「え……もう、いない?」

 冷えきった外套にこびりついた雪を払い落とす手を止めて、柔和を体言するような穏やかな顔に渋いものを滲ませる神父をまじまじと見つめる。
 肯首した初老の神父は、三日前に会ったときより老け込んで見えた気がした。

 人社会の営みから逃れるように森の中にひっそり門を構える古びた教会を後にしたのが、三日前。
 そのとき彼女はまだ、自分の手から離れてしまった子どもの墓前に膝をついたままだった。しばらくはこのままかもしれない。でも無理に引き離すのは逆効果にしかならないことを、ここの人たちはよくわかっている。彼女には、時間が必要なのだ。
 すぐそばで見守り彼女と心を寄り添わせようとする、同じように傷を抱える人たちの存在に、いつかは気づいてくれるだろう。助け合って生きていってくれるだろう。近くはない未来を願って、おれはこの場所を離れた。

 それなのに未練がましくもう一度道を引き返し扉を叩いたのは、彼女が気になって仕方なかったから。
 誓って、一目惚れなんて浮ついた理由からじゃない。断じてない。
 食事はできているか。人と話ができているか。涙は流せているか。あとを追おうだなんて馬鹿なこと、考えていやしないか。確かめておきたかった。
 過去に似たような経過を辿った同類として、神を憎む不信仰者同士として覚えた勝手な連帯感を満足させたかっただけ。

 そうして得られた答えは、想像していた状況のうちで、下から数えた方が早いものだった。
 自分の経験を照らしあわせたら、いくらなんでも前へ進むには早すぎる。

 おれは知ってる。
 立ち上がり、急いても、足を動かす心が冷たく荒んで癒えないままではすぐに潰れてしまう。そこでまた救いの手が差し伸べる人に出会えるとは限らない。可能性として限りなく低い。人をモノのように扱う類の人間は世界中のどこでだって蔓延っている。
 そしてそういう「悪」より多いのが、自分のことで精一杯で他人なんて気にかけていられない人たち。だれだって見知らぬ他人より身内を大事にするのが当たり前だ。とりわけ、どこの国の属領でもないこのあたりの土地では、余所者は嫌われる。
 この教会に辿りついたのが幸運だったということを、彼女は知っているのだろうか。……期待はできない。

「止めなかった……わけが、ないですよね」

 溶けた雪の水分を吸い込んで湿った外套を適当に畳んだところで、盆を手にした女性が奥から姿を現した。湯気の立つスープを渡してくれたシスターに礼を言い、勧められた椅子に腰を下ろした。
 申しわけ程度に野菜くずの浮いたスープは塩気が薄かった。あたたかさが冷えきった体に、かじかんで感覚の薄くなった指先にじんわりとしみる。
 こんなところでは塩も満足に手に入らないだろうに。懲りずに雪の中再びやってきた流れ者にも惜しげなく食物を分け与えてくれる場所。彼女みたいな人の、最後の、砦。

 まぶたをおとした神父の無力を噛みしめるような表情が、言葉より雄弁な答えだった。

 どうして彼女は、このやさしい場所に自ら背を向けたのか。もう少しくらい、人のやさしさに、あたたかさに、気づかなくともひたっていたってよかっただろうに。

 きっと彼女はこの先も、差し出された手の存在に気づけない。
 気づけないまま振り払って、振り落として、彼女はどこへ向かう? なんのために?
 どこへも向かっていないし、理由もない。そんな自分に気づいていない。きっとそうなんだろうと思った。そんな生き方に覚えがあったから。

「ご存じの通り、彼女はまだ、子を失った悲しみを捨てて前へ進める段階ではありませんでした。私だけではありません、皆、止めようと。ですが――」

 外から洩れ聞こえる、ひゅうという吹雪の声。体を凍てつかせる外気に触れたわけでもなく、続く言葉を止めた神父の唇が目に見えて青ざめる。

「神の、――怒りにふれました」

 震える唇がようやっと、音を紡ぐ。

「……神?」
「彼女が発現させたあれは、紛れもなく、奇跡の力。彼女は……『神の愛し子』でした」
「神の、愛し子」

 奇跡を起こす力を神に与えられたという神の代理人。
 大陸全土に絶対的に君臨する教会が擁する、信仰の広告塔。

 彼らは乾いた大地に雨を降らせ、火種もないのに業火を生み、不治であると匙を投げられた病人をたちどころに健康にするのだという。
 彼ら自身の、そして彼らの名の下で行われる全ては許され、善とされる。
 神力と称される世界の理を自在に操る力を持つ、人とは一線を画した上位存在。

 彼女が神父の前でなにをしたのか、おれは知らない。
 それでも、神の愛し子だと断言されるような決定的ななにかを彼女は起こして、それを神父は畏れ、彼女を引き止めきれなかった。そういうことなんだろう。
 神父を責めることなんてできない。その場におれがいたとしても同じ結果しか引き起こせなかっただろうと、簡単に想像できたから。

「彼女は神を……厭っていましたが」
「そうですか。しかし、最初からそうであったとは限らないでしょう。信仰を失うほどの、よほどの出来事が起こったのではないでしょうか。でなければ、神の愛し子ともあろう方があのような状態でここにたどり着くなど」

 いっそう強く悲痛な声で、風が冷たく泣いた。
 やけに音が近くなったと思って乾いた寒気の吹き込んでくる方を見やると、いつの間にか外に通じる扉が開いていた。
 吹雪に外套の裾を遊ばれる人影がひとつ。
 白に覆われた世界を背景に、絵画のようにそこにあった。

「どうなさったか、御仁。道に迷われましたかな」

 神父は立ち上がって両手を広げ、旅人と思わしきおれに続く訪問者を迎え入れた。
 その気配に調理場から顔をのぞかせたシスターが「あら、今日はお客が多いですこと」と肩をすくめて引っ込んでいく。

 ゆっくりと歩を進めてくるのは、おれより一回り近く年上だろうか、三十代半ばにさしかかっていそうな男だった。
 一見して大柄でも小柄でもない平均的な体格だ。ただし外套からのぞく手足はがっしりとして骨太に見える。旅と薬草採集くらいでしか体を使わないおれなんて、ひとひねりで片づけられてしまいそうな腕だった。

「人を捜している」

 男は一言それだけ言うと雪にまみれた外套を脱ぎもせず、フードの下に隠したままの目であたりを見回す素振りを見せた。
 神父の纏う空気が一瞬で硬化したのを感じた。
 逃れて、密やかに身を縮めて生きる人間が、ここには幾人もいる。
 逃げるのは、追う者がいるからだ。

「金の髪の若い女が来たはずだ」

 瞬時に彼女のことだと察しがついた。神父もおれと同じ解に至ったんだろう。ほとんど断定に近い問いに、神父が調子の柔らかい、しかし断固とした拒絶を含む声色で男に応じた。

「そのような特徴の方は、この教会には数え切れないほどの訪れがあったでしょう。そしてわたしも、その全てを記憶することは難しい。残念ですがあなたのお力にはーー」
「記憶に問うは、易いな? ……神の信徒たる聖職者が嘘偽りを口にすると思うわけではないが」

 耳障りな金属音が鳴る。
 男の腰に提げられた鞘から拳ひとつ分ほど覗いた刀身が、教会内の高窓から差し込む光に反射して、白銀色にぎらりときらめいた。

「隠し立ては推奨せんぞ」

 なにをどう言えば男は納得して剣を納めてくれるだろう。
 簡単だ。知っていると言いさえすればいい。
 彼女はここにいない。どこへ行ったかもわからない。だから彼女を売り渡すことにはならない。この理屈が、神父の信仰に反しないかどうかはともかくとして。
 信条と自身の命、他の者の安全の間で葛藤するかのように押し黙る神父は、そう時間を置かずにおれと同じ結論に至るだろう。けどその前に、おれが答えを口にしようとした、そのとき。

 水をひっくり返す小さな音に、おれと神父、そして男の意識が一斉に向いた。

 視線の先にはへたりこんだシスターがいた。脇にはからからと軽快な音を立てて木のカップが転がっている。服のスカート部分の裾が濡れているのは、こぼれたスープのせいだろう。神父がすぐに駆け寄って火傷はないかと訊ねている。青い顔をこくこくと人形みたいに繰り返し動かすシスターが、裾に少しはねただけですからとつっかえつっかえ言葉を紡いだ。

「……なんなんだよ、あんた」

 一人で男と対峙する形になった――ただ単に足がすくんで動けなかっただけなんだけども――おれはシスターによって緊張の糸が切られたのをいいことに、口だけは威勢よく、震え混じりの声で男を糾弾する。

「なあ、なんなんだよ。いったい。そんな、命狙いにきましたってばればれの脅しして、はい知ってますよって簡単に言うとでも思ってるのか? それともなんだよ、あんた、彼女の子どもの父親か?!」

 ここまで言ってしまえばもう「知ってる」と言ったも同然、冷静に「そうか、ここへ来たんだな」と切りかえされるかと、言ってから気づく。
 しかし男の反応はおれの予想を斜め上に裏切るものだった。フードの中から「……こ、子ども……っ?!」と上擦った声が上がったのだ。そしておれに切っ先を向けたまま静止させてた重そうな剣をだらりと下ろし、背中を丸めて「子どもだと……?」と頭が痛そうに反復した。さらには、どこのどいつだ相手は、と背筋をざわつかせる重低音で呻いている。
 どういうことだ? もしかして、彼女を捜している理由は、害するためじゃない……?

 男はもう威嚇の形をなしていない剣と反対の手でこめかみを押さえながら、覇気の消え失せた声で訊ねてくる。

「……あれは、その子をどうした」
「死んだ。生まれてすぐに」
「…………そうか。だろうな」

 あの下種野郎が許すわけがない。囁き程度に吐き捨てられたそんな言葉を、おれの耳は拾い上げた。

「だろうな、って、なんでそんな、当然みたいに言える? だれだよ下種野郎って。知ってるのか?! 生まれた子どもが死ぬ原因を、あんたは」
「知っている」

 男のフードがはらりと背中に落ちる。
 解けかけた雪が、濡れた音と共に滑り落ち、石の床にぱたりと軽い音を立てた。

 重く陰鬱な曇天と同じ、くすんだ青灰色の前髪。その隙間から射かけてくる鮮烈な双貌が、そこにはあった。


 ――彼らはね、人を超越した存在のみに許される色を、瞳にお持ちなのですよ――


 おれが生まれ育った村には司祭さんがいた。
 どこにでもありそうな、小さな貧しい村だった。
 紙は貴重で本なんてものはおそろしく高級で。司祭さんは、村に一冊だけの分厚くて重たそうな羊皮紙の聖典を、宝物のようにいつも抱えていた。色あせ古びた表紙の聖典をめくりながら、子どもにも理解できるよう言葉をかみ砕いて話す声が、甦る。

 ――それは安らげる空と海、生物の鮮烈な血潮が混ざりあった色。つまり彼ら『愛し子』は、神と人とを繋ぐ架け橋であらせられるのです――

 その色が今、おれの前で蔑みに歪んでいるのは。
 信仰を捨てたおれをあざ笑いでもしているからなのか。

「知っているんだよ。俺は。神が、その『神』の名に恥じぬ、高潔でけがれなき全能の存在ではないことを。傲慢で、押しつけがましく自分勝手、思い通りにならないものは徹底的な排除にかかる狭量な器の持ち主であることを」
「――どうかそれ以上は口になさいますな」

 言葉の途中で割って入られ、しかし男は不快を表すわけでもなく、むしろ面白がっているようなまなざしを神父に向けた。

「ここは常世のうちで神にもっとも近き場所。教会です。ましてあなた様のお言葉であれば、天の耳は必ず聞き届けられることと存じます。自ら裁きを迎え入れるかのような発言は控えられた方が賢明でございましょう」

 男はその忠言を聞き終わらないうちに、くっ、と喉の奥を鳴らし、口元と顎を押さえてくつくつと笑いだす。こんなにおかしいことはないと言わんばかりに。
 不信仰者は笑いの合間に「裁きか。なるほど、的を射ている」と納得して、不意に、真顔で神父を見つめた。
 神父が目を伏せる。神の愛し子の全ての怒りと咎をその身に受けようというように、無防備に。
 男は不遜にふっと鼻を鳴らすと、剣をぶら下げていたままの腕を持ち上げた。

「やめ……っ」

 乾いた喉を叱咤して上げた声は震え混じり、間に入ろうと動きかけた足も膝が笑っている。自分が傷ついてでも他人を守るんだっていう自己犠牲を、おれが持っていなかったからこそなんだろう。

 「勝手が死者の特権」だって?
 そんなのは嘘だ。
 嘘だよ。

 なにも、だれもいなくなってしまった故郷の風景を想起するたびに、思う。自分だけが生き残った幸運を。不幸を。
 その表裏一体の「幸」を免罪符にしていると気づいたのはいつからだろう。理不尽な「裁き」とやらに立ち向かう覚悟も、なにも、持たない。ひとところに留まらない生活を続けるのにも崇高な理念があるわけじゃない。自分に故郷と同じ運命が降りかかることを、恐れているから。生きたいから。

 目の前で花開くはずの赤は、咲かなかった。
 鋭い一閃に斬り裂かれるとばかり思っていた空気はしんと冷たく静謐なまま。鞘鳴りが、そして刃を納めきったかちりという音がやけにゆっくり耳に届く。
 男の精悍な顔が皮肉げに、悪戯っぽく歪んだ。

「その忠言は少しばかり遅かったようだ。裁きならとうに受けた。裏切り者の烙印を押されてな」

 神父の腰ががくりと石床に落ちた。
 おれも息を吐き出して背を丸め、腹を抱える。胃が口から飛び出しそうだ。心臓も縮みあがったまま、ばくばくと鐘をつき続けている。

「……あの子も、あんたと同じなのか?」
「なにを指して同じと括るのかはことによって変わるが、押しつけられた生き方から逃げ出したという一点を指すのなら。そうだろう」

 もうこれ以上心臓に悪いことは起こらないだろう、自棄半分で訊いてみると、案外律儀に答えが返ってきた。

「あんたも追われてる?」
「質問ばかりだな。……今はもう追われていない。あちらの都合が整うまでの放逐と言えば聞こえはいいが。常に監視はされている。だからこそあれの子は死んだのだろう。よもや自然死ではなかろうよ」

 反射的に神父をかえり見る。おれの目に宿っているだろう猜疑に、神父は激しくかぶりを振った。……そうだろう。この人は、権威や金の力に屈する人ではない。第一、こんな森の中の教会ではそんな役に立たないものより、一粒の麦の方がよほど重い。
 そうでなけらばここに匿われている人たちが? それこそあり得ない。彼女より先に、理不尽に、奪われることから逃れてきた人たちだ。
 じゃあだれが――

「言っただろう。お前たちが神と呼ぶ生き物は、自分勝手で狭量で、残虐なのだと」

 おれの心を読んだかのような絶妙なタイミングで、男は答えを提示した。
 見知った相手を評するような物言いはなんだか腑に落ちなかったが、彼は神の愛し子だ。このふたつの紫玉は神の姿を捉え、映したことすらあるのかもしれない。同じように彼女も。

 神の裁き。
 それがきっと、おれから故郷の全てを奪ったもの。

 遠くに見覚えのあるような気のする稜線を、日毎に薄れていく思い出を、なぜそうなってしまったのかもわからないやりきれない嘆きを、心の奥底で蓋をしようとしても閉じきれない憎しみを、残して。

 ああそうかと納得する。
 「躯だけでも渡したくない」と言った彼女は。本当に知っていたんだ。自分から、子を奪った者がいたことを。その正体を。
 運命を呪ったわけでもなく、概念としてでもなく。神そのものによって子を奪われたと彼女は知っていた。

 きみはどこまでも、おれと似てるんだな――

「残滓だけか。あれがいないのなら用はない。邪魔をした」

 呆然としていたおれたちをよそに、男はフードを元通り目深に被って紫玉を隠し、外套の前をかき合わせる仕草をしながら外に向かって靴音を響かせる。本当に用はないらしい。
 扉に手をかける刹那、男がなにを思ったかおれたちを振り返った。その口が、にいっと弧を描き。

「お前たちがこの先もそれなりの平穏のうちに生きることを望むなら。あれと俺のことは忘れた方が、『賢明』、でしょうなあ?」

 肩を竦めて大げさにおどけてみせた。存外そういう冗談を使い慣れているのか。彼女と同類とはいってもかなり世間慣れしているようだ。

「待てよ」

 人あらざる、そういわれる色を宿した瞳が胡乱そうにおれを見た。排他的な威圧感に一瞬怯む。

 だけど、これだけは言っておきたい。
 言っておかないと後悔する。
 伝えたいんだ。

「……あんたさっきから……あれ、あれって言うけどさ。彼女は……、いや、その……たぶん、あんたも」

 もう動かない子を抱いて座り尽くしていた背中。うつろに音を紡ぐだけの口。緩慢に土を掻く手。

 神なんかよりずっとおれたちに近かった。
 すごい力を持ってるのかもしれなくても、それを抱える心は、おれたちと同じだよ。
 だって彼女は。


「人、だよ」


 男が息を止めた。フードの下から覗く見開かれた目が、ややあって、どこかまぶしいものを見るような形に変わる。

「そうか」

 ため息にも満たないかすれ声が、たった一言を噛みしめた。

 どこか静謐な響きを置いて、男は閉められた扉の向こう側に消えた。
 雪を吹きつける風の唸り声だけが、元通り、古びた教会を包んでいた。