木漏れ日が、地面にしゃがみこむ少年の背中をまだらに彩る。音もない風に梢がさわさわと揺れるたび、まだら模様も同調して揺れる。
それはまるで、太陽と風と葉が作り上げたひとつの芸術。
――いち、に、さん、し、ご、ろく。
そんな芸術が自分に描かれていることなど少しも気づかず、指さし確認しながら少年が数えるのは地面に刻まれた線の数。
この場所にやって来てから毎日一本ずつ刻み続けた、少年の記録。
――じゅうきゅう、…………にじゅう。にじゅういち、にじゅうに。
ひと月がさんじゅうまででよかった。あとじゅう多かったら、数え方がわからない。……そのときは、じゅうをよん回数えればいいのか?
ちらと考えてしまったおかげで、どこまで数えたのかわからなくなった。悪態をついてからもう一度いちから数え直し――。
――にじゅうはち、にじゅうく。
横に並べられた線はそこで終わっていた。
が、少年はその最後の部分に新たな線をすぅっと描きくわえ。
「さんじゅうっ!」
ひとつひとつを確かめるようなそれまでの調子とは一転、明確な何かをもった声で読みあげる。
間違いなく三十の線があるのを確認した少年の瞳に、とある意志が宿る。
そして少年――ラトは木造りの小屋に向かって駆け出し、少々高い位置にあるノブに腕を伸ばした。
翠風ふきぬけて 1
ドアを開けた途端、ほのかに甘い空気が少年の鼻腔をやわらかくくすぐる。
テーブルの上にはパンがひとつ、あとはサラダと……もうひとつ。
誰かが動く気配がしないうちに外に出たのだから、自分が外にいる間に用意を済ませたのだろう、ラトはそう納得する。いや、させた。
それほど長く外にいたつもりはなかったのだが――いつもながら手早い。
「今日も無駄に早起きさんだねぇラトくん。おはよーう」
視界に入ったその姿にラトはついつい露骨に顔をしかめた。
……そうだった。
食事が用意されていて、こいつがいないわけがない。
台所からほわりと湯気のたつスープを持って出てきたのは、なにがそんなに楽しいのか、無意味な笑顔と花でも飛ばしそうな雰囲気を全身から発している若い男。
しかし、彼のそれはきっと大多数の人間にとっては無意味ではない。
分類的にいえば人好きのする笑顔というやつで、子どもの警戒心を解きほぐすにはうってつけ――の、はずなのだが。
「あいつどこ」
それはラトには通用しなかった。しかも逆に警戒を深められるという反作用が起きている。
「おはよーう?」
が、それにめげる相手でもなく。
ぶっきらぼうな問いに対し、答えではなく妙な擬音が聞こえてきそうな笑顔を返す。
「…………ぉはよ、う」
――挨拶を返さないと話が進まない。
ラトは仕方なく口の中だけでもごもごと言葉を発した。そこに辿りつくまでの間に、睨んでみたり目を逸らしてみたりの試行があったにせよ、一応発した。
こうなるとわかっているのに最初から素直に挨拶を返す気になれず、毎朝の展開を今日も懲りずに繰り返す。
まったく、不毛である。
ラトがリィンに連れてこられたのは、だだっぴろい森の中にぽつんとひとつ建てられた家――というよりは小屋――だった。
リィンの言う通り人売りではなかったことは確かなようだが。
――こんなところで、あんなわけのわからない女とふたりだけで住むのか?!
そんなある種の恐れはふたりの同居人の存在によって一応消えた。しかしその同居人は、また新たな問題をラトにもたらしてくれたのだ。
問題第一号、というかもう問題そのものなのが、このほわほわした雰囲気を発し続けている白い物体。別名はセレン。
それがラトに向けて発した第一声が。
『きみがリィン様の拾いものその4ー? ぼくは拾いものその2だからよろしくねぇ。で、こっちの黒いのはその1でー』
その瞬間、ラトは自分で自分に啓示を下した。
――あ、おれ、こいつだめ。
そして確信は速やかに事実へと進行し……今に至る。
「うんおはよー。で、『あいつ』ってダレのことかなぁ」
「……リィン、どこ」
「リィン様なら」
真っ赤な瞳の向かう先がついっと横に流された。ラトがつられて視線を動かすと、木の扉。
「さっき声かけても返事なかったから、当分出てこないと思うよ? とりあえず朝ごはん食べなよー」
そう言って、ことりとスープの皿が置かれる。
くぅ。
音にはならなかったが、朝ごはんと聞いたラトの腹は確かに動いて鳴いた。食物をエネルギーとして消化吸収することを求めて。
ほんわりと湯気を立たせたスープの匂い。
朝早くに目を覚まし、日課を済ませた子どもにはそれだけで誘惑足り得る。ラトがセレンの言葉に従ったのは、そんな生理的欲求に従ってのこと。
ところで。
これまでラトは、リィンやもうひとりの同居人が台所に立つ姿を目にしたことはない。
なんだかんだ言っても思っても、今のところ直接的にラトの命を握っているのは――このセレンなのだった。
もったりとして重量感のあるパンはあたたかく、バターを塗ると黄金色にとろりと溶ける。今朝のスープの中では一番に存在を主張しているジャガイモで、口に入れるとほろほろくずれ。同時に、申し訳程度に混じっているベーコンの味と匂いがほんのりと広がった。
透明なガラスの器には緑鮮やかな葉物野菜。小ぶりのトマトがひとつ、それとドレッシングで飾られている。
小さな体に多すぎず、かといって少なすぎずの絶妙な量。
残したことは一度もないし――残す気もなかったが――、足りないと感じたこともほとんどない。
「ねーねー、おいしいー?」
「べつに。普通」
その答えを聞いたセレンはへたとテーブルに懐き、赤い瞳をうるませた。もともと下がり気味の眉をさらに情けなく下げて。
「あうぅ。なぁんでラトくんはさぁ、そうやってぼくに冷たいのーぉ? ごはんは全部ぼくが作ってるし、リィン様に適当に切られた髪だってぼくが直してあげたじゃないー」
――……それで、なにがしたいのか。というかどうしてほしいんだ。
事実、ラトはセレンに苦手意識を持っていることは確かにしても、彼にだけ冷たくしているつもりはないのだ。
ただ皆平等にドライに接しているだけで。
「……………………だから?」
「だぁからぁー…………はぁ……もう、ほんっとう手強いよね…………」
「……?」
相手にするだけ無駄。反応に困ったときは、無視。
早々にそんな見切りをつけていたラトは咀嚼を続けながら、いまだ上げられる気配のないふわふわの白い頭に冷ややかな視線を浴びせるのだった。
「あ、おはようラトくん。今日も早いのねー」
背中にそんな声がかかったのは、ラトがちょうどサラダの最後の一口を水で流しこみ終えたところ。
彼は反射的に空になったコップをだんっと置いて振り向き。
「さんじゅうにち!」
叩きつけるように叫んだ。が。
「おはよう?」
返ってきたのはセレンよりも数倍にこやかで、胡散臭さも数倍なそれ。見えない威圧感つき。
「………………はょ」
「はい、おはよう」
ラトにとっては果てしなくデジャヴを感じるやり取りだった。
リィンが姿を見せたことによって一瞬で立ち直ったセレンがなにやら立ち上がり、うきうきと台所へ向かって、間を置かずに戻ってくる。
手にはクッキー缶。と、マフィン。
「作りおきですけどー」
「食べる食べる。あ、ラトくん話はそのあとね」
この家に菓子が常備されていないことはない。
そしてセレンが台所で甘ったるい匂いを漂わせない日はない。
そしてそして、リィンがその日量産された全ての菓子をまるっと消すことも少なくない。
すなわち作りおきというのはほとんどの確率で「昨日作った」ことを意味する。クッキーとマフィンは、紛れもなく昨日セレンが焼いていたものだ。大量に。
ラトの眼前にも、半分に切られたマフィンは最初から当たり前のように皿に鎮座していた。ご丁寧に生クリームとイチゴつきで。
ラトが最後に残っていたバナナ味のそれをもそもそ口に運んでいる間に、菓子は驚異的な早さで消えていく。缶にいっぱいあったはずのクッキーに関しては、すでに影も形もない。
「で。ラトくんはなにか私に用事でもあったのかな?」
「だから、さんじゅうにち」
明言通り、リィンが話を切り出したのは出された全てを腹に消し去ったあとだった。
「もうそんなに経った?」
「おれは言われたとおりに待ったからな」
「そういえば、それだけ待てたら生きていくための術を教えるって言ったわねぇ」
「なにが『そういえば』だ! おれはひまでひまでしかたなかったんだからな!」
「もー。忘れてなんかいないわよ」
――信じられるか!
終始一貫、食えない老人然とした穏やかな口調と態度なのだ。胡散臭いことこの上ない。
「さて。ごはんも終わったみたいだし。じゃあラトくんはファルを呼んできてちょうだい?」
「……それ、おれのことと関係あんの」
「あるある」
納得いかなそうに半眼になりながらも、ラトは渋々と椅子を降り――
「ラトくん」
た、ところで待ったがかかった。
見覚えのありすぎる微笑みが、リィンの顔に貼りついている。
「セレンにごちそうさま」
「……………………ごちそう、……さま」
セレンにガンを飛ばしつつ唸るようにして、とてもじゃないが感謝とは思えない感謝を言い残した少年は、今度こそ任務を遂行すべくドアの向こうに消えた。
「さんじゅう、ね。うん」
「ぼくの入れ知恵、役に立ったでしょー」
30日という期間を提示されたラトに、地面に線を引いて日を数えるよう促した本人はそう言ってへらりと笑った。
「よかったですねぇ。こっそり線を消してること気づかれなくて」
「ホント。木に彫るっていう上級技をされなくてよかったわ。そうされたならそうされたで、どうにかしたけれど」
リィンは目を伏せて――ラトがここに来たばかりのときの痩せた姿を思い返す。同時に、たった今うっとおしそうに睨んできた、少しはふっくらした顔を。
実際の日数経過が50日を超えていることなど……少年は知る由もない。