「…………アンタってさぁ……」
服を選んでは彼にあてがい、「似合わない」と言ってはまた次の服を……そんなことを何度繰り返しただろうか。
そんな行動に及ぶ理由が、まったくもって理解できない。
ちらちらとこちらを盗み見る店の主人は少年の目にも明らかに不機嫌だったが、女が気にする様子は見受けられない。――少しは気にしろ。馬鹿らしいがつい思ってしまう。
誰だって自分の店の商品が、清潔とは無縁な風体の子どもに扱われるのは気に入らない。それでも何も言われないのは、女の外見がいかにも金を出してくれそうな上客で、なお且つ少年本人が服には触れていないからだろう。彼が指一本でも商品に触れようものならすかさず文句がとんでくるに違いない。きっと店主はそのために目を光らせている。
「……ありがたメイワクって言葉、知ってる?」
少年の視線は果てしなく遠い。
疲労が多分に滲んでいるのは、既に小一時間この女につき合わされているからだ。それでも彼の口から文句が出てこないのは……既に散々言ったが相手にされず、言っても無駄だと悟ったがゆえだ。
人はそれを諦めという。
「あ。一応ありがたいと思ってはいるんだ?」
嬉々として振り返った女の手には、やはりというべきか服が握られていて。彼はこの拷問がまだ続くことを知り、のろのろと体を引きずって店の隅っこに座り込んで膝を抱えた。
溜息。
光の庭 2
女の気が逸れているうちに逃げることも何度か考えた。が、その度に思い直している。
自分に服を買ってくれるつもりらしい。どうせなら、それをありがたく頂いた後に逃げた方が都合がいいのではないだろうか、売り払って金を得ればこの苦労に見合うどころか遥かに突き抜けるくらいの稼ぎになる、と思いついたのだ。
――これは仕事。そう、待ってるだけで金が手に入るぼろい仕事なんだ。
そう自分に言い聞かせても、暇で、退屈で、苛々するのはどうしようもない。
彼にとって服というのは防寒のために纏うものであって、色や形などどうだっていい。今はいている靴も左右で全く違うものだし、サイズも大きくぶかぶかだ。しかしそんなものを気にしていたら生きてこれていない。
数日前から冷え込みが強くなった。
去年は隠れ家にまで入り込んできた吹雪のおかげで危うく死にかけたから、厚めの服が手に入るならそれは正直ありがたい。一着くらい手元に残しておいてもいいだろう。
そんな皮算用も、ここまで長く待たされると最早どうでもよくなってくる。
いっそのこと適当に選んで「これでいい」と押しつけてやりたかったが、鼻歌でも飛ばしそうな勢いで楽しそうな女の様子に、その行動に意味はないだろうと推測する。彼は諦めが早い。
結局。
女が選び抜いた大量の服をわさっとカウンターに置いたのは、少年にとって気が遠くなる時間が経過した後だった。
「そんなに戦争の影響を受けているわけでもないのね。この辺りは輸入品に頼らないとやっていけないでしょうに」
(今度は世間話はじめんの?!)
少年の中で一瞬ふくらんだ期待は、大きくなったのと同じ勢いで一気になかったことになる。ようやく見え始めた解放への第一歩は、またも遠のいた気がした。
「ああ、まぁその通りだが……うちは特に痛手はないね。最短ルートを潰されて、ほんの少し原価が上がっちまったくらいさ。いい迷惑してるよ。全部で12着、1と7600シルグ」
「じゃあ切りよく1ルークで」
言い切った。満面の笑顔で。
……………………間。
「……嬢さん。人の話、聞いてたかい」
衝撃から立ち直った店主が、白い目を女に向ける。
それにめげるどころか。
「ええもちろん。だめ? 仕方ない、じゃあ1と3000」
「馬鹿言っちゃいかんよ。1と7000。これが最大譲歩」
「……そう。じゃいいわ。二軒隣行くから」
そう言った途端。
店主の顔が見る間に青くなり、そして一瞬後には赤くなる。
「ま、待ったっ!」
「はい?」
有言即実行とばかりに少年を手招きして店を出ようとする女を、焦ったように声を荒げた店主が止める。カウンターに片手をついて、言葉通りのリアクションで。
「1と5000。それ以上は負けられんね。俺がかみさんに殺されちまう」
「ん、交渉成立」
悪気の感じられない柔和な笑顔。しかしやっているのはおばさん顔負けの立派な値切りだ。
店主は想像もしていなかっただろう。
一見して人の言うことに逆らいそうもない外見の女が、こんな暴挙に出るなどと。しかも計画的。店主が二軒隣の店の主人と険悪な仲なのを下調べ済みなのは明白だ。
だれに聞いたのか自分で調べたのかは知れないが、それを実行に移すとなれば話は別だ。それなりのスキルと性格なしに実行できるものではない。
――この手口と表情の使い方、かなりの手練。
そんな確信を持った店主には、もはやこの客の笑顔から胡散臭さしか感じ取れずにいた。
「ところでここ、元々イヴァンの方から仕入れていた?」
「いいや。流通してる布の値段はエレンシアの方が安いんだが、今はイヴァン産の方が質がいいんだ」
世間話は引き続く。
「エレンシアのは最近になってほとんどが、布目が荒いわ手触りが悪いわ、質が落ち込んでね。で、価値が低いくせに上乗せ分が高いときてる。誰かさんの懐に入る分のな。まともな考えの店はイヴァンの方に切り替えたよ。まぁ、ルートによってはその限りでもないが」
東の小国エレンシアが、その国土の数倍を有する魔術大国イヴァンの国境を侵犯したのは2カ月前。
兼ねてより折り合いの悪かった二国の仲は、数十年前のある出来事を契機に、近隣諸国からも修復不能と言われるほどに落ち込んだ。それでも大陸において絶大な覇権を握るイヴァンが表立って軍を上げることはなく経過していたのだが、その均衡はエレンシア側から崩されることとなった。
しかし一度侵された国境はすぐに取り返された。それにとどまらず、逆にエレンシアの領地がいくつか占領されているらしい。
2か月という短期間で、エレンシアの敗色は既に濃厚となっていた。
二国の国境と隣接する、この輸入都市に入ってくるエレンシア産の布の質が落ちたのは、開戦して間もない時期だという。自国を賄うのが精いっぱいで、輸出に力を入れる余裕を初期の時点で失っていた証だろう。
「誰から見ても負け戦だったしな。質も値段もそのままだったとしても、俺は取引先をイヴァンに切り替えたよ」
質が落ち込んだのは、その決定打になっただけの話。
たたんだ服を袋に詰めながら、店主はそう言って肩をすくめた。
「……戦後のこと考えてるのかしらね、エレンシアは」
「さあ。考えてたらイヴァンに喧嘩ふっかけるなんて馬鹿な真似はせんだろう。ありゃ戦争じゃないね。狼に小型犬が噛みつこうとしてるだけさ」
「確かに。で、はい1ルーク」
「……そろそろ、怒るぞ?」
「あははは。冗談冗談」
カウンターに出された銀の硬貨一枚に、5枚の紙幣が添えられる。
冗談にしては渋々と。
「嬢さん。あんた、間違っても二軒隣に足を踏み入れないでくれよ」
帰り際、店主は力強く念押しするのを忘れなかった。
「アンタなに2000以上も値切ってんの」
「ふふふ。こういうのは戦略的勝利というのよ? それとね、ひとついいかな」
服の入った買い物袋を自分に持たせる気がないらしいことに不満を抱きながら、少年は女の金色尻尾が揺れる背中を追う。渡されたら人の往来に紛れて逃げてしまおうと考えていたのに、またしても当てが外れた。
「リィン」
「は?」
そんな言葉が女の口から飛び出る。
何の脈絡もない言葉――に思える言葉。
――ただの『音』を言葉にしただけなのか、それとも何かの固有名詞なのか。そもそもただのひとり言だったのか。いや、自分と話していたはずなのだからひとり言ということはないだろう――
疑問符を頭に飛ばし、反応すべきかこのまま無視すべきか考えあぐねている少年に、答えがあっけなく投げられる。
「アンタじゃなくて、リィン。私の名前」
そこで初めて、少年は自分が女の名前を知らなかったことに気づく。
名を尋ねるという考えすら浮かばなかった。こうして知った今も、気まぐれで近づき通り過ぎていくだけの人間の名前など意味はないと思う。
彼にとって、それは単なる記号にすぎないから。
「……ヘンな名前」
感想は、真実それだけだった。
鈴の音。
この名前をつけた人はよほど単純でセンスがなかったんだろう――彼はそんなことを頭の片隅で考える。
「ヘンとか言わないのー」
「あだだだだっ」
頬をつねり上げられて少年は悲鳴を上げた。
あっけなく離されたその跡はしかし、赤く残っている。
「名前はね。そのひとの全てを表す一番短い言葉であると同時に、初めてもらう守護なのよ」
「…………へー」
「名前は汚されてはならないもの。だからそういう言葉は軽々しく口に出しては駄目。わかったかなラトくん」
「……はいはいわかっ……………………は……?」
えも言わさぬ奇妙な力に圧され、仕方なく「わかった」と言いかけて。
途中で違和感に気づいた。
――今、この女、おれに向かって話していたよな?
だったら何だ。
その。
最後の。
ラトくん、てのは。
突然目の前に化け物が現れて、どんなリアクションをとればいいのかすらわからない――
そんな、どこか途方に暮れた少年がそこにいた。
「どうかした?」
「……どうかした」
「うん、じゃどうしたの?」
「ってか、アンタの方がどうかしてる。なに――その、ラトって」
「え。名前」
少年は頭が痛いような、ぐるぐる回るような錯覚を覚えた。頭痛なんてもの、生まれてこのかた経験したことがないというのに。
「…………だれの」
「あなたの」
「…………………………………………ナニその笑えないじょーだん」
「え。笑えなくてもいいし冗談でもないんだけど」
この、いかにも普通にどこにでもいそうな買い物袋を抱えた女が、魔物に見える。
「なに勝手に人の名前つくってんの」
「名前がないと不便でしょう。主に私が」
「おれはべつに困ってない!」
「うん。それは知ってる。だから、私が困らないように」
「だから…………っ!」
リィンというらしい女は何を怒られているのかわかっていないのか、わかっているが聞く気がないのか、ほやんとした態度を崩さない。
後者だ。絶対的に。
それを確信した少年は、怒る気力を失くす。腹が減るだけだと。
「……ホンットおうぼうだな、アンタ」
「だからアンタじゃなくてリィンだって言ったでしょう? さっき」
「アンタなんかアンタで十分だ」
ラト。
心の中で、頭の中で、反芻する。
が、しっくりこない。
これが名前だといわれても、納得できるものじゃない。しかもどうして出会ったばかりの信用ならない人間に名前をつけられなければならないのか疑問に思う。
「……ヘンな、なまえ。犬みてぇ」
――自分で自分の名前をけなすのは、しゅご、とやらを汚したことになるんだろうか?
や、べつにこれを自分の名前って認めたわけじゃねぇけど。
慌てて心の中でつけ加えた。