぞ」
「あっ。じゃあ先生、このまえコレでダイナのパパをなおしてくれたの?」
「そうだよ。――お礼、言わないとな?」
素直に大きく頷いた少女は、握りしめたルワールドロップの葉に向かって「パパをなおしてくれてありがとう」と丁寧に礼を述べた。その様が微笑ましくて、また彼は笑んだ。
「ほらダイナ。まだ課外授業の途中だぞ。あっちでみんなと一緒に植物の絵を描いておいで」
「はぁーい。……この子でもいい?」
「もちろん」
ぱぁっと顔を輝かせて子どもたちの方へと走ってゆく少女を見送り、男は苔むした切り株に腰を預けた。
そこから見上げる木の葉と枝に切り取られた空の形は、あの頃の記憶と変わらない。
変わらないのに。
振り返ればそこにあったはずのものが――存在をなくしていた。
そこに、たしかにあったはずの小屋。
周囲には草が生い茂る、蔦に守られた小屋。
こんなにも鮮明に思い出すことができるのに。
その場所だけがぽっかりと、はじめからなにも存在しなかったかのようなただの草地へと変貌している。
あの人たちがいたことすら、一時の夢であったかのように――
その変化は今になって訪れたものではない。
あの日。
少年だった彼がいつものように訪ねてきた日から、この場所には欠片ほどの変化も起こってはいないのだから。
「せんせ?」
気づくと、男の周囲には年齢もばらばらな十数人の子どもたちが集まっていた。
皆、それぞれの手にスケッチブックを持って。
「みんな描きおわっちゃったよ」
ふと上を見上げ、この切り株に座ってからずいぶんな時間が経っていることに男はようやく気づいた。
そろそろ森を出ないと終業時間に間に合わなくなるかと考えつつも、つい、おもむろに話し出す。
「なぁ、知ってるか?」
その表情は、まるで悪戯盛りの子どもが見せるそれに酷似していて。
時折見せるそんな表情が、子どもたちを惹きつけていることを、彼は知らない。
「先生が小さいころな、この森には魔法使いが住んでたんだ」
「えーちがうよー」
「せんせーが小さいころよりずっと前でしょ?」
子供たちが言っているのは、男がまだ少年にもならない頃、祖母の昔話に聞いた魔法使いのことに違いない。
――そうか、そうだった。
男が初めてこの森の深部に足を踏み入れたのは、そんな昔話の住人に母の助命を期待してのことだった。
無謀に過ぎた過去の自分を思うと、自然と苦い笑いがこみ上げる。
しかし今、子どもたちを前に浮かべるのは。
少年の日。
あの人がよく見せていた、なにを企んでいるのかと思わせる、人をくったような笑み。
それこそ昔話の魔女が見せるかのような――
「いいや? いたさ。
勉強が大っきらいだった先生を、先生になりたいって思わせてくれた魔法使い」
なんの兆候も見せずにふらりと消えてしまった、今にすれば人生の師とも言えた――あの人。
再び出会える予感は、もうしなかった。
その予感は的中したのか、未だ男は彼女との再会を果たせていない。
再会の約束など、ない。
ゆえに彼女はもう戻ってこない。
楔の言葉がなければ繋ぎとめることはできない、風のような人。
枷があったとしても、必要ないと判断されればいとも容易く振り切っていってしまう人なのだと。
識っていた。
少年を脱しかけていた当時の彼にとって、彼女がいなくなったことは大きな転機であった。
思春期特有の、自分を子ども扱いする存在が消えたことに対する『せいせいした』という感情が持続したのは、ほんの一時。
その後はただ、虚無感のみが支配した。
大切なこと、どうでもいいこと――様々なことを注いでくれた泉が、そこにいることが当たり前となっていた絶対が、忽然と存在をなくした事実。
しばらく、うまく笑うことができなかった。
気づくと下ばかり向いていた。
彼女と出会わなかった彼であれば得るはずもなかった知識たちは、彼女と出会ってしまった彼にどうしようもない焦燥感を残した。
そして彼はさらなる知を求めた。
消えてしまった泉に、自分がなろうとでもするかのように。
「それって、先生の先生だったってことー?」
「勉強が好きになる魔法? そんなんウソだよ。せんせーってコドモー」
「なんだとコラ」
師に向かってコドモなどという暴言を吐いた生徒の額を軽く小突き、彼は帰るぞと子どもたちに言い放った。
「ねぇねぇ先生、先生のとこのお兄ちゃん、今度はいつ帰ってくるのー」
「ん? そうだなぁ……次の長期休暇には帰ってくるらしいことを言ってたからな。収穫祭の頃になるんじゃないか」
「えーそんなに先ー?」
「だいじょぶかなぁ。おみやげ買ってくるって約束したの、忘れてないかなぁ。あのお兄ちゃんぼっとしてるから」
「あぁ、土産の心配な……」
町の学校の寮に入っている上の息子を思い、確かにぼんやりしているなと苦笑う。
息子が『医者になりたい』と言い出した時に彼の中に浮かんだのは、自分がかつて教わったものを息子にも伝えることができていたのか、という充足感だった。
もちろん、教わらなくても息子は自分で答えを導き出していたのかもしれない。
それでもよかった。息子が、自分の力で『なりたい自分』を見出したのだから。それだけで十分だった。
『俺はちゃんとした医者になりたいんだ。父さんみたいな教師との掛け持ち薬師なんかじゃなくて!』
などと言われたときにはさすがに腹に据えたが。
子どもというのは残酷だ。
けれども彼は、この道を選んだ。
子どもが道を見つけ、進んでゆけるための基盤を作ること。
かつて自分がそうしてもらったように。
最後にもう一度、草が生い茂るだけのなにもない場所を振り返る。
「……いたんだ」
俺以外のだれもが魔法使いだなんて思っていなかった、黄金色の髪の薬師。
気まぐれで理不尽で説教くさい、俺だけが知ってる――横暴なリィン姉ちゃん。
「いたんだよ」
今はもういない。
消えてしまった、優しい魔法使い。