ひとりが厭わしいものと知らずに生きてきた。
孤独だけが友だった。
友という言葉の意味すら知らずに。
彼は誰かを求めない。
求めないから、振り払うことしかできない。
だから彼はひとりぼっち。
ずっとずっと、ひとりぼっち。
ゆうやけいろ
闇より深い漆黒の毛皮に大きな体躯。
爪と牙は強く鋭く。
走る姿は疾風のようで、目で追うことすら難しい。
親の存在は既に記憶に薄い。
成長し、親に追い立てられて辿り着いたこの山で、彼は自然と山の主になった。
動物たちは最も強い彼を敬ったが、恐れゆえに決して近づいてはこなかった。
誰にも心を許さない孤高の黒豹。
彼はいつもひとりだった。
人間という生き物を初めて知ったのはいつだったか。
どうやら山に住んでいるわけではないらしい。時折姿を見せることがあるだけで、木の実や草などを採っていってはまた姿を消していた。
その生き物はよほど臆病で用心深い。ウサギやネズミなどより、ずっと。
以前気まぐれで姿を見せてやったことがある。
すると、その生き物は腰を抜かして何かわけのわからない声で喚きたてた。好奇心に動かされ一歩近づいてみせた。すると、集めていたらしい木の実をばら撒きながら逃げていった。
――弱い生き物。
彼はそう認識した。
けれどもある日、彼が認識していた人間とはどこか違った人間たちが現れた。
その人間たちは小さな体でどうやっているのかは知らないが、何本も何本も木を切り倒した。
力の弱い動物たちを手当たり次第に殺していった。
そうして、どこかに運んでいくのだ。
多くの動物たちは住処を追われ、食糧は減った。
彼の住処は影響を受けなかったが、食糧となる動物が減ってしまっては生きていくのに少々困る。
――敵。
彼はそう認識した。
彼はその日、やってきた人間たちの喉下を狙って襲い掛かった。
以外にも反撃があったが、彼にとってその反撃はこどもの遊び程度のものだった。
彼はその場に動くものがいなくなった後、逃げた人間を追う気も起きずにその場を去った。
それ以来、気分が悪くなる鉄の匂いを全身に纏わりつかせた人間が、たびたび山に現れるようになった。
どうやら彼を探しているらしい。以前は逃げるだけだったのに、今度は彼を見つけると鋭い気配をもって近寄ってくるようになったのだから。
人間は彼を見つけると、鉄の匂いのするなにか長いものを持って彼に挑んでくる。
彼はその人間たちをことごとく返り討ちにしたが、時には傷を負うこともあった。
爪でも牙でもない鋭いもので切り裂かれた傷はどれもかすり傷。しかし、ぴりぴりと残る痛み、鉄の味のする傷はひどく不快だった。
相手をするのがいい加減面倒になり、彼は姿を隠すようになった。それでも執拗に彼を追い立てる人間に心底うんざりして久しくなった頃。
『それ』は現れたのだ。
妙な雰囲気を持った人間だった。
見たことのある人間たちよりまた、一回り以上小さな体。
けれども彼がどんなに牙を剥いて威嚇しても恐れず、噛み殺すつもりで跳びかかってもするりするりと逃れてしまう。そのくせ自分からは何もしてこないのだ。
おかしいのはそれだけではなかった。
『それ』は小さくはあるが、確かに人間の形をしている。
それなのに、『それ』からは人間の匂いがほとんどしないのだ。
嗅いだことのない、何かわからない不思議な匂い。
背筋を伝う得体の知れない感覚に、彼はゆっくりと後ずさり――踵を返し逃げ出した。
彼はこの時、生まれて初めて恐れという感情を抱いた。
次の日、彼はなんとなく気になって前日に奇妙な人間を見つけた場所を窺ってみた。
『それ』がいる。
視認した瞬間、あの恐れという感情が彼の中に渦巻いたが、同時に好奇心も湧いていた。
もともと最初に『それ』の前に姿を見せてみたのも、この好奇心から。そして結局、好奇心には勝てなかった。
彼が足音を殺し慎重に近づいていくと、『それ』が彼に向かって自分の体の前で手を動かしてみせた。
びくりと前足が浮いた。
なぜ気づく。
何か言っているようだが、人間の使う言葉というものはわからない。
低く唸ってみせた。
しかし、『それ』の様子に変化はなかった。
次の日も、その次の日も。その先も。
『それ』は変わらず同じ場所に居続けた。
彼は自分に言い聞かせた。
気にしなければいい。いないものと思えばよい。
『それ』は自分を害するわけでもないし、他に何をしてくるわけでもないのだから。
けれども彼の足は今日も『それ』へと向かっていく。
そして『それ』は彼の心に困惑とわずかの恐怖を植えつけるだけで、やはり何もしてこないのだった。
なぜ殺そうと襲ってこないのか。
なぜ何もしないのか。
それなのになぜ、あの場所に居続けるのか。
彼にはわからない。
もっと近づいてみれば、わからないことがわかるかもしれない。
そう思って、信じて。
彼は『それ』に近づいていった。
毎日少しずつ。
距離を量りながら、すこしずつ。
一日一日、すこしずつ。
『それ』は彼に気づくと、相変わらず手を動かしたり何か言ったりするだけで、決して自分から距離を詰めようとはしなかった。ただ座っているだけだった。
――自分を待っているのか――そう思った。
そして今。
彼は『それ』の隣に伏している。
『それ』の手が目の前からゆっくり伸びてくる。
彼は逃げなかった。
ふわりと彼の背に手が触れ、黒い毛皮の上で何度も行ったり来たりを繰り返した。
その動きはとても優しく、気持ちが良かった。
彼はとても気分が良くなって、目を閉じて喉を鳴らした。
それ以来、彼は毎日『それ』の隣に座り、時には横になって時間を共有した。
特に何をするわけでもない。
ただ彼は大人しく『それ』に撫でられていたり、意味はわからないが『それ』が何か言うのを聞いていたりした。
時々、『それ』は鳥に似た声で不思議な音をつくることもあった。その声はとても綺麗で好きだった。
そして、『それ』はよく彼に向かって「ファルス」と言った。
あまりに何度も言うので覚えたのだが、頭のよい彼は程なくして、どうやらその「ファルス」というのは自分のことを呼んでいるらしいと理解した。
その声はとても、心地が良かった。
ある日、『それ』の匂いはどこかいつもと違っていた。
それに気づいた彼は、常のようにすぐに『それ』の隣には行かず、体一つ分の距離をとって『それ』の様子を窺った。
しかしどこが違うのかわからない。
彼はいぶかしみながらも、いつものように『それ』の身体に頭をすりつけた。『それ』は耳の後ろを撫で――彼の首に腕を回した。
彼の毛皮に頭を埋めながら『それ』は何かを言っている。
やはり何を言っているのかはわからない。
けれども、彼は理解した。
してしまった。
匂いはかすかに『それ』の感情を乗せていた。
『それ』は、ここからいなくなるのだ。
もう、二度と会えない。
撫でてもらえない。
呼んでもらえない。
嫌だった。
『それ』との時間は新鮮で、穏やかだった。
自分にそんな気持ちを抱かせた『それ』と離れたくない。そう思った。そんな感情を抱いたのは初めてで。
だからこそ。
彼は自分の気持ちを譲りたくなかった。
嫌だ。
行かれるのは嫌だ。
だって、だって行ってしまわれたら。
また。
ひとりぼっちになってしまう。
だって知ってしまった。
誰かが傍にいるというあたたかさを。
だからもう、違う。
ひとりでいることしか知らなかった以前とは違う。
ひとりは。
寂しいものだとわかってしまったのだ。
『それ』は彼を離すと、最初に会ったときと同じように体の前で手を動かした。
頭のよい彼は理解していた。
その手の動きの意味が前とは違うということを。
『それ』が彼に背を向けて、山を降りてゆこうとする。
行ってしまう――。
彼は“行かないで”と鳴いた。
それでも『それ』は止まる気配を見せない。
“嫌だ”
もう一度。
胸のあたりから湧きあがる切なさを堪え切れなくなる。
どうして。
どうして?
行ってしまうのなら、始めから来なければよかったのに。
そうすれば自分もこんな悲しい思いをしなかったのに。
――悲しい?
そうか、自分は『それ』が行ってしまうのが悲しいのか――そのことに、彼は初めて気づいた。
悲しいと。寂しいと感じる心がある。
それを厭う心がある。
でも。
――ここで『それ』と離れたら、二度とそんな気持ちに出会えない――
後ろ足で地を蹴り上げた。
行く手を阻み、もう一度。思いの全てをこめて。
“連れていって”と。
『それ』の目が、彼の緑色の目を見つめた。
心を透かすようなその目は、なんだか夕焼け色の空に似ている――そう思った。
耳を垂らした彼の頭にふわりと。『それ』の手が載せられた。いつもより強く撫でられる。
一瞬目を閉じた後。
おそるおそる覗き込んだ夕焼け色の硝子玉は、とても、とても。
あたたかかった。
彼は耳をぴんと立て、長い尻尾を揺らす。
もう一度、『それ』に頭をすりつける。
また一緒にいられる。
撫でてもらえる。
呼んでもらえる。
あたたかいままでいられる――
だって今、一緒に行こうと言ってくれた。
「行きましょうか、一緒に。――ねぇ。ファルス」
ほら。
そうして彼は、歩き出した『主』に「くぉん」と応えた。
今度は、その隣で。