開いたばかりの無垢な瞳が映すのは、薄墨色の世界に差した紅葡萄。





 彼女の前に山があった。生まれたばかりの彼女が首を反らすほどに見上げても全体像のつかめない、大きな山。生物であった、生物ではなくなってしまった小山はもうぴくりとも動かない。
 それがいったいなんなのかわからない彼女は喉の奥をくると鳴らし、きょろきょろとせわしなく首を巡らせた。よくわからないものへの興味より、近くにいるはずの庇護者を探してその足下にもぐりこむ方がよほど重要だったのだ。
 そうして、見つけた。
 少し離れたところに立つ二本足の生き物。硝子玉のような赤葡萄色の目を無感情に細めて小山を見上げる、一人の男。

 甘え声をきゅうんとあげる。しかし見向きもしてくれない。聞こえなかったのだろうか。もう一度声をあげる。もう一度、もう一度。
 しびれを切らし、彼女はおぼつかない動作で前足を浮かせ、後ろ足だけで立ち上がった。あれが庇護者なら、自分も同じように二本の足で立てるはずなのだ。
 幼い生物はひょこりひょこりと頼りなく歩きだす。
 母親の血を大地に滴らせる槍。それを手にするヒトの袂へ。










「戻りました」

 抑揚のないひそやかな声で断りを入れたルージュの声に、彼女の主人は金色の睫毛にふちどられた瞼をゆると持ち上げた。爛々とした光を宿す赤葡萄の瞳。一度薄く開いたそれは再びふっと閉じられる。おまえに興味はない。そう言われているようで、ルージュの胸にちくりと針の先が触れる。常のことーー昔からずっと変わらない主人の態度のはずなのに。
 ルージュは主人に誉められた記憶がない。そしてこれからももらえないことを知っている。事実、代わりにかけられたのは、ずいぶん手間取ったねという小さな糾弾を含んだ棘のある言葉だけだ。赤葡萄色の瞳に彼女の姿は映らない。

「ちゃんとあっちに放り込んできたんだろうね」
「はい」
「条件消化具合は」
「十分に満たせたかと」
「そう。ならあとは本人の資質次第だね。あの責任転嫁と自分勝手具合だ、いい具合に転じてくれそうだとは思うけど」

 くすくすと主人は嗤う。酷薄にあざ笑う。
 笑みは主人が最も浮かべる表情のひとつ。やわい笑みは纏う修道衣の効果も相まって、たいていの人間から警戒心を削ぎ落とす。たとえどんなに人の道から外れた行いをしようとも、その目に紅い狂気を上乗せしようとも、表情だけはやさしい笑みをとり続ける。
 そんな主人が見せる負の顔に日常的に触れられることが、与えられることに餓えたルージュが唯一主人から貰える充足だった。それは正しい主従のあり方ではないと、歪んでいると知りながら。

「ルタ様」

 かすかな笑い声も止んだ頃、ルージュはおずおずと、しかしはっきりした声色で主人の名を呼んだ。主人は横目で胡乱そうなまなざしを彼女に向ける。その目のーー決して自分を視てはくれない瞳の中心を占拠する、空洞。底なし沼に似た吸引力を持つそれに吸い込まれ、呑まれそうになる。

「次は、私にお譲りください」
「なに。あの男をいたぶる仕事を僕に取られたの、そんなに不満?」

 沈黙を是ととった男の、赤葡萄の相貌がすうっと細められた。
 真正面から見ないようにと視線を伏せた先、主人が好んで身に纏う修道衣の肩布が揺れる。

「……っ」
「ねぇ、イェルフランジュ?」

 鼻先に主人の吐息がぬるく触れる。男性にしては細い、槍を扱うものとは見えない指が彼女の顎を捕らえ、純粋な力以上に抗えない強制力をもって固定した。
 主人の赤葡萄とルージュの琥珀。物言わず、互いの視線が交差する。他人からは見つめ合う恋人同士の逢瀬、甘やかな時間に見えるだろう。しかしルージュが過ごしたのは青い胸の疼きからくるものではない呼吸難、そして摂氏零度に匹敵する冷たさに耐えねばならない、長い長い時であった。
 身長差はさほどない。それゆえに、侮蔑すら浮かばない目の圧迫が、強く心を焦がす。

「おまえは僕の忠実な手足。そうでなくなったとき僕がおまえをどうするか……わかるよね?」
「っ、……はい」
「なら余計な知恵を働かせるな。出過ぎた真似も。最後の古代種の矜持、示したいのじゃないの」
「承知致しました」

 瞼を落としてしまいたいのを爪を立てた掌の痛みで堪え、ルージュは努めて平静に、しかしわずかに震える声で応えてみせた。
 主人の指がふっとルージュの顎を離し、もはや彼女からすっかり興味が失せてしまったかようなぞんざいな所作で視線が外れる。

「さっきそこの教会支部の門前で……宣教師かな。耳障りな神の帰還論を声高に説いていたんだよね。気分が悪くて仕方なかったよ。宣教師も、そんな戯言たやすく信じる、自分自身に確固のない人間たちも」

 今はそこにない得物の感触を確かめるかのように右の手に緩く力を込め、髪の隙間からのぞく瞳に陰鬱な光を宿し。色めいた唇が、それはそれは綺麗に弧を描いた。

「譲ってほしいんだろう?」










 一対の琥珀は鮮やかな紅を映す。
 彼女の生のはじまりに刻印された、失われゆく命の色を。

 今日も彼女は主の魂を侵食せんとする怨恨のぬかるみに、躊躇いなく足を踏み入れる。