盾なりし知識、枷なりき特質 17
『汚染された空気に慣れきった現代人にとって、なんの汚染物質も含まない空気は毒である』
私は、いつかどこかの環境学者が言ったのかもしれない、そんな机上の空論を、心のどこかで信じてた。
心はふとしたきっかけで、簡単に泥の中に沈みこんでしまうから。
そんな時でもせめて、顔くらいは上げていたかった。
そうと決めたのはいつだったかなんて覚えてない。気づいたときから当たり前みたいに決まってた、私が課した決まりごと。
『結花はいいね、悩みごとなんてなさそうで』
社会人になって数カ月って頃だったかな。暗い顔した同期に、そんなことを言われた。
心外だった。私にだって悩みはあった。
当然じゃないの? つい最近まで国家試験の合格だけを考えて勉強一色だった学生が、ぽんと社会に放り出されて社会のルールとか慣れない人間関係とか、どうしたってうまくいくわけない仕事に追われてるんだから。悩みの一つも持たない方が逆に心配だ。
その子は結局、一年持たずに辞めてしまった。
今はどうしてるんだろう。それ以来連絡もとってないからわからないけど、また笑えるようになっていればいいなと思ってる。
ため息ついて下を向くのは簡単で、とても楽なことだよ。
でもね。
しんどくて、体が重たくて落ち込んだ時にこそ、私は上を向くべきだって思うんだ。
空を見上げるたびに、元気をもらえる気がした。
雲に紫がかった陰影をつくるオレンジ色の空に、暗闇にはなりきれない空に淡い光を浮かべる星に、『今日も頑張ったね』って誉めてもらえる気がしたから。
心の底に、ふわっとした力強さみたいなものが沸き起こる気がしたから。
私がいつも見上げてた空は。
綺麗だと思ってた空は、やっぱり人間の手で汚された空なんだって――この、違う世界に来て……はっきりと、手に取るようにわかってしまった。
霞もなにもかかっていない青い空は、なんて高く、遠くまでつき抜けているんだろう。
高いビルにも電線にも邪魔されない風景は、なんて美しい、一枚の絵画みたいなんだろう。
綺麗で、どこまでも澄んだ空気に包まれた世界。
ここはきっとそんな世界。
そして誰にとっても当たり前で、空気の清浄さになんてなんのありがたみも感じない、羨ましくも憎らしささえ感じる世界。
私は今、そんな場所にいる。
私の肺は、この世界の空気を毒とはしていない。
だからきっと地球はまだ――取り返しがきかないほどに汚れきっているわけじゃなかったんだろうな。
それを、あの世界の……だれでもいい。だれか一人にでもいい。
机上の空論にもとづいた、信憑性の低い実験サンプルにしかならないけど。
伝えられればよかったのにね。
いつか、この見慣れない空を見上げたときに勇気や元気を分け与えてもらえるような日がきても。
あの泣きたいような笑いだしたくなるような気持ちをくれた、とろけそうな夕日は。
忘れることはできないと思う。
許容量を超えると逆に冷静になるってホントだったみたいです。
いやいや冷静なんてもの今の私にはないな。少なくともこの世界に来てからの私にはない。も、元々なかったから仕方ないなんて言わせないんだからなぁっ!
許容量メーターが傍目には通常値だけど、実は一回転してそう見えてるだけってかんじ。規定は1sまでだけど、実測もうちょっとくらいまで量れるアナログの重量計みたいな。
……はい、馬鹿なこと考えて逃避しない。現実から目を逸らさないーっ!
前に進まない馬鹿馬鹿しい思考を、頭かかえながら繰り返しております現在です。冷静なんて言ってごめんなさいやっぱり嘘ですすみません。
救われてるのは、私が今一人だってことくらいだな。
ここ、王様の出待ちしてたゲストルームですたぶん。よろよろ入ってってちゃんと見てないから確実じゃないってだけで、たぶん同じ部屋。
ロベルトはなんか、お兄さんに呼ばれて行ってしまいました。アーネストさんも一緒に。
なーんかロベルトの雰囲気が、今までで最高潮にどん底で剣呑だったのが気になるんだけどね。アーネストさんにガン飛ばしてたし。だ、大丈夫?! 不敬罪とか大丈夫?!
ガン飛ばしてたといえば、さりげなくアーネストさんとスヴェンさんも互いに飛ばしあってたな。うん、さりげなく。ホントそれがデフォルト、当たり前な感じに。…………仲、悪そうですね。こっちの心臓まで悪くなるわ。
「あーうー…………」
こーれはマジに見られたくないわー……またもやテーブルに突っ伏して、思い出したみたいに時々、うめき声とか奇声あげて百面相してる場面。かきまわしたせいで髪の毛ぐっちゃぐちゃだし。
誰かに見られてたらやってない。できない。さすがにそこまでイタイ人にはなりきれない……。
つーか王様!
王様だよ諸悪の、もといロベルトの説明不足によるストレスの根源だったのは!
え、なに。帰りたいって思わないってなにさ。
確かに思わなかったけど、なんで。なにそれー……?
なに言われたのか理解できずに完全停止、ただし頭の中は高速回転で無意味な思考を回す私にかまわず。
王様は続けやがりましたのです、あのあと。
「うんうん。ちゃんと命令どうりにやったなー。よし、誉めてやろうロベルト」
……王様ー。
エアーブレイカーって呼んでもいいですかーー。
底抜けに楽しそーうな王様に対し、どこまでも低テンションなロベルトよいいのかそれで。「はぁ」ってなんだ。適当すぎるだろ。
適当って悪い意味の適当ね。丁度よくていい感じーって方のじゃなくてね。
……って待て待て待てなんでそこでロベルトが出てくる。
無関係を貫き通そうとしてるとばかり思ってたやつが、なんで今になって。あ、ロベルトも迷惑そう。こっちに話ふるなって顔してる。王様相手に正直なやつだな。そしてロベルトって結構顔に出るタイプだな
「……陛下」
バルクレフさんがおずおずと、ひっじょーうに言いにくそうにお伺いを立てました。その腰の低さが非常に似合ってるなんて失礼極まりないこと考えたなんて、秘密なんだからっ。
「うん?」
「…………先の問いをするなと、ロベルトに命を?」
「したが?」
なにを当然、をわかりやすく体現してくれてます王様。
ぶっちゃけ私、バルクレフさんがなにをそんなに頭抱えてるのかわかりません。
「こんな機会、俺が王やってる間に二度も訪れるわけじゃなし。自分で確かめたいじゃないか」
え。
え?
なんで? なんで皆さま、そこでふっかーーいため息の合唱??
暗黙の了解ってやつですか? せ、説明を……っ、だからあなたがた、当の本人を置いてきぼりにしないでよ−!
「……あー……そういうことですか…………」
マイナスイオンさん……いやいや違ったクルセイドさんだった。そのうちうっかり呼んじゃいそうだな!
一人で納得してないで。どういうことですかっ。
「あ、あのぅ……?」
堪えきれずにとうとう、っつってもかなり遠慮っぽく腰を低めてお伺い。あう、バルクレフさんを笑えない。
縋る先は当然。
「いや、まぁ……ね? あのロベルトがどうして徹底して無関心を貫いているのかなぁと。不機嫌は想定内だけれど……」
いやいやそれじゃわかりませんから。
あからさまに「はぁっ?」って顔したら、ちらっとロベルトの方向いてから困った感じに愛想笑われた。
……ま、負けないっ!
必殺、上目づかいに白い目で睨んでみよう無言攻撃。視線を外してやるもんか。
「…………あー……つまり、ね?」
勝った。
よし、このにいさんはロベルトなんかよりよっぽど陥落させやすい!
クルセイドさんの言うことには。
ロベルトって、好奇心の塊が服着て歩いてる人なんだそうです。
……いやいやどんな冗談だ。
あれはどう見ても無関心の塊が世間に目を背けて隠居してるようなもんだろう。
でも、そうなんだそうです。
いやだから…………なんの冗談。
「……始終、仏頂面で、満足に私の質問に答えてもくれませんでしたけど」
「うん。きみを質問攻めにしたくて仕方ないんだけど、『元の世界に帰りたいのか』って質問をするなって命じられたもんだから、一度始めたらついはずみでそれも訊いちゃいそうで自制してたんじゃない? ねぇ?」
あ、また目ぇ逸らした。
じゃあこれホント話?
……………………えー……?
つまり王様命令がなかったら、ロベルトはもっと説明してくれたってことだよねぇ?!
…………お……。
おのれ王様ぁーっ!!
なんて怒りをあらわにできたら……よかったのになぁ。
私、権力には屈服する性質でございます。ことなかれ主義万歳。長いものには巻かれろ。うん、典型的な日本人気質ー。
ですのでここで、悶々と鬱屈としているわけです。ここに来てからこんなんばっかだ!
「ユファリス。ちょっといいかな」
こん、っていう音の後、扉の向こうからそんな声がした。
…………待って!
「ちょ、ちょっと待ってください待って!」
ホント待って!
この状態はとても人に見せられない。主に髪、ひどい!
「少しは落ち着いたかと思ってね。どうかな」
5分くらい外で待たせたっていうのに……輝かしいロイヤルスマイルでそんなこと言ってくれるなんて、あなたはなんていうマイナスイオンなんですか。うう、涙が出そう。
「少し、ですけど」
「そう。でも少しでも落ち着けたのならよかった」
あーっ、優しいーーっ!
ひとのやさしさってこんなにも身に沁みるんですねー! どこかのだれかさんとは違ってねー!
温泉に浸かってる感覚。じんわりしみる。
「不快な思いをさせてしまってすまないね。叔父は普段からああいう人だから……いやさすがに外交の場ではそれなりにしているけれども。悪気は少しくらいしかないんだ」
あるのかよ悪気。
悪気ないよりタチ悪い。
「もしよければ、会ってほしい人がいるんだ。ロベルトはちょっと用事があってしばらくは戻ってこないから、その間にでもと思ったのだけれど……どうかな」
ちょっとマイナスイオンな会話を交わしたあとクルセイドさんが持ちかけてきた提案に、私は一も二もなく飛びついた。断る理由もなかった。
ロベルトがなんの用事かなんて考えもせずにね。
未来の私がこの頃を思い出したとき、勝手にこの世界での運命の出会いだと信じているものが4つ、ある。
これから出会うことになる『その子』との出会いは、真実そのうちの一つだってこと。
当然だけど、このときの私が知ることはなかったんだ。