小さな窓から差しこむ銀光が力を弱めて間もなく。
地平から生まれた淡く仄かな光が新たな光源となって、文字を追う彼女の、頬杖をつく横顔を照らす。
きし。
彼女の耳は、静まり返った薄闇のどこかからあがった微かな音を拾った。断続的なその音は少しずつ遠ざかり、やがて音として捉えられなくなる。
時を置かず。
気配がひとつ、彼女の領域を通り抜けた。
目が伏せられる。高く短いさえずりが不規則に響いている。
「少しくらい粘ってみせても、いいでしょうに」
届かない願いがふわと浮かんで泡と消え。
力を増した陽光が、机の上の影を濃くしてゆく。
指がゆるりと伸びた。
惑いと諦観に揺れながら――やがて白紙を選びとる。
稚鳥が巣立つとき 2
「…………おれって、運があるのかないのかよくわかんね……」
拾われたのは幸運だ。
同時に、拾われた人物の当たりはずれを問われれば、それも幸運と答えられる。
性格はともかく……彼女はラトに、確かに『生きる術』を教えてくれた。
拾ってくれたのが彼女でなければ、ラトが魔術師になりたいなどという夢を抱かなかった。その夢を実現させられるだけの力を得ることもなかった。
それについては感謝している。口に出したことは一度としてないにしても。
今朝方、だれにも見つからずにこっそり出立できたのも運がいい。
いつも玄関近くに寄りかかっているファルが、なにかを言いつかって小屋を開けていたのも。
それらは、幸運。
だが拾われる以前の問題がある。
両親が死んだのは間違いなく不運だし、引き取ってくれた隣家が一家心中したのも不運だ。自分も巻き込んでくれればよかったのにと、飢えに耐えながら何度思ったことか。
そして今。
「おい、ついてないなぁこのガキ」
「有り金……とは言わねぇ。金になるものも全部、置いてきな。そうすれば命だけは取らないでやるよ」
「今のうちに人生の世知辛さでも学んでおけってことさ」
こんな芸のない台詞を吐く、時代錯誤の野盗に遭遇してしまったのは――幸運な人間であれば、きっと起こらなかった事象。
なにかを確かめるように片手で指先を擦りあわせ、ラトは背後の一人をちらと見やった。短い刀身がぎらついているのを確認する。
「……そーだね。ここらで学んでおくのもいいかも」
欠片も慌てる様子のない子どもの冷めた目に、三人が不審を覚えたのも束の間。
「あんたらの後学のためにはね」
はん、という一笑をもって、ラトの表情が嘲笑に転じる。
「奔れ、焔!」
ひゅっ、と横薙ぎにはらった二本の指から、火焔が生まれた。
術式を必要としない分、精度もなければ殺傷能力もない炎の初歩魔術。
それでも脅しには十分だった。突然現れた炎に三人組は口々にわめきながら、服を舐めようとする火を叩きはらっている。
「ガ、ガキのくせに魔術なんつー物騒なモノ使うなんて卑怯だぞーっ!」
ぶるぶると震える指をさして糾弾してくる野盗の叫びは、もはや負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
残りの二人も得物を向けたはいいものの、無力な子どもだと思っていた者の思いがけない反撃に完全に腰が引けている。
「へぇ? そのガキに追いはぎしようなんて考えるのは、卑怯じゃないんだ」
「ぐぅっ……」
「先に手を出してきたのはあんたたち。だからこれは正当防衛。理解できる?」
「お、俺たちゃまだなにもしてないだろがっ!」
「刃物抜いた時点で戦意ありって見なされるの、知らないの? あんたらよく今まで野盗やってこれたね。いっそ感服ものだね」
あくまでも淡々と、しかし挑発的な態度を崩さない子ども。
そんなふてぶてしい子どもに、端くれとはいえ野盗たちが腹に据えないわけがなく。
「こんっ、の、クソガキっ! 調子に――」
いきり立って得物を振りかぶった一人の足元に、今度は雷撃が落ちる。
お約束に蛙が潰れたような声をあげて尻もちをついた男の手から、からんと硬質な音をたてて短剣がこぼれた。
「……なるほど?」
醜態を晒す仲間の後ろで、小柄な男がしたり顔になる。
「な……、なるほどって、なぁにがなるほどだ! んなこと言ってないでお前責任取りやがれっつの! お前だろこのガキに目星つけたのは」
「これだからやだね脳筋族は……今のでなにか気づかないか?」
「…………なにをだ?」
「お前、痺れてもないんだろ?」
「……それが?」
尻もちをついたままの仲間の間抜け顔に薄い憐れみを向けてから、小柄な男がラトを見てにやと笑う。
「お前さ、それ人に当てたことないだろ」
落ち着き払っていたラトの目が、ここにきてようやく追いつめられたもののそれと等しくなる。
なにを、と問うまでもなかった。
洞察された通り、ラトは魔術をもって人を傷つけたことはない。
あの静かな森と小さな村という閉ざされた空間の中では、そのような状況に切迫されろという方が無茶である。
刃を向けたことならある。
しかしそれは師となってくれた養い親や同居人たちとの一対一の組手だけ。命の奪い合いとは程遠い。
魔術を向けたこともある。
ただしそれも避けられるか、かき消されるか防護壁を張られるかが念頭にあってのもので、自分の魔術によって相手が傷つくなどあり得ない状況下での話。
ラトとしては、子どもとはいえ魔術が使えるという脅威に屈し、野盗たちが諦めるのを期待したのだ。
人に向けて魔術を使うことへの躊躇を見破られてしまったことは、実践経験ゼロの彼にとってかなりの痛手だった。
教授が始まる前のことだ。
彼の養い親は珍しく表情と言葉の一致する真面目さをもって、こう言い聞かせた。
『ラトくん、これから教えることは自衛の手段にもなれば、だれかを守る手段にもなる。けれども壊し、殺す手段でもある。
力を持つということは、その力に対して相応か、それ以上の責任を持たなくてはいけない。使うことは簡単。そして簡単に、あっけないほどに命は奪えてしまうからね』
持った力を使わないこともまた勇気だと、養い親は言った。
使う者の手を離れた力は災いとなり。
己をも滅ぼすのだと。
『この先も生き続けるはずだった人の命を奪うということはね、その命を、恨みを背負って生きていくということ――その覚悟がない限り、自己防衛以外の手段として他者に力を振りかざすべきじゃあない。
それは、それだけは見失ってはいけないこと』
アンタはだれかの命を背負ってるのかと尋ねた。
彼女はややあって僅かばかりに目を細め、たくさんね、と答えた。ラトくんが想像するよりもずっとずっとたくさん、と。
薬師なんてやっていながらどうしてアイツは人殺しなんだという疑問。
薬師だからこそ、命を救えなかったという意味で人殺しだと言いたかったのか。けれどもそれでは話の前後性がなくなる。……そもそもアイツはどうして薬師のくせに魔術だの剣だのを使えるのか。
そんな議論を頭の中で繰り広げるのは無駄である。
それをラトは知っていた。
知らなかったとしても、訊くことなどできなかっただろうけれど。
「つまりこのガキは、人を傷つけたこともない、威勢いいだけの甘ちゃん坊やだってことさ」
まったくその通りではあるが素直に頷きたくはない事実だ。
小柄男に叱咤された脳筋――もとい熊男が、戦意をもって立ちあがった。もう一人、赤バンダナの男が背後に回る。形勢が悪い。
「それに、魔術を使わせる暇を与えなきゃいいって話だしな……って、おいおい…………まだ他にも物騒なもん抱えてるのかよこのガキ」
服の下に隠し持っていた二本の短剣を抜いて身構えるも、一対三、しかも大人相手では劣勢なのは明らかだ。
「素直に全財産置いてけって。なぁ?」
「財産あるように見えんの?」
「なにもないってことはないだろ」
――こんなつまらないやつらに足蹴にされて、たまるか。
生きる術の欠片を手に入れて。
そして、これから独りで生きていく術を手に入れようとした目前で。
またおれは踏みつけにされて、乗り越えられていくって?
「そんなの、ごめん被るね」
重心を低め、足を踏みきろうとした、一瞬手前。
白い風が空気を切り裂いた。
重いものが倒れる音。悲鳴。獣の唸り声。
ラトの耳はそんなものを捉えてもなお、状況を理解することができない。
(狼…………、っ?!)
白銀の毛並み持つ美しい獣が、そこにいた。
襲い倒された熊男は、前脚で肩を力強く地面に縫いとめられ。
残った片方は仲間を一応助けようとして牙を剥かれ、もう片方は顔をひきつらせ、後ずさっている。
熊男から離れた獣が、高い吼え声をあげた。
予想だにしない助っ人、否、助っ狼の登場に、今度こそ肝を小さくした三人組はほうぼうの体で逃げ出した。
その後ろ姿に牙を剥きだし唸り続ける狼を、ラトは言葉をなくして瞠目していた。
「……もしかしておまえ、おれを喰いたくてあいつらを追い払ったのか?」
狼の真っ赤な瞳がじぃっとラトを見据えている。
「おれ絶対うまくないからやめといた方がいいと思うけど。腹、壊すよ。絶対」
短剣を向けながら、そろそろと後退する。
普通に背を向けて走っても、追いつかれるのはわかりきっている。魔術で脅して、その隙に逃げるべきか。こちらから手を出してはいけない。興奮されでもしたら敵わない。
そんな警戒心もあらわなラトの思考など知らない風に、白狼は先程見せた獰猛さをどこに潜めてしまったのか、牙を剥くでもなく跳びかかるでもなく、その場にちょこんと座りこんだ。
そこにあったのは野生動物が宿す、本能のみに動く瞳ではなく。
理性ある――穏やかささえ感じられる光。
(なんか…………似てる?)
彷彿とさせられたのは、つい昨日まで、見慣れたしまりのない顔で食事を作ったり菓子を作ったりなどしていた同居人のうちの一人。
一度狼を視界から外し、回想を打ち消す。似てるからなんだ。そもそも、白毛で紅い目だからといって狼と人間を混同するなどおかしい。
それはともかくとして、この狼に自分を襲う意思はないことを読み取ったラトは、いつでも魔術を放てるよう広げていた術式を解き、手を降ろす。
狼が美しく流れるふさふさの尾をぱたぱたと振った。
……狼というよりも、犬だ。その辺りもセレンに似ている。
なんとなく毒気を抜かれ、ラトはお座り状態の狼に倣い、ぺたんと地面に座りこんだ。
「……おまえのおかげで助かったよ」
手を伸ばして首のあたりを撫でてやると、狼は気持ち良さそうに目を細める。この人間に対する親愛はどこから来ているのだろうと思いながら、ラトはその首元に顔を埋めた。
獣の匂いの中にある、太陽の匂い。ふわふわした毛のくすぐったさ。そんなものを感じて。
――力を手に入れたって…………おれはまだ……使う覚悟も、使わない勇気も持てない、どっちつかずの臆病者だ。
狼は身じろぎひとつしない。
真っ白い体に加わる体重が増した。それでも狼の真紅の瞳には、せせらぎほどの揺らぎも起こらなかった。
――おれは、おれを踏みつけてきたやつを、踏みつけようとするやつを踏みつけ返してやりたかったわけじゃない。
「おれが、踏みつけられたくなかっただけなんだ」
あの森に抱かれた小屋で、村で、穏やかな小さな世界で生きていくことだってできた。
養い親に習うこととて、薬の知識でもよかった。そうしていつか医者になるのかもしれない友人と共に支え生きてゆく道を選び取ることもできた。
けれども――ラトはその選択を拒んだのだ。
独りにならない保証なんてなかった。
あのとき、わけのわからないまま両親を失ったように。
救いの手を差し伸べてくれた隣人が、自分だけを置いていなくなってしまったように。
今回もあの養い親が、同居人たちが、友人が、自分の前からふつりと消えてしまわない保証なんて、どこにもない。
自分だけを、残して。
どうせいつか独りになるのなら、その前に自分から独りになってしまえばいいと。そう思って――
「そんなの卑怯だって、わかってる。わかってるよ。
でも、おれは……」
がり、と地面に爪を立てる。爪の間にひやりとした土が詰まる。
あの頃はこんな汚れなんて気にも留めなかったっけと、ぼんやりと回顧した。
「そうだよ。おれは……」
――来るかどうかもわからないそのときが来るのに怯えて逃げだした、どうしようもない臆病者。