手を出せと言われたから片てのひらを空に向けた。
ら、そこにぽとりとなにか落とされた。
「……なにコレ」
つい凝視する。
物体に影が差し――同時に、なにかがぽひゅっと頭に被せられる。空いている方の手を頭にやると、がさがさした感触。
「……………………なにこれ」
藁編みの帽子を被せられたラトが、小さな手袋を力なく握りしめる。
じっとりした鉄色の瞳の向かう先は――なにを考えているのかさっぱりわからない、どこか眠そうな仏頂面。
翠風ふきぬけて 2
リィンとセレンに「じゃ、がんばってー」と閉めだされ、一緒に外に出された同居人によって告げられた草むしりの理由はこうだ。
『当面の運動スペースの、確保に。草の背が高すぎる』
ちなみにラトが日数を記し続けた地面は、小屋からわりとはなれた場所にある。
なぜ運動スペースが必要なのかは教えてもらえなかったが、自分の望みに必要なことだと言われれば頷くしかない。
だが、理解したからいって納得したわけではない。
諦めが早いのは彼の欠点でもあり特技。気まぐれに自分を拾った同居人に逆らうことに意義を見いだせなかった、という理由は多大だ。
いちいちつっかかるのが面倒になってきた、というのも、ないこともなかったが。
「なぁ。ききたいんだけど」
ぶちぶちと適当に草をむしりながら、ラトは自分の背中の向こうで同じことをしている運命共同者に話しかけた。
ほかのふたりとは対照的にもほどがある、静かで重量感のある雰囲気を漂わせるもうひとりの同居人、ファルと呼ばれる黒髪の男に。
「なんで家の中と外で、あんなちがうんだよ」
じんわりと額に汗をにじませ、おかしいだろ、とラトは加える。
今の彼から、リィンやセレンに対するときの刺々しさは感じられなかった。
ラトは期せずして同居人となった者たちの中で、唯一ファルを信頼している。
口数が少ないことが最大の好意点。
ファルはとにかく無口なのだ。いや、話しかけられれば口を開くが、自分から話しだすことはほぼない。セレンが口を奪っているんじゃないかとラトが心配になるほどに喋らない。
リィンはうるさいと思うほど喋るわけではないが、存在感がありすぎるし、第一印象が悪すぎる。
買いものに引きまわし続けてくれた恨みは忘れていない。それに、その間ずっと人売りだと思い続けていたせいで、こんなことにならなかったら関わりたくなかった人間としてインプットしている。
セレンはもう、言わずもがな。
もともとラトは、だれかにああだこうだ指図されることを厭っている。路地裏で生活していたときも年嵩の少年に指図されるのがいやで、グループの中でも孤立していた。しかしそのおかげである程度自由でもあったのだ。
それなのに、ここへきてからはなにかとうるさいふたりに構われ、正直、辟易している。
そんなラトにとって、近くにいても干渉してくることのないファルの存在は、癒しだった。
外見だけがぱっと見で近寄りがたかったが、慣れてしまえばどうということもなかった。
それによく見ると機嫌の悪そうな目つきは、眠そうに細められているだけのような気がした。そう思うとラトの中に最後に残っていた怖いという印象は完全に消えた。むしろ、緑色の瞳からはリィンの見かけだけの穏やかさとはまた違う、芯の部分での静謐さのようなものを感じ取れる。
あまり動かない表情と断片的な話し方からは無愛想ととれるが、排他的というわけでもない。
それよりなにより。
リィンと、特にセレンにからかわれ、疲れた顔で黙々とことをこなす姿。
その悲哀を漂う姿はラトに自分を重ねさせ、連帯感を生ませるのには十分だったのだ。
話を戻そう。
中と外で違う――ラトの疑問はもっともである。
彼らの居住する小屋を取り囲む森は鬱蒼としている。
それはもう、もののみごとに茂っている。
居住者のいる小屋のまわりなら多少なりとも拓けているのではないか、そんな想像をするのは甘い。
背の高い草は窓にまで迫り、少し離れてみると草に埋まっているようにも見える。かろうじて玄関付近の草は取り払われているが、整えられているわけでもない。
苔生し、蔦に守られ森と一体化しているような外観は、まるで何十年も放置され忘れられていたものに人の手が入りはじめたような――時間に取り残された遺物を彷彿とさせる。
しかしその内部は、家の遺骸のような見かけからは想像できないくらいの生活感にあふれていて。
そんな極端なアンバランス加減が、自分のいる時代を錯誤させる。
この場所に連れてこられたとき、「……住めんの?」とラトが引いたのは――もちろん、言うまでもない。
小屋の外観と内部のあまりの差異には、子どもでなくとも疑問を持つのは当然。
当たり前といえば当たり前――むしろ今まで聞いてこなかった方が不思議なくらいの今さらな疑問に、答えの提示を期待されたファルは、根元から草を引き抜こうとしていた手を止めた。
子どもとはいえ、ラトには生半可な嘘は通用しない。
嘘は嘘だと明るみになった瞬間、その嘘をついた者の信頼を失わせる。嘘に潔癖な子どもという生きものであれば、なおさら。
それ以前の問題で、適当なことをいって適当にあしらう、というスキルをファルは持ち得ていなかったのだが。彼の選択肢はいつも、答えるか黙るかの二択である。
「劣化防止が、かけられているから、だ」
「れっ、か?」
「……小屋が、古くならないよう……だが内側にだけ、魔術がかけられている」
少しためらうように発せられた魔術という単語に、少年は目を瞠った。
――こんなボロい小屋に、まじゅつなんてものが?
これまでラトが魔術にふれたことはない。が、以前住んでいた町で何度か耳にする機会はあったので、魔術がどのようなものであるかは聞きかじっていた。
ラトにとって魔術とは、町のいけすかない偉い人間が使わせるもの、もしくは魔族が使うというあまりよろしくないイメージを描かせる得体の知れないシロモノだ。
それがまさか、自分が今寝起きしている場所にそんなものがかけられていたとは……。
魔術なんて使うやつがまともな人間のわけがない。それがもしも人間じゃなくて魔族で、勝手に住みついてるなんてことが知られたら。
そんな考えが浮かんで、ラトの背中に冷たいものがぞわりと奔った。
『あのなぁ、坊主。悪いことをする子どもはいつか魔族が連れに来るんだぞ。長くて鋭い爪の生えた手に捕まって、だれにも知られずに魔界に連れて行かれるんだぞ』
いつだったか、ラトが盗みをはじめた頃。
それはまだ失敗が目立ち、町の警備の駐在所に連日突き出されていた頃だ。
またお前かと言いながら、呆れたようにちょっと悲しそうに殴られた顔を冷やしてくれた駐在軍人が一人いた。彼のことは嫌いではなかった。
その彼が、ラトにもっともらしい抑揚で教えた子どもだましの脅し文句。
だからもう、ここに突き出されるような真似はするな、そう最後に言って。
もちろんラトも子どもだましと受け取ったから、そんなつくり話だれが信じるか、そう吐き捨てて駐在所を飛びだし、それきり思い出しもしなかった。
そんな話を今になって思い出したのは、魔族と繋がる魔術という力を初めて目の当たりにしたせいだ。
「……そんなやばそうなトコにかってに住んで、へ、へいき、なのかよ」
その声は少し震えていた。ラトは、相手がセレンでなかったことに安堵する。セレンだったら絶対にからかわれるネタにされていた。
「勝手に、ではない。問題はない」
次にファルが発した言葉は、ラトにとんでもない衝撃を投下した。
「かけた本人が住んでいる」
普段より頭の回転が恐ろしく低下した錯覚。
そのため、ラトが告げられた意味を理解するまでに数呼吸分の時間を要した。
「……………………ほん、にん……?」
否、理解する前に思考の混乱を引き起こした。
「この小屋の魔術を張ったのは、リィン様、だ」
「…………はった……?」
「……かけた」
かろうじて疑問の部分は口にしたがほとんど反射だろう。
それに生返事を返したラトは、しばらく眉間にしわを寄せて思慮をめぐらせ――
「はあぁぁあぁっ?!!」
理解すると同時に奇声をあげた。
「え……な、なに、っそれ、って…………はぁっ?! まじゅつ……あいつが?!」
少年の混乱をよそに、ファルの手はぶちぶちと邪魔な草を引っこ抜いている。それがかえって混乱を増長させているのだと気づいているのかいないのか。
――え、まじゅつを使えるってことは、え……なに。
なんか、かくれて怪しいじっけんとかしてんの……っ? だからこんな人のいない変なトコに住んでんの?
それとも魔族とか?!
いやいや、いくらなんでもそりゃないよな。
でもあの変人だったらあるかも……。
混乱の極みにはまり続けるラトだったが、いや、混乱中だったから自分を落ち着けるためだったのか、ずっと気になりつつなんとなく訊けなかった質問を切り出した。
なんで今きくかな、なんでそれをきくかな! という思いを自分でも抱きつつ。
「……あ、あのさ、なんで『さま』づけ?」
「リィン様が、俺の……主だからだ」
「あるじ?」
「……………………主は、主だ。後でセレンにでも訊くと、いい」
「それはやだ」
主という概念の説明は自分の弁では不可能だと判断したファルの提案は、渋面とともに却下された。
自分の言い方は子どもがすぐに理解するには難があると、わかってはいるが最初から噛み砕いた説明は出てこないファル。
納得できない限り質問するラト。
訊かれては答え、意味を訊かれて言い直すという妙に静かな子どもと大人のやりとりは、しばらく続くお約束。
そして。
ファルの多大な努力によって草むしりを終えたラトが「…………魔族?」と恐ろしげにつぶやき、小屋の中でお茶をすすっていたふたりを爆笑させたのは――もうちょっと時間をおいた後のこと。