前向きに歩むことこそ真理08
現代が生みだした最大の文明の利器、携帯電話(たぶん)。
いまや塾帰りの小学生のランドセル、畑仕事に精を出すおじいちゃんのポケットにまで進出したそれは現代人の標準装備と蔭でささやかれ、今やないと生活できないモノとなりあがり、幅を利かせている。
ビジネスマンには仕事の必需品。ないと仕事にならないっていう。
子どもの家族と同居しない高齢者にとっては、時には自分の命さえ救う大切なパイプライン。
ママさんはGPS機能のついた携帯を子どもに持たせることもある。やりすぎ感もなきにしもあらず。だけど、世の中物騒だしね。自衛の手段としては納得できる。
末端詐欺業界で一大ブレイクを巻き起こした、いわゆる「オ○オ○詐欺」の神器でもあるらしい。おいおい。もっとまっとうな使い道しよう!
でもそんな便利道具も使う側のスキルがなければ、途端にただの連絡手段になり下がる。
……なり下げさせたのは私ですが。なに? 文句ある?!
だって仕事で使うのは医療用のPHSだし。自分携帯は仕事中持ち歩けないからロッカーの中だし。い、言いわけだったらいくらでも湧いてくるんだからねっ。
使うっていってもたまに友達と電話で愚痴ったり、家族に近況報告したり。その程度にしか使わない。
家に電話引いてないからなにかの契約とかで書面記入するのは携帯番号なんだけど……そのわりに番号覚えてない。あれ、ちょっと待って、ほんとに何番だったっけ……。
その程度の認識なんだよ。私にとっての携帯は。
べつに仕事で使うわけでもないのに、職場に携帯忘れた人がその日一日この世の終わりみたいなことを言うらしいけど、それはない。それくらいでいちいち終わってたら今頃地球は跡形なく吹きとんでる。
そう。その程度。
だから……だからね……!
何度電源入れてもウンともスンとも反応しやがらない、あんな役立たずな軟弱ものに未練があるなんて……そんなこと、まったくもってないんだからなぁっ!
視界は開けているけど狭い空間で、私はがたがたと揺られながらクリアブラックのストラップのついた携帯をぱたんと閉じた。はぁっと苛立たしく息を吐く。
べつに持ってても使わないし。ここじゃ使う相手いないし。
あの真っ黒なディスプレイに明かりさえ灯れば、実はここにはかろうじて電波が立っていて、私の元いた世界に声が届くんじゃないか……ってご都合主義な展開は期待してない。それはないだろ。
せめて待ち受けに設定してある空の写真くらい拝みかったのに。それすら無理か、ちくしょうめ!
元々活用していたわけでもないのに、使えないとわかったら無性に悔しくなるのはなぜなのか。これはなにか、なくしてから気づいても遅いのだよ……って啓示?
無理やり自分を納得させるというこの作業…………はぁ。わびしい。
私がこの世界に持ち込んだものの中で完全に再起不能と化したのは、幸運にも携帯だけだった。
機械系はもうひとつ電子辞書を持ってたんだけど、こっちはなんとプラスチック製のケースに入れてあったために無事。いつもは使ったあと、そのままぽいっとバッグの中に放っているんだけど、その日は偶然ケースに入れたまま人に貸してケースに入って戻ってきたから起きた奇跡。私が几帳面にケースに入れるなんて奇跡のおかげじゃあない。
だからってここで何に使うんだって訊かれても困る。……あれ、何に使えるんだ?
文明の利器っていうのは、その文明が生まれた場所じゃないと無用の長物になりさがるってことを実感。だって電子辞書の使い道を思い当たらなかった。そんな実感できればしたくなかったな!
あぁ……なんか受容しきれない、したくない事実ばっかりで嫌になる。自分の現状を把握するに従って、余計に。
ま、こっちに来て全部が全部悪いことしかなかったわけじゃないけど……。
それにしても揺れる。
がたがたがたがた、いい加減にお尻痛くなってきた。
最初馬車に乗るって言われたとき、私は少なからずときめいた。
だって馬車って、馬車って言ったらさ、中世ヨーロッパの王侯貴族をイメージするでしょ。エレガントな。ロマンチック街道的な……て、それは違うか?
そんな響きに騙された。
……ねぇロベルトさんよ。名称は正しく。盛大に夢を見てしまったではないか。
これは荷馬車っていうんだよ!
帽子を被ったおっちゃんが手綱を取る荷馬車に荷台に腰を落ち着け、――本当に落ち着いてるのかと問われれば落ち着いてるとは言えない――私はエンジン音も雑踏も聞こえない、人とはたまにすれ違う程度っていう穏やかな景色に目を向けた。
最初のうち観光気分で眺めていたそれは、昔修学旅行で車窓から見たイギリスの放牧場に似ている。
そのときとは違って、今の私の周りに「同胞」を感じさせる人はいないけど。
そのままじゃ目立つと言われロベルトに渡された服を着ているせいで、自分すらこの景色の一部に溶け込めるんじゃないかと思えてくる。
片手に収まるオフホワイトの携帯だけが、私がこの世界の人間じゃないんだと証明している気がした。
「ユイ」
咎めるような呆れたような、つまり温度の低い視線を向けられて、私は渋々携帯をバッグの一番底につっこんだ。
はいはい、わかってますよ。しまえばいいんでしょ。
「わかってるなら最初から出さないでもらいたいね」
「見られてないんだからいいじゃないですか」
御者台に乗ってるおっちゃんは基本的に前を向いてるけど、何か用があって振り返った際に目に入らないとも限らない。
それにしても、そんな聞き分けのない子どもに言うみたいなもの言いしなくてもいいじゃないかい。
普通、異世界のものって興味持たないか? 私は興味しんしんだぞ。特にその、抱え込んでる杖とかに。
ねぇ、初めて携帯を見せたときも「へぇ、そう」って、うっすい反応しかくれなかったロベルトさん?
見事なまでの仏頂面で会話終了――と思いきや。
「それと、また悪くなっても俺は知んないから」
景色を見るのにも飽きて、もう一度情報整理でもしようかと手帳を開いた私を見とがめやがった。ちくしょう、目ざといな!
それでたぶん今度こそ会話終了。
ふ、フランクな会話とか……したことあります? にいさんや。
しかし、なにがという主語を欠いていたけど、残念ながら主語がなんなのか私にはわかるのだ。ふふふふふ……。
この、目になにも入っていない爽快感。
それなのに遮るものなく澄み渡る、ぼやけることもない視界。
そう。
私はこの世界の魔法の恩恵にあずかり、裸眼視力2.0(推定)という奇跡の力を手にしたのだよ!
眼鏡装着した私を見て、これまた「悪目立つ」と言ってくれたロベルトによって。このときばかりはこの失礼男に感謝したね。拝みたくなったね!
長年視力を補正し続けてくれたコンタクトよ、ありがとう。
道路で自らばりっと踏みつぶしてみたり、何度も水道に流したこともあるけどありがとう。排水溝に詰まってるんじゃないかと、洗面台の下の水道管を分解してみた涙ぐましい努力も、一緒に忘れない。あれは手袋なしに触れなかった……。
コンタクトに疲弊させられた目のオアシスとなってくれた眼鏡よ、ありがとう。
ケースに入れずに床に放置したせいで危うく踏みかけた数なんて数えるのも馬鹿らしい。あ、尻で潰して根元を折ったことも。
…………私はどんだけ粗雑な扱いをしてきたんだろうか……。
き、きみたちの犠牲は忘れない、よっ……?
……しかし、だったらあんたはどうだというのだねロベルトさんよ。
暗に「また目が悪くなる」って自分で言ったのと同じ条件下で、あんただって頭痛くなりそうな、ていうか私だったら読む前に挫けること確実な厚みのレポートっぽいもの読んでんじゃん。これに乗った直後からずっと、わき目もふらず。
私の体感時間で2時間くらいは経ってますよー!
ええ、ええ。
そのときは自分で治すからいいんでしょうとも。
てか、この時間にまた一般常識とかを教えてもらえるんじゃないかという期待は、どこへやったらよかったのでしょう。
明らかに「邪魔するな」オーラを背負うこの案内人に、自分で切り出す勇気を持てなかった私がへたれているというのでしょうか。
会話のできる同道者がほしいと切に思う、異世界生活のはじめ。