自分の力を示すために暴力って力を振りかざす。
 都合が悪くなると、おれたち子どもが全部悪いとでも言いたそうに逃げていく。
 見えてるくせに見えないふりして顔を背ける。




 それが大人。
 おれにとっての大人。

 守られるもののない、手荒にしても誰も文句をつけない子どもってだけで、やつらはおれたちを標的にする。

 すれ違うだけで突き刺さる、汚いものを見る目にはもう慣れた。
 同じだよ。
 そういうおまえらだってゴミ屑なんだって、どうして気づかない?
 知らないふりで見向きもせずに通り過ぎていくやつらも同じだよ。おれたちのこといないものだって勝手に決めて、勝手に忘れていくんだろ?

 最低だよ。
 おれたちと変わりやしないんだよ。


 生きてやる。


 死んでたまるか。殺されてたまるか。こんな世界に。


 生きて、生きて。
 大人になって、強くなって。
 おれを蹴り飛ばして笑っていたやつらを、今度はおれが踏みつぶしてやる。

 そのためだけに。


 こんなクソみたいな世界に這いつくばって生きている。




光の庭 1






「ちょーっとお待ちなさいな。少年」


 素知らぬ顔で脇をすり抜けようとしたところで、襟首を猫のようにつかまれた。
 足だけが前に進もうと地を蹴る。しかし叶わない。危うく尻もちをつきそうになったところで踏みとどまった。


(……しくった)


 彼は年齢不相応の舌打ちとともに、早々に抵抗をやめた。
 抵抗することの無意味さはよくわかっていた。

 整った長い金色の髪。別段豪華というわけではないが、いい生地の服。暢気そうな雰囲気を不用心に放つ、連れのいない女。
 ターゲットにするには十分すぎる要素を持ったこの女に近づいたのは、誤った判断だったようだ。
 成功しないわけがない、と。
 そう踏んだのに。このざまだ。

 こうして捕まってしまっては、彼は大人に敵わない。下手に逃れようとすれば殴られる。よけいに痛い思いをする。そんな愚を犯すほど、彼はもう馬鹿ではない。

「はい質問。左手に持っているものは何かしら」
「……べつに」
「うん。はい、じゃあこっちでゆっくりお話しましょうか?」

 女は彼の襟首を掴んだまま、容赦なく路地裏へと向かった。
 その場で警備の軍人でも呼ばれるだろうと思っていたのに、当てが外れた彼は渋面になる。どうせならそちらに引き渡してもらった方がよかった。常習の彼は駐在軍人に顔が知れている。運が良ければ「またお前か」と見逃してもらえることもあったからだ。

 仕事場へ向かったり市場が開き始める時間帯。
 買い物客にあふれる昼さなかには及ばないが、人通りは少なくない。体が覚醒していないのと、この先の予定で頭がいっぱいな注意力散漫な者が多いのを理由に、彼はこの時間を狙って仕事をしていた。
 そのおかげで、彼が首根っこを掴まれて引きずられる姿は町の住人の多くの目に触れ、侮蔑のまなざしを、あるいは失笑を買っている。
 彼にとっては慣れた、さしてどうということもないことだったけれど。

 ようやく手が離れ、彼はほっと息をつく。安堵ではなく、単に息が苦しかったからという生理的な理由の吐息を。
 視線を上げた彼の鉄色の瞳に映ったのは、一見して優しそうな雰囲気の女だった。
 同時に、警戒心が強まる。
 こういう相手こそ信用してはいけないと彼は知っていた。優しいふりをして近づいて、こちらの油断を待っているかもしれないのだから。

「まずは、返すべきものを返してもらいましょうか」
「…………」

 喧騒が遠い。
 大通りから脇道、建物の影に入ったというだけで、どこか隔絶されている。
 そんな感覚の中で、彼は左手の中にある布袋を強く握りしめる。硬貨の感触に混じる、さわり、という紙幣の存在が厭わしかった。


 ――ひさしぶりに腹いっぱい食えたかもしれないのに。


 ぎり、と奥歯を噛みしめる。
 意識するとそれだけで空腹を思い出した。
 一昨日から水しか口にしていない。一昨日も昨日も、アガリは全部あいつらに取られてしまったから。

 この金が手に入って、あいつらに見つからないよう上手く隠せれば――彼は思う。
 紙幣の桁にもよるが、一週間、いや一カ月の命が繋がったかもしれない。
 それを。


 ――アンタはいったい、どんだけの短い時間で使いきるってんだ?


 彼はぎっ、と女を見上げ、鉄色の瞳で睨みつけた。
 陰鬱とした中に、およそ外見に相応しいとは思えない圧力を放つ瞳で。

「それはあなたのもの、かしらね? そうだったら無理を言うつもりはないわ。それを持ってどこへなりともどうぞ?」

 その物言いが。
 ひどく、癇に障った。


 ばしぃんっっ!


 甲高い音を立てて叩きつけられた布袋が石畳に転がった。衝撃で口が緩み硬貨が散らばる。
 女は自分の足元に散らばる硬貨を拾うでもなく、ちょっと困ったように眉を下げ、先ほどと寸分変わらぬ調子で言葉を続ける。

「私、あなたを怒る筋合いはあっても、怒られる筋合いはないと思うのよ」
「……っ、るっせぇだまれ! アンタのその言い方、すっげえむかつく! なに。おれのものだって言えばこの金よこしてくれたのかよ!」

「ええ」

 女は彼に視線を合わせて膝をつき、場違いにもにこりと微笑む。


「手にした時点で盗んだ財布を自分のものだと主張できるくらいの恥知らずだったら、よほどこういう生き方が似合っているのでしょうね。あなたがどこで野垂れ死のうと相手にしないつもりだったのだけど」


 慣れている割には、それなりの矜持を持ち合わせているみたいね?

 言葉と表情が、これでもかというほどかみ合わない。
 悪意をまったく感じさせない晴れやかな笑顔で辛辣な毒を吐く人間というものを、彼は初めて目の当たりにした。だって彼の周りには、悪意を持って罵声を浴びせてくる者しかいなかった。
 この女は暴力を振りかざしたりキンキン怒鳴ってはこないけど。面倒くさい類の人間だ。関わらない方がいい。
 彼は直感的にそう判断した。

「……もういいだろ。返したし。警備に突き出すつもりないなら、おれ行くから」

 激情が嘘のように引いた、静かな、だが切りつけるような声で。
 関わってくれるな。これ以上入ってくれるな。
 そう、言っているのに。

「でもそうしたらあなた、また同じことをしに行くのでしょう?」
「……アンタに関係あんの?」

 もはや少年の瞳には、先ほど怒鳴り散らした時の覇気はない。
 ほらさっそく面倒くさいことを言ってきたと言わんばかりに、うっとおしそうに振り返った彼の虚ろな瞳を、女は覗きこみ。


「あなた、年はいくつ?」


 話の流れを見事に折った。

 無視してしまえばいいのに、彼は律義に足を止めたままで。
 しばしの沈黙の後、投げやりに答える。

「しらねぇよ」

 少年は自分の年齢を知らない。
 仲間は皆そんなやつらがほとんどだ。背丈から考えてたぶん6歳かその位なのだろうが、確実とはいえない。しかし別に年齢など知らなくても問題なかった。ただ、小さいことを馬鹿にされ、同じグループのあいつらに取り分を強引にちょろまかされることだけはむかつくが。


「名前は?」
「忘れた」


 名前くらいあったのだろうが、生きることに必死すぎて忘れてしまった。
 なくたって問題なかった。チビとかカスとか呼ばれているから、それが名前といえば名前だろうか。


「家族は?」
「……この流れでいると思うわけ、アンタ」
「うん。思わない」


 うざったい。
 にこ、と向けられた意味不明の笑顔は、もはやこの少年には胡散臭い印象しか与えない。

「それ同情とかそういうの? そういうのやめてくれる? うっざいから」

 女が一瞬目を瞬かせ、またすぐに何を考えているのかわからない微笑に戻る。
 彼は、同情の施しは大嫌いだった。仲間内では境遇を利用して小銭やパンを稼いでくる者たちもいるが、彼はそれだけはしたくないと思っている。

 気まぐれの偽善につき合ってやるほどこっちは暇じゃない。
 そういう、ある種のプライドを持っていたから。

「んー……同情じゃなければよいの?」
「……同情じゃなけりゃ、なんだってんだよ」


「うん。興味」


 とても楽しそうに言いきった女は、今度は彼の腕を掴んで有無を言わさず引きずった。

「ちょっ、アンタなにすっ……っ、放せよクソっ!」
「さーついていらっしゃいな少年ー」

 少年の今度こその抵抗など意にも介さず、女は誰に向けているのか無駄な笑顔をまき散らして歩を進める。
 渾身の力を足に込め、引きずられるものかと踏ん張っても、女の力は存外強い。

「こんっの……これ人さらいだぞアンタっ! どこ連れてくつもりだっ、放せっ!!」
「あははー、それいいわね。人さらい。的を得ていないわけでもない」

 ぎゃあぎゃあと喚く少年と、それをやんわり笑い飛ばす女。見ようによっては微笑ましいが、引きずられる側の本人にとっては非常事態な構図だ。




 一歩ずつ、しかし確実に向かう。
 光の差す場所へ。




   2009.11.15