水分が失われ、色を失くして久しい花束――だったと思われるもの。

 見つけたときについ握り潰してしまった一輪が、ラトの小さな手の中で粉々に壊れ。はらり、はらりと指の隙間からこぼれてゆく。
 手にまとわりつく粉の感触が気持ち悪くて、顔をしかめて振り払う。

 自分の部屋の、自分の引き出しの奥から出てきたこの物体をどうしようか。どうするべきか。
 口をへの字にして考える。

 ――ゴミだよな。

 居間のゴミ箱に放り込むことにしたラトは茎の部分を軽く握る。これ以上ぼろぼろと崩してしまっては、ゴミを広げるだけだから、そっと。

 力を入れると簡単に折れてしまいそうなそこには、色褪せたぼろきれが結いあしらわれていた。





翠風ふきぬけて 3






「――あ。それ…………」

 珍しく居間の椅子に腰を落ち着けていたリィンの横をすり抜け、ゴミ箱に投入しようとした刹那だった。声がラトの耳をかすめたのは。

 花束だったと思われるものを見とがめたリィンは、探るような、それでいて戸惑ったような、これまためったにない表情をしていた。

「おれの部屋からでてきたゴミだけど」
「待って待って捨てないで」

 引きとめられ、ちょいちょいと手招きされ、ラトは一度素通りした地点に渋々戻る。

「残ってたのね……これ」

 そんな嘆息混じりの呟きを拾いあげたラトは、目を眇めて花束を突き出した。

「これゴミじゃないわけ?」
「うん」
「だったら自分のとこおいとけよ。おれのとこにあってもジャマ」

 そうね、と少しも悪いと思ってなさそうな気のない言葉を返し、リィンは花束を受け取る。
 彼女が花束を扱う手つきは、ラトがそうしていた以上に、否、ラトとは違う意味をもって、壊れものを大切に包み込むもの。

 指先でなでられた花弁が、ぱり、と乾いた音をたて、くるくると弧を描いて回りながら床に着地した。

「まぁ、さすがにこうなるわよね」

 漏れた笑いがいつもと違う気がして。
 ラトはつい、訊いてしまった。

「だいじなもん?」
「……うん。でも、ずっと、忘れてた」

 懲りずに、しかしさらにそっと花弁に指をなぞらせながら、リィンは目を細めて花束に視線を落とす。ラトが見たこともないくらい穏やかに、静謐に。




「これね。私の、息子が。大切にしていたものなの」




 息子。

 その単語は、ラトの中にひやりと冷たい石を投じた。
 波紋が生まれる。心の、体の隅々にまで冷たさが広がってゆく。指先が震え、力が入っているのか、それとも入らないのか、わからなくなる。


「ラトくんの部屋は、昔、息子が使っていた部屋だから。掃除したつもりだったのだけれど」


 よけいなことを訊かなければよかった。後悔しても、もう遅い。


「頼まれて、この小屋と同じ魔術をかけたの。そのときはまだうまく使えなかったから、効果が長続きしなかったのね」


 言葉を紡ぐ声は耳にやさしい。
 今ここにないものを手繰り寄せようと、まぶたを伏せて。

 リィンの心はここにはいない。

 すぐ傍にいるラトを見ていない。

 横たわる溝を埋めようとしていた、やわらかな羽毛のようなものが、風に吹き飛ばされて散ってゆく。
 代わりに埋まるのは、疑心。怒り。


 ――おれは、ここにいるのに。


 どうしてこいつは、おれなんかいないみたいに。
 おれは、おれがいるのに。ここに。

 あんなもの、握りつぶして壊して、窓の外に捨ててしまえばよかった。そうしていれば。

 そうしてふと理解する。


 ――ああ、そうか。こいつがほしかったのは。


「おれじゃないんだ」


 ラトが自分でも驚くほどにたどたどしい、割れた声だった。

 こいつがほしかったのは、こいつの子どもの代わりになる、だれか。
 おれじゃなくてもよかった。

 ここには食べ物がある。自分の部屋もある。眠るところがある。
 そして、うっとうしいけれどおれをちゃんと見てくれる人がいる、おれがいることを認めてくれる人がいる――そう思ってしまったのに。それなのに。

 だれかが受けていたものを、代わりに与えてもらっていただけだったなんて。

 苦しくて、悔しくて、情けなくて。
 ささくれ立った小さな心は敵意を込めたまなざしを作りだす。

「もしかして……ラトくん、私の息子の代わりにされたと思っている?」

 心臓がびくりと跳ねあがった。

 ――どうしてこいつはいつもいつも、おれのこと全部わかってるって顔をするんだ。
 それがどんなにむかつくことか、こいつはわかってないくせに!

 実際は、ラトがひどく傷ついたというわかりやすい顔をしていたからなのだが、そんな感情を表に出したつもりなどまったくないラトには、わからない。

「あ、図星?」

 リィンの顔から、ここではないどこかを見つめる物憂げな影が――消えている。
 代わってそこにあったのは、ラトが見慣れた食えない笑顔。


「勘違い、勘違い。ラトくんのことを息子の代わりだなんて思ってないわよ。ぜんっぜん似てないし。第一、あの子は立派に図体大きくなって、奥さんもらって子どもつくって。ひ孫の顔見るまでしぶとく生きたらしいから」


 その言葉の意味を咀嚼しようとして頭を働かせたラトの下顎が、しだいに重力に従ってゆく。しばらくの間をおいてようやく、「は?」という音だけが発せられた。

「ん。だから、確かに今はもういないけれど、べつに子どもの時に死んじゃったとかそういうのではないってことで」
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「……いい。聞くだけむだな気するし」

 それに、聞いてもまともな答えが期待できない気がした。

 いろいろおかしいだろ、とつっこみたい気持ちはもちろんあった。
 けれども、そんなことがどうでもよくなるくらい、ラトは大事な答えを見つけたのだ。


 ――おれは、代わりじゃなかった?


 笑い飛ばされたのは癪だった。
 けれども、そんなことをと笑い飛ばされなかったら、真剣な顔でもされていたら、疑念が残り続けただろう。

 胸の中に、あたたかいものがじんわりと広がった。
 思わずほぅっと息をつく。

 けれども次の瞬間、なんでおれはこんなにほっとしてるんだという疑問が湧いた。
 しかも、いつの間にか頬が緩んでいたらしいことに気づいたラトは、あわてて表情を引き締めた。無理やり取り繕ったため眉の間に皺が寄り、口元が歪んでいる。

 そのうちラトの頭に、ぽん、と手が乗せられた。
 かぶりを振って振り払っても、手は懲りずにまた同じ場所へと伸ばされる。攻防を何度か繰り返して、折れたのは当然、ラトの方。

 諦めの悪い手は、やわらかくなり始めた髪の根元を撫でる。
 それが存外に悪い気がしなくて、ラトは唇を突き出しながらもされるがままに任せた。

「この花の持ち主だった息子は一人しかいない。だれもその子の代わりにはなれない。
 それと同じで、ラトくんだってだれの代わりにもなれないし、だれもラトくんの代わりにはなれない。
 ラトくんは、ラトくんにしかなれないから」

 だから、と続く言葉で。


「きみは、ラトくんていう私の息子なの」


 ラトは、一度は引っ込んだ感情のうちのなにかが喉のあたりまでせりあがってくるのを感じた。
 どんなに必死で飲みこもうとしても抑えることができなかった。

 我慢するのは得意だったはずなのに。
 いつの間に、自分はこんなに弱くなったんだろう。

 嗚咽が喉を鳴らす。視界が歪む。呼吸がうまくできない。

 ふわ、とやわらかいものに包まれる感覚に、ラトが顔を上げると、そこには――


「…………アンタ、マジでうざいぃー……っ」
「あーはいはい。うざくてけっこう」


 けれどもラトは、抵抗することなくその行為を受け入れた。

 うざくて、うっとうしくて、でもあたたかいこの場所を知ってしまったから。


 ――おれはきっと、もう一人には戻れない。


 ラトが初めて弱さをさらけ出したこのとき。
 彼が「家族」を得てから、4ヶ月が経っていた。




   2010.3.26