「おまえ、あの薬師のもらわれっこなんだよな」

 子どもたちの他愛無い悪意は、自分たちの枠にはまらない異質に向かう。




翠風ふきぬけて 4






 ……しみる。

 水で洗い流された先程とは比べようもないほど、しみる。
 もはや怪我そのものの方が遥かにマシである。

 肘のすり傷を消毒薬でひたひたになった綿でなでられ、ラトは思い切り腕を振り払いたいのを必死の思いでで堪えた。

 きっと、叫んで逃げるのは簡単だ。
 だが逃げたところでさらに事態を悪化させることなど知れている。あの、恐怖を増幅させる笑顔につかまってさらに手荒い処遇を受ける未来を、ラトは手に取るように……それこそビジョンとして鮮明に思い描けるほどに想像できる。

 そんな醜態を晒すくらいなら黙って受け入れるのが最善だ、と。
 子どもらしからぬ後先を考えた思考で、ラトは腕の、怪我をしていない場所に爪を立てて拷問に耐えた。

「我慢する」

 とはいえ滲み出る苦悶は、しかしまったく隠しきれるはずもない。

 ぴしゃりと無情に言ってのけた彼の養い親は、新しい綿の塊をアルコールに浸して何か所にもできたすり傷に同様の消毒を施し、それが終わると毒々しさを放つ緑色の薬をためらいもなしに塗りこみ始めた。その薬がまた、なんとも傷口に優しいシロモノなどではなく……。

「はい終わり」

 その言葉より、こつりと頭をこづかれたことでラトは拷問時間の終わりを知った。

「ラトくんもちゃぁんと子どもだったのねぇ。遊んでくるかと思って……たわけでもないけれど、いやいや……まさか喧嘩をしてくるとはね。予想外予想外」
「……べつに、したくてしたわけじゃない」
「そうなの?」

 くつくつと忍び笑われ、ラトは視線を見慣れない模様の床にさまよわせる。

「それで、うちのわんぱく小僧はいったいなにが原因で、村の子どもたち相手に派手な大立ち回りをしてきたのかな?」

 事のあらましを求める養い親の声色に、追及を迫る色はまったくなかった。言いたくなければ言わなくてもいいのだと解釈できる、そんな声色。
 それなのにラトは、ほんの少しの逡巡だけをもって素直にぼそりと答えを紡ぐ。

 やわらかな羽毛で頬を撫でられるかのようなくすぐったさを、ふわりと細められた彼女の瞳に感じた。

 ふわり、ふわりと。
 そんなものが――けっして今だけではなくて、いつも向けられているものだということを。ラトは知っている。
 最近気づいた、悪い気分はしないけれど不可思議な気持ちを抱かせる、そんなものを。


 このやわらかい気持ちは、いったいなんて名前を持っているんだろう――


 知りたくて知りたくて、たまらない。


 しかし知るのは恐かった。
 知ってしまえば受け止めなくてはならないから。受け止める覚悟を持たなくてはならないから。


 得体の知れない恐怖の理由は、まだラトが知ることはない。










 ――ラムロット。

 そんな名前の小さな村が、自分がやっと住み慣れてきた小屋の近くにあることをラトが知ったのは、こんな何気ない会話がきっかけだった。



「そういえばリィン様ー、薬の納入ってしなくていいんですぅ? ラムロットに」

 夕飯をかき込む少年の隣で、同じものを食べ終えたわけでもなく木イチゴの砂糖漬けをつまんでいたリィンの動きが止まった。
 ややあって、嚥下してから、真面目くさってこの一言。

「よくぞ気がついてくれたわセレン」
「あはは。今から準備してたんじゃ確実に間に合いませんねー。いつものことですけど」
「そうそう。いつものことだから。せっついてこないということは足りないわけではないのだろうし。向こうもそう思ってるわよ。たぶん」

 平気平気、と彼女は何事もなかったかのように再び砂糖漬けの山を崩し始める。そんな養い親と同居人の会話につっこみを入れる価値を完全に見失っているラトは、スープの最後の一口を飲み終えてから尋ねた。

「ラムロットって?」
「……ラトくん、行ったことなかったっけ」
「知らない」

 まったく、ラトにとっては聞いたこともない単語である。

「歩いてすぐのところにある小さな村でね。薬を買ってくれる医者がいて、定期的――といってもたいてい盛大に遅刻するのだけれど……まぁいちおう定期的に? 売りつけに行っているの。今回分はこれから薬を用意するから、一週間後くらいになるけれど」

 すっかり見慣れた紫色の目が、にこりと緩む。


「いっしょに行く?」


 最近始めた字の勉強は、楽しい。
 まだ自分の名前を書けるようになったくらいで、本だって挿絵ばかりの薄いものをなんとか読めるようになったばかり。この小屋には本ばかりが数えきれないくらい置かれている部屋がある。そこにある分厚くて重い、小さな字がずらずら並んだ本を少しでも早く読めるようになりたかった。
 そのためだったら暇そうに伸びているセレンをたたき起して本の音読をせびるくらい、わけはない。

 剣の訓練だって、負けないくらいに楽しい。
 まだ棒きれを素振りしているだけだが、嫌だと思ったことはない。
 素振りの型が崩れてくると、寝ているように微動だにしないファルが、見計らっていたように型の修正箇所を呟く。


「行く」


 未知の場所への外出という誘惑は、それらの『楽しいこと』に勝っていたのだった。





 しかし、この外出が少年の好奇心を満足させることはなかった。

 ラトはこの小屋に連れられてくるまで、それなりに栄えた町に住んでいた。多様な店が立ち並ぶ、人通りも多い、国境の町。だからこそ子どもながらに旅人相手にスリが成功していたといってよいのだが――。

 そんなラトにとって、森の傍らでひっそりと生活を営むこの村の印象はなんの面白みもない小さな農村に過ぎない。
 用事が済むまで自由にしていてよいといわれても特に見物したいと思えるものはない。村を中心にして放射状に広がる畑の風景は物珍しかったが、ものの数分もたたずに見飽きてしまった。両手でリンゴを抱え、所在なく立っている。

 数人の子どもたちに声をかけられたのは、そんなときだった。

 ラトよりも背が高く、年齢が上であろう子どもたち。
 すぐに連想された。あの町で所属していた子どもたちのグループ。その中にいながらも孤立し、小さな小さな権力ピラミッドの底辺にいた自分。

 ――かかわりあいになりたくない。

「なんだよその目。せっかく声かけてやったのに」

 少年が目に見えて不機嫌になった。

「おまえさーアイソ悪すぎ。うちのかあちゃん言ってたぞ。ソレやったのに、礼もなんにもしないブアイソな子だって」

 先頭にいるのはリーダー格だろう少年はラトの両手の間にあるリンゴを指さして言った。
 少し前、口の早い中年女が有無を言わさず手の中にねじ込んでいった、真っ赤に熟れたリンゴ。持っていても邪魔だから食べてしまおうかと思ったのに、けれどもそのまま抱え続けていたモノ。


「おまえ、あの薬師のもらわれっこなんだよな」
「……それが」
「あのさー。かあちゃんがうちの子になんないか、って話してたんだけど」


 こいつはいったい、なにを言ってるんだろう。意味がわからない。

 うちの子になる? なんだそれは。
 やっぱり意味がわからない。どうしてそんな話がでてこなければならないのか、ラトにはまったく見当もつかなかった。

「あの薬師のねえちゃん、腕がいいからとーさんは信頼してるっても、なんか変わってるし。あんな若い子が拾った子ども育てるなんて子どものためにいいわけないって言ってた」

 こいつは本当に、なにを言ってるんだろう。
 とりあえず、アイツはああ見えて若くないと思うと教えてやるべきだろうか。


「それにさー、男二人といっしょに住んでるなんてイカガワシイもんな」


 ラトはようやく言われていることの意味を理解した。

 腹の奥がすぅっと冷える。同時に、そのさらに奥からぐつぐつと沸き立ってくるもの。
 その正体を見定める間もなく、ラトの体は衝動のままに行動した。





「――で、殴っちゃって喧嘩になったと」

 口を突きだしてそっぽを向いても肯定にしかならないことはわかっていたが、今のラトに、リィンの顔を真正面から見る勇気はなかった。


「あのねラトくん。喧嘩っていうのはね――先に手を出した方が負けなのよ?」


 ……もっともらしく神妙な顔でなにを言うのかと思えば。

 そこは「先に手を出した方が悪い」という場所ではなかろうか。
 そう言われるのを予想して身構えていたというのに。

 疑問符を頭に浮かべるラトにかまわず、リィンは人差し指を立てて力説を続ける。

「男同士の戦いとかそう言うのだったら単純に勝ち負けの問題でいいの。でも喧嘩となったら、これはもう、まったくの別問題。特に規則に縛られた集団内とか、狭いコミュニティにおける子ども同士の諍いだったらね」
「……………………」
「喧嘩そのものには勝っても、社会的には負け。だいたい先に手を出した方が悪いと言われるからね。はい、先に手を出した方が悪いの理屈、わかった?」

 ここは頷いておかないといけない気がする。

「だからね、先に出すのは口にしておきなさい。それで言い負かして終わればもうけもの。だめでもだいたい相手が手を出してくるから。そうしたら遠慮なく手を出しなさいな」

 なにか違う。
 絶対に違う気がすると思いつつ、無視はできない妙な迫力に圧されてラトには頷くしかできなかった。


 ――変。


 普通、手を出すのは出されてからにしろなんて、言わない。暴力はいけないと言い聞かせるのが大人ってもんだろう。

 なんで自分はこんなやつの悪口を言われてむかついたりしたのか……もはや理由が行方不明だ。


「ところでラトくん」

 纏められていない長い金の髪が躍り、ラトの視界がふさがれる。

 奥底でふわりと沸き起こる、正体の知れぬやわらかいもの。そんなものが直に触れられ、自分を包み込む確かなモノとなっていることを、ラトは知る。

 不可思議で、悪くはなくて、どこか懐かしさを感じるやわらかさ。



 ――おれは、ここにいたいんだ。



 それが、あのときの怒りの意味。

「嬉しいなー。怒ってくれたのー?」
「ちがうから」
「照れるな照れるな」
「ちがうっつってんだろ勘違いしてんじゃねーよ! ってか気持ち悪いからはなせっ!」
「えーやだー」
「やだじゃねー!」

 全部を見透かされているのはわかっているけれど。
 まだわからないふりをして、なにもわからない馬鹿な子どものふりをして、自分の気持ちに正直じゃない子どもでいたい。

 そうすれば――。


「といっても、今回ラトくんが先に手を出しちゃったのは仕方ないからね。謝りに行こうか?」
「え」
「当然でしょう。ほら」

 言葉どおり、当然に伸ばされた手。
 この養い親が望むとおりに自分のそれを繋ぐべきなのか迷い、そろそろと手を伸ばそうと――。


「あぁよかった。まだこちらにいらっしゃったんですね」


 白い服をはおった男が息を切らして部屋に入ってきた。
 せっかく意を決したというところで邪魔をされ、ラトの手は行き場を失ってひっこんでしまう。

「もしかして、先手を打たれました?」
「ははは。先手を打ってみました。カイル、隠れてないでさっさと出てきなさい」

 白衣の影から、絆創膏を貼られたぶすくれた顔をのぞかせたのは。

「…………オレは、あやまんない」
「まだ言うかっ」

 ごっ、という鈍い音。

「〜〜っ! だからとーさん、こいつが先に手ぇだしてきたんだってば!」
「先に口を出したのはおまえだろうが」
「だって、このねえちゃんホントに変だもん……」
「……彼女はあの、ラムロットの伝承にある薬師どのの流れを汲む方だ。うちの祖父さんがあの方の世話にならなければ、この村で医者は生まれなかったとおまえにも言い聞かせていただろう。これ以上の失礼は――」
「そんなん関係ない! ぜっっっっ、たいにあやまんねー!」

 少年は、入ってきたばかりのドアを蹴破るようにして、足音を高く響かせ行ってしまった。

「…………すみません。うちの息子が」
「いえ、この子が手を出さなければよかった話ですから。……ラトくん?」

 部屋を出ようとしていたラトは呼び止められて振り向く。

「……べつに。ちょっと用事」

 それだけ言って、ドアを閉めた。



「子どもの喧嘩は仲良しになるための儀式、ね」
「違いありません」

 医者先生が、悪戯っぽく笑いながらこげ茶色の髪を掻いた。





 小屋のテーブルの上に置かれたリンゴがひとつ、ふたつ。みっつ。





 ――またセレンにパイにしてもらおう。
 帰ったら、いつも片付けをさせられてるファルを手伝ってやる。

 アイツがいつも占領してる紅茶、頼んで水筒に入れてもらって。



 こんなの食べたことないって言って笑ってたあいつと、また。

 カイルといっしょに食べるんだ。





   2010.6.12