「ん」

 ずいっと差し出された、空を向くてのひら。

 実にわかりやすくものを求める、例えるというなら釣銭の返却を求めるジェスチャーだ。
 ただしラトの眼前にはカウンターなどない。あるのはジェスチャーの意味を理解していない感満点の友人の阿呆面、だけ。

「……なにこの手」

 カイルの視線はラトの顔と手を何往復かした後、唐突にふいっとあさっての方に向いた。
 そのときに一瞬、顔が引きつったように見えたのを気のせいというには如実すぎる。ラトは自分の推測が間違っていないことを認識した。

「来てるよな」

 疑問形ではなく断定。
 泳ぎまくっているカイルの目に、じとりとした低温視線が突き刺さる。

「な……なんのことかなー……っ」
「とぼけても無駄だってそろそろ学習すれば。わかりやすすぎって何度忠告すればわかるわけ」

 顔を見るなりひゅうっと口笛を鳴らし、タイミング良すぎ、などと呟きまでされたのだ。推測できないわけがない。

 それでなくてもこの数週間、ラトの心は正しく『それ』だけにしか向かっていなかったのだから。

「け、今朝届いたんだって! ホントだって、ちゃんとあとで渡すつもりだった!」
「言い訳いらない。いいからさっさと持ってこい」

 あくまで端的に、淡白に。
 ラトは年上の友人に向けて『命令』した。





稚鳥が巣立つとき 1






 封を切られた真っ白い封筒が、無造作に床に放り出されている。

「……なーーラトー」

 呼びかけに答えず、気にも留めず、ただ文字を追っているその様子に呆れはするものの気分を害する風もなく、カイルは椅子の背を抱え込んだまま尋ねる。

「それさー…………ホントに、本気?」
「本気」

 ようやく返ってきた短い答えに、カイルは思わず口をへの字に曲げて渋面をつくってしまう。

「反対されたんだろ?
「賛成されてたら、わざわざおまえんちを受け取り先になんてしない。それもこそこそ隠れて」
「そりゃそうだろうけど。……金、どーすんの」
「特待生になれればタダ。むしろ仕度金もらえる」
「すげぇなそれ。なれんの?」
「なんなきゃ入らない。てか、入れない。金ないし。切実に」

 ペン貸してとの要望に、カイルは机の上に転がっていたペンを無造作に放って投げた。小さい声で謝礼が返ってくる。こういうところは昔――初めて出会ったときと比べれば、少しはとっつきやすくなったかとカイルは思う。
 それがだれのおかげかといえばラトの――あの、なんとなく逆らってはいけない感を醸し出す育て親のおかげに他ならないだろう。

 中身はともかく外見だけは大変に麗しいあの女性に、勇気というべきか、無謀というべきか……これまで村の若い衆が何人か、『お誘い』をした。

 結果は押して測るべし。
 にっこり笑顔で話題をあさってに逸らされ、一方的に会話終了。
 それを天然で気づいていないだけだと声高に主張する敗北者たちを、カイルは本気で馬鹿だと思う。思い込みとは得てして恐ろしいものだ。

 カイルは、床にうずくまってなにやら書きこんでいる思いがけず丁寧なラトの字を上から覗き込む。本人にしか判読不能な速記文字ではない。ちゃんと読める字だ。提出するものなのだから当然だが、そこにラトの本気を感じ取り、カイルは聞こえぬように小さく吐息を漏らした。

「あー……オレも受けよっかなー……」
「無理」

 一瞬の間も置かない即答だった。
 あまりの反応速度に椅子からずり落ちそうになるのを、慌てて椅子の背を抱え直し、体勢を整える。

「……ひどくね?」
「事実だし。なぁ、テストでは万年赤点、宿題やらないで居残りの常習犯?」
「見せてくれればそうはならないんですが。読めるかどうかは別として」
「だから、それじゃ根本的な問題解決にならない。なによりオレにメリットがない」
「…………ひでー……」
「受験料払えんならいいけど。受けるだけなら。べつに止めない」

 書きこんでいたものとは別の紙、ラトの指が示した部分に記されている部分をちらと見たカイルはうげっと呻き、大げさに体をのけぞらせる。

「……金ないって言ってませんでしたか」
「その分しかないの。あと旅費分」
「なんでおまえ、そんな金もってんの」
「手伝いしたらくれるから、アイツ。微々たるもんだけど。それを使わないでたら貯まってた」

 その日生きていくのにも困窮していた経験をもつラトは、かなりの倹約家だ。彼の部屋は5年経った今でも殺風景で、無駄なものは一切ない。加えて、ラムロット村にはほぼ生活に必要なものしか売っていない。金があっても使いどころに困るといえば、困るわけだ。

 紙に再びペンを走らせようとして、ラトの手がぴたと止まる。


「そもそもなんで、カイルまで受けようって話になるわけ」


 まさかそれを口に出して訊かれるとは思っていなかったカイルは、再び椅子から転げ落ちそうになる。危ういところだったが今回も踏みとどまる。

「そ、そりゃ、おまえ…………」

 じぃっと目を直視され、あまりの直球加減と『察しなさ』に、カイルはたじろいだ。

 ……言えない。

 言えるわけが、ない。
 二つも年下の素っ気ない友人に、間違っても吐けるような言葉ではない。もっと子どものときならいざ知らず、中途半端なプライドを持ってしまった今は。

「言えるかそんな恥ずかしいこと!」

 そのくらい察しとけよと無理なことを思いながら。

 ラトは納得いかなそうに、動きの少ない表情を歪めている。そういう部分で鈍いのだ。この、聡いカイルの友人は。

「本気にするなよ。ただ言ってみただけだから」
「いや、してないし」

 なにごともなかったかのように書類に向かう友人を邪魔する気は、もうカイルにはなかった。

 しばらくして必要なことを書き終えたらしいラトが、投げ出していた白い封筒に書類を納めたのを確認して。

「あのさ」

 滅多にしない真面目顔で、カイルが言った。


「おまえ、なれるよ。特待生っての」


 その場限りの発破でも気休めでもない、心からそう信じているからこその言葉を。

 知っているから。
 カイルはこの少年がだれよりも努力して、それゆえに聡明であることを知っているから。

「おまえがすごいこと、オレはよく知ってる。授業中に堂々とすっげ難しい本読んでるし。教科書持ってこないくせに、あてられても答え即答だし。先生、おまえのこと注意しなくなったもんな」
「諦められたんだろ。その方が楽でいいけど」
「……注意したところで、屁理屈で言い負かされるってわかりきってるからなーみんな」

 普段こそ言葉短い話し方であるが、ラトは舌戦となると淡白さは変わらないものの、反論をことごとく叩き伏せる。それが論争の場だけであればいいものを、普段から容赦というものを知らないものだから性質が悪かった。

 ただ、カイルは彼の、この容赦のなさも気に入っていた。
 相手が傷つくかと如何せず、言いにくいことを言ってくれる。歴史は浅いがラムロットの医者の家系として多少のことでは許されてきたカイルにとって、そんな存在は貴重だったから。

「特待生になりたいわけじゃない。それは手段で、最短の通過点」

 封筒を持つ手に力が込められる。


「おれは、魔術師になりたい」


 ぽそりと、だが強い意志のもとに。言った。


「王立学院の魔術科を卒業すれば、同時に魔術師協会所属の正規の魔術師として登録される。そうなれば十分独りで生きていける」


 小屋の本部屋にある蔵書をひととおり読み漁ったラトがもっとも興味を持ったもの。

 それが――魔術書。

 カイルは知らないが、ラトはすでに魔術の手ほどきを受けており、簡単な魔術であれば使うことができるようになっている。

 だが、魔術が使えることと魔術師であることは、違う。
 魔術師として社会に身を置くには、魔術師協会に登録し籍をおかなければならない。それで初めて社会的な地位を得、仕事を受けることができる。

 ラトの養い親は協会の魔術師ではない。
 つまり魔術師とは名乗れない非正規の魔術使いでしかなく、たとえどんなに大きな力を持っていたとしても、社会的に認められ、功績を残すこともない。協会という守り盾もない。

 つまり、出世の道はないということ。

 ラトには栄光を手にしたいという思いがあった。
 それはかつてあの町の片隅で、空腹に喘いでいたころにもっていた『踏みつけ返してやりたい』という憎悪に起因する。
 現在はそんな直接的な加虐心からくる思いより、少年の抱く立身出世への期待が勝ってはいたが。

 認めさせてやりたいという思い。

 それに、変わりはない。

「……じゃ言い直す。ラトなら絶対なれる。魔術師にさ」
「なに当然のこと言ってんの」

 それもそうだな、そう言ってカイルが笑った。





 森の入口まで二人は無言だった。
 普段であればうるさいくらいに話しかけてくるカイルの様子の違いに気づいてはいたものの、ラトが言及することはなかった。

 いつもの場所で足が止まる。

 なぁラト、と、兄貴分ぶってカイルが言い始める。

「やっぱりもう一度ちゃんと話しといた方がいいぜ。いくら遠くて金かかるっても、もしかしたら考え変えてくれるかもしんねーじゃん。そしたら金の心配しないで、特待生? それになれなくても入れるかもしれねーんだし。その方が現実的だろ?」


 ――べつにアイツは、そんな理由でオレが学院に入るのを反対したんじゃない。


 カイルにそう言おうかと一瞬は思った。が、言っても仕方がないことだ。
 それに、ラトが感じただけで明言されたわけではない。じゃあなんで反対されたんだと訊かれても困る。

「独りでなきゃいけないわけじゃないんだからさ。今のうちにスネかじっとけよ。な?」
「……考えとく。それじゃ」

 言って、別れた。



 これから何年逢わなくなるかなどということを、考えもしないまま。





   2010.6.20