その転機に前触れはなく07
空のために、職場まで歩いて3分の寮から隣駅のマンションに引っ越した。
休みの日だってできるだけ一緒に過ごしてる。
自分を犠牲にしてるって言われたことがあるけど、私にはそんなつもりまったくない。空が傍にいてくれる時間は心から癒される、ほっとするときなんだから。
なによりも大切な空。
空に出会えたことは、私にとってきらきら光るダイヤの鉱石と出会えたようなもの。
「で。答えでたの」
夕方過ぎて、これもう夜っていうんじゃないかって時間になってようやく戻ってきたロベルトは、開口一番そう言った。
……めっちゃ不機嫌!
機嫌バロメーター、負の方向に振り切れてんじゃなかろうか。
テンションが、……その、テレビの画面からうっそりのっそり出てくる某ホラー映画の女の人みたいなんですけど。見たことはないが。その某ホラー映画は。
目とか、3日くらい放置された魚がさらに焼かれて煮込まれて、とどめとばかりに箸で抉りだされたみたいになってるんですけど! そーいえば昔、お姉ちゃんが好んで焼き魚の目を食べてたことあるなぁ。DHAとかDHEとかを摂取したかったんだろうか……て違うよ、違う! そういう話じゃないんだよ!
つまり関わらないですむなら関わりあいになりたくない感じです。
そんなヒトになってます。
さっき出て行ったときはこんなじゃなかったと思う……。え、なんか外で機嫌下降するようなことがありました? や、もともと上機嫌だったわけじゃないけどね? このひと不機嫌じゃないときなんてあるんだろうか……笑顔とか、ホント想像できない。いつか「笑ったことある?」って訊いてみたい。失礼は承知で。
「……でましたよ」
うぅ。でも今は、不機嫌に関して触れるだけの勇気すら持てない……。
なんだかんだ文句言えるのは結局は心の中でだけなんだよ。この男に文句を口にしたところで時間の無駄ってのは、さすがに学習したからね。
あぁ、でもカムバックぷりーず。あの眠さと疲れの極限のテンション!
あれがあれば後先考えず本能に従ってツッコめるのにっ! ちょっとはすっきりするのにっ!
「でもその前にひとつだけ、ひとつだけいいですか。いいですね」
「……なに」
あれ、ロベルトちょっと引いた。眼力? 眼力のせい?
わーい、コンタクトたぶん2日以上つけっぱなしで死にそうに据わってる目が思いがけなく役に立った!
ケースはあるけど保存液なんて持ち歩いてなかったからね…………とりあえず話終わったら水保存しとこ……。よかったハードレンズで……。バッグにメガネ入れといて…………。
「私の名前、ユファリスですか。それは100歩譲って仕方なくいただくとして」
「当然――」
「フルネームで呼ばれなきゃいけないわけじゃないですよね。あれ止めてほしいんですよ。むずむずするんです」
まだ口出すな! 口を開こうとしたロベルトにぎろっと眼力を向けて遮る。あぁ、今なら目からビームくらい出せるかもしれない。
「つまり気にいらないと」
「気にいる気にいらないの問題じゃないです。じゃあ、これから私が適当に名前つけてあげますからあなた今後はそれを名乗ってください。そしたら私もユファリスと名乗りますよ」
そういう話です。
割り込まれ、主導権を奪われてなるものかとほとんど一気に言ったら息が切れたよ。
うー、酸欠。カモン酸素。
「この世界ではっ、愛称とかないんですか。ないわけないですね。なかったら自分をロディでいいなんて言いませんね」
「…………ユフィ」
「却下」
光の速さで却下!
私がなにを言いたいのかわかってくれて打開案を出してくれたのは結構だけど、それは却下。なにそのお姫様を連想させるような可愛らしい名前。よけい悪いっつの!
あ、目がコワイ。死んだ魚がもう2回くらい死んだかも……。
「ユイ、で。お願いします。てかそれ以外却下です」
私の中で溜息が似合う男ナンバーワンの座を獲得したロベルトは、海より深いテンションで、やっぱり海底をも抉りそうな重ーい溜息をついてくれた。
うん、もうそれ動じないことにした。私の精神衛生を守るために、いちいち気にしないことにした!
「……………………好きに、すれば?」
折れた。てか投げた。
ええします。好きにしますともよ。
ユイ。
ただ結花から一文字縮めただけなんだけど、気づけば友達もお姉ちゃんもみんな、私をそう呼ぶようになってた。
親愛の証ってやつ? いやいや、ただ単に最後の『花』までを言うのが面倒くさいとか、そもそも私の名前に『花』なんて可愛い漢字がついてるのが似合わないとか、そんな理由もあるかもしれない。だって私が本気でそう思ってる!
そんな感じに適当な愛称だけど、それでもこんなデリカシー皆無男に愛称で呼ばれるのは腹立たしいといえば腹立たしい。
でもさすがに、結花っていう名前はユファリスから遠かった。
ユイだったらまぁ、許容範囲内にいるかなー……と思っての提案。受諾されてなによりだ。
これで当面はユファリスなんてむずがゆい名前から解放されるー、なんて胸をなでおろしていたら。
「で。答えは」
「え?」
「え、じゃなくて。記憶力悪いのはわかってるけど、大概にしてくれる」
おぉう、そうでしたそうでした。
私この人に、自分についてくるのかついてこないのかの選択を待たせてたんだった。
……って心の中での軽口も言えなくなるくらいにコワイんですけど、今この人! ホント怖い!
どのくらい怖いかといえば、社会人になってちょっと人間関係とか仕事に慣れてきたかなーって時期に出されたレポートの提出期限が切れてることに気づいて、泣きながら夜中キーボードを叩いて作ったレポートに散々駄目出しをしつつ、私の人間性まで否定しまくってくれた先輩が背後に背負ってたオーラくらい怖い。
え、状況が見えるくらい詳しい?
そりゃそうだ。実話だ。完全に自業自得の実話だ!
そのときとだいぶ状況は違うんだけど、なんていうか、口ごたえが許されないカンジなのは同じ。ああ、そうだ。威圧感というやつだ。
私、そこまでこの人の逆鱗に触れることした覚えはないのですが。
「…………ついてきます」
「あ、そ」
これもう余計な前置きとか言わないで簡潔に答えだけ言った方がいい。
そう訴える本能を信じて結論だけ伝えてみた。ら、返ってきたのはまたしても呆気ない、しかもどーでもよさげな返事。
……この兄さんの沸点がわからん……………………。
「じゃ、ちょっとここ触ってみて」
で、出しぬけに言われた。
ここと言って示されたのは、話の間もヤツの手に収まり続けていた杖の先っちょ。そういえばこの杖ずっと持ってたな。離したところを見たことがない気がする。そんなに大事?
透きとおったキレーな水色の石、その横に、それより小さいトパーズみたいな飴色の石が3個添えられるみたいにつけられている。
なんか高そう。触っていいものなのか。でもまぁ触れというんだから触っていいんだろうな。
「……触った」
ひんやりと冷たい感触がてのひらを伝う。
……石だもんね。当たり前だね。
「そのまま。俺の名前は?」
「は? ロベルトでしょ」
「ロベルト・アシェッド。はい言って」
なんっか釈然としない。
名字知ったの今が初めてなんだってのこの野郎。いや違う。釈然としないのはこの流れだよ。
なに、なにこの意図して言わせようとしてる感じ。名前言わせてなにをしようと。流されちゃいけない気がする。すごくそんな気がする。
でもね、問題はロベルトにね。さっきの怖いカンジの残り香があるってことなんだ。うっすらやわらいだけど、あの逆らうな危険オーラ残ってるんだよ!
……それに、ここで問答して時間くっても結局そっちの方向に流される気がする。
ああ! 釈然としないけど!
「…………ロベルト・アシェッド」
「そ。ユファリス・スノーベル」
せめてもの叛意と、半眼で憮然と言ってやったその後に、ロベルトが感情の乗らない声で、私を示すものとなってしまった名前を続けた。
「――呼応せよ」
石が光った。
ふんわりとしたやわらかい、しろい光。
「はぁっ……?!」
な、なに? なになになに!!
って、手動かん! 離れん!
思わず石から手を離したと思ったのに、なんでだ。
「我が魔力宿す石を媒介に、誓約の言は示された」
なに言ってんだかわからないぼそぼそ講義(説明)のときとはとは似ても似つかない、透きとおった声。
え、なにそれ。なにその変化。
ホントに意味わかんないのだけど。
「ここに、縁に拠る結を」
ふぉっとしたしろい光、なんか私の中に入って消えたんですけど……。
「…………なに、いまの」
「なにって。契約」
あ。やっと手、離れた。……契約?
契約?! いや確かにそう言ってたけど。契約?!! 契約ってあの契約?!!
「なんの!」
「魔石呼応の契約。これで俺はどこにいようとユイの居場所がわかるようになった、そういうこと」
食ってかかる私の切実さなんてなんのその、しれっと言ってくれましたねこの男。
……え、待って。それってつまり……。
「逃げられないってことじゃん!」
「なに。逃げるつもりだったわけ」
「いや逃げないけど、先に言えよって話! ってかそれ以前に私契約に応じた覚えなんてな――……ぁ」
まさかとは思うけど、名前呼び合ったのがそうとか……言わない、よ、ね?
「呼応、の意味分かんない?」
やっぱそれか、それなのか!
一方的すぎるよ! 私、わけわからず言わされただけ!
「クーリングオフを要請する!」
「なにそれ」
「7日以内なら契約をなかったことにできる法律だ!」
「あるわけないっしょ。無理。不可」
な、なんと応用のきかない契約か!
破棄すらできない契約に事前確認の機会さえ与えてくれないのか、この世界は。いやこの男は。開いた口が塞がらんよ……。
もう、怒るとか悔しいとか、そんな感情軽く飛び越えてわけわかんない。
――呆然。
その言葉が正に、今の私を表してる。
「さて、これで前準備は整った。道行きはメルギス首都へ。ユファリス・スノーベル。我が国は貴女を賓客として歓迎しよう」
……フォローなくそんな台詞を吐くんだ。吐いちゃうんだ。吐けるんだ……。しかも棒読み。
それならいっそ歓迎するな!
ねぇ、誰だか知らんがメルギスとやらの偉いお人。じゃなきゃ仕事を回した人事担当の中間管理職さん。
これぜったい人選ミス。紛うかたなき人選ミス!
それともこんなのを割り当てられた私の運が悪いってか?!
ちょっと本気でどこいったマイナスイオンの兄ちゃん!
お願い戻って、カムバッーークっ!