ウエイターが次々と料理の載った皿を運んでくる。
 最終的に二人用のテーブルに所狭しと並べられたその全てが、少年にとっては見たことすらない。湯気が立っている食べ物自体、こんな間近で目にしたことはなかった。

「……おれ、払えねぇから」
「うん知ってる。何度も聞いた。あったら人の財布に手なんか出してないものね?」
「…………」
「だから、何度も言うけど。心配しなくてもラトくんに払わせたりしないわよ」

 彼はそれを聞いた後も、女と料理を訝しげに何度も何度も見比べていた。そして恐る恐る、距離を測るようにロースト肉に手を伸ばし――勢いよくかぶりつく。

 そうなったらもう躊躇いはない。
 マナーという言葉に正面から喧嘩を売っているその食べ方に、ウエイターが眉をひそめた。食事時を過ぎてはいたがちらほらとはいた周囲の客の、自分では潜めているつもりだろう声が漏れ聞こえる。

 それでもリィンは何も言わず、小奇麗になった少年が手づかみで皿を攻略していくその様を、ただ微笑ましげに見ているだけだった。




光の庭 3






 話はそれより少し前にさかのぼる。




「ってぇ!」
「あぁー、見事に絡まってるのね」

 思わず上がった声に形の謝罪すらない。
 もとよりそのつもりだったのだろう。ぼさぼさの髪に入れた櫛を力任せに進めようとした張本人は、用意してあったハサミでざくざくと切ってゆく。迷いが一切ない。

 ぱさり。ばさり。

 地面に落ちていく自分の髪。その予想以上の量に、少年はそこはかとない恐怖を覚えた。

「…………切りすぎじゃねぇ?」
「大丈夫大丈夫。けっこう前に切ってやってたことがあるんだから。懐かしいなー。……まぁおおむね不評だったんだけどねー」
「それ、だいじょーぶじゃねぇじゃん!」
「大丈夫だってば。はい終わった。よしよし、これで通るようになった」

 それでも、力任せ的な何かは否めなかったが。

 ある程度髪の埃や汚れを落とした少年を連れて宿に入ったリィンは「時間が早すぎる」と女将に渋られた浴場の使用権を、追加料金を払って獲得する。

 少年は容赦なく頭からどばっと湯をかけられ、わしゃわしゃと磨かれるその間も。

 彼女は何度も「懐かしい」を口にしていたのだった。




「ふふ。それ全部食べちゃってね」

 一度洗った程度で髪のつやは得られない。一度十分な食事を摂った程度で子ども特有の頬のやわらかさは取り戻せない。
 それでも確かに少年の灰色の髪はいくらかの明るさを、同じ色の瞳は輝きを得ている。


 生きることに貪欲。


 彼女にとって、「理由」はそれだけで十分だった。

「……アンタは、食わねぇ、の」
「私はこれだけでいいの。あと、せめて口の中のものは片づけてから喋りましょうね」

 それだけを注意して、リィンはコーヒーのカップに手を伸ばした。




 テーブルに並ぶ料理全体の半分ほど平らげたところで、少年の手が止まった。
 リィンが注文した料理は子どもが一人で食べきれる量を遥かに超えていた。もちろん彼女とて、全てを食べきれると思っていたわけではない。
 ただ、あまりに唐突にぴたりと手が止まったので。

「どうかした?」

 リィンはつい1〜2時間前にも言った言葉を、再び繰り返す。

「あのさ」

 ソースやらスープやらを口元につけたまま、それを拭いもせずに少年は切りだした。

「おれには聞いとく『けんり』があると思うんだけど」
「? 何を?」




「おれを売り物にすることで、おれの『りえき』は何なワケ?」




 冷めきった鉄色の瞳。
 そして少しの温度も感じさせない言葉に、リィンは自分がどういう種類のものに思われていたのかを理解する。

「……………………あぁー……。そういう……」

 数呼吸分の沈黙を置いてリィンは小さな溜息を漏らした。

 承知していたつもりだったけれど、またずいぶんと懐疑的な思考を持った子だ。まぁでも警戒心が薄いよりも安心といえば安心……環境がそうしたんだろうし――そんなことを考えながら。

「ねぇラトくん」

 表情をあらため、まなじりを下げて。

「きみはこのまま、さっき私の財布を盗んだみたいに。そうして生きていくつもりだった?」
「悪いかよ」
「誰かが自分のために、誰かのために働いて得たものを横取りするというのは、褒められたことではないわよね。そのことは、わかっている?」
「セッキョウは聞きあきてんだよね。てぇか、おれのしつもんに答えてないし」
「うん。その前に知りたくて」

 にこにこにこ。

 相手が答えるまで、こっちも答えるもんか。
 そんな意志を貫こうとした少年が、擬音が聞こえてきそうな表情に根負けするまでに、そう時間はかからなかった。

「……悪いことだってのは、わかってる。わかってるよ。でも、おれみたいなのは、だれも働かせてくれない。だからって物乞いにはなりたくない。……盗み以外にどうやって生きろってぇの」

 働き口は、探しに探せばあるのかもしれない。
 でも、そんなあるのかないのかわからないはっきりしないものを探して時間を使うより、他人のものに手をつければ確実に金や品物が手に入る。もちろんその分リスクは高いが、一度知ってしまったから。

 だから。でも。


「しなくてすむなら、…………してない」


 少年は空になった皿に視線を落とし、消え入るように告げた。


「そっか。だったらラトくん。きみに、選択肢をあげましょう」
「せんたく、し?」


 コーヒーをスプーンでゆるりとかき混ぜながら、リィンは満足げに微笑って。


「そう。一つは、このまま私と会ったことは忘れて、今までと同じようにラトくんの思うように生きる。あ、もちろんさっき買った服やら何やらは好きにして構わないからね。目論見どおり、売り払って大いに結構」


 う、と少年がばつが悪そうに目を背けた。




「もう一つ。私のもとで生きる術を学ぶこと」




 ふたつめの選択肢に、少年は小さくぽかりと口を開けて「は」と声にならない息を漏らした。




「ここに留まるよりもずっと多くの可能性を、きみに与えてあげる。……与えてあげる、っていうのはちょっと違うかな…………んー、私を利用して可能性の幅を広げなさい、かな? それができるだけの甲斐性はあるつもりだから」
「……………………つまりアンタ、人売りじゃないってこと?」
「失礼ねぇ。そんな風に見える?」
「だってさっき人さらいだって自分で言った」
「ああアレ? 客観的に見れば確かにそうかなぁと思って」

 紛らわしいことを、とでも言いたげな忌々しそうな眼差しを感じながら、リィンは緊張感なく笑って言った。




「……おれがアンタのとこに行くことで、アンタの『りえき』はなに」




 おれ、おたがいになんの『りえき』もない約束なんて信じないよ。

「私の利益? ……そうねぇ…………特に考えてなかったんだけど。強いて言うなら……」

 そうやって裏を見定めることで、この子どもは生きてきたのだろう。疑うことで自分を守ってきたのだろう。

 救ってやろう。
 そんな高圧的な気持ちがまったくないと答えれば、嘘になる。

 けれど心のほとんどが。




「私の息子になって手を焼かせてほしい――」




 少年の目が一瞬まん丸になったのを見てリィンはそこで言葉を切り、ふ、と微笑った。
 この子の目には私はさぞ偽善的に映っていることだろう。それとも、どれだけの馬鹿なのかと思われていることだろう。

「かなぁ。別にいい子になんてならなくていいし、手がかかればかかるだけ、嬉しいかも。……ここではない新しい場所で、新しい自分を見つける。もちろんここでの友達とは会えなくなるけれど――きみの未来にとっては、悪い提案ではないと思うの」

 測っているのだろう、少年はしばらくじっとリィンを見ていたり、皿に残っている料理や周囲をちらちらと気にするような素振りを見せていたのだが。

「うまい話には裏がある。あいつらがよく言ってる。おれも、うまい話にばかみたいに食いついて、ばかな目にあったやつらを知ってる」

 まっすぐなのにひどく捩じれた、真剣な目で。

「おれがそうならないショウコ、どこにあんの。あるなら教えろよ」
「証拠、ねぇ……また難しいことを言ってくれる」
「ねぇの?」
「ないわね。ラトくんが私を信じるか信じないか、判断材料はそれだけ」

 だからね。




「ラトくんがどうしたいのか――私はそれを尊重する。私はどちらでも構わない。どちらを選んでも怒らない。だから自分で決めなさい」







 自分で、決める。

 自分で。
 おれが。




「ラトくん。きみは、どうしたい?」




 穏やかに光る二つのアメジストが、少年をのぞきこんだ。




「……行く」




 少年はそう呟いた直後、話は終わったとばかりに再び料理の攻略にとりかかり始める。
 その淡白ぶりには今度はリィンの方が目を瞠らせる番だった。

「あれ。もうちょっと考えるかと思って……一日くらい時間あげようと思ったんだけど。いらない?」
「いらない」

 喉を鳴らして温くなったスープを飲み下し。




「おれはアンタのとこにいく。もう決めた」







 母親は、気づいたときにはいなかった。

 酒を飲んでばかりだった父親は、ある日から帰ってこなくなった。

 住んでいた家は、突然入ってきた大人たちに追い出された。
 そのあと世話をしてくれた隣の家の人たちは、おれだけ残して死んでしまった。自分たちで死んでしまった。

 路上で生きるようになってからも、年上のやつらにばかにされて命令されて。
 盗みをするようになったのだって「こんなこともできないのか、根性なし」って言われてからだ。本当は嫌でたまらなかった。でもそうしなきゃ生きていけなかった。選べなかった。選べたのかもしれないけど、おれは選べないと思った。




 自分で選べたことなんて何もなかった。




 そのおれが今。
 初めて自分で自分の生き方を決めた。

 本当に全部自分で決めたってわけじゃない。しかもこの女の手を取るか取らないか、たったそれだけだ。
 でも。




 選ぶ『けんり』が自分にもある。




 ほんとは、おれにとってはそれだけで。
 よかったんだ。十分なんだ。




 どこか胡散臭いこの女についていくことがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、でも。

 自分で決めた。
 だったらなにがあってもかまいやしない。




 だって自分で決めたんだから。




「決めた」




 それが。
 おれに生き方を選ばせてくれたやつを信じるなんて、ばかなマネをする理由。




   2010.1.13