穏やかな、昼下がり。
今このとき閑散さを呈している通りは、もう少し経てば夕食の材料を買い求める女たちで溢れることだろう。敷き詰められた石畳には轍の跡が刻まれ、荷の行き来が激しいことを教えている。
道の端を、居心地悪そうに通り過ぎるラトの姿がある。
立ち寄るつもりのない場所だった。
しかし旅の中継町の名は伊達ではなく。旅人の食糧が尽きるのを見はからうような立地にあるこの町で、ラトも例にもれず、この場所で必要物資を調達せざるを得なかった。
成り行きで道中を共にしているやたらと人懐こい狼がウサギやら鳥やらをくわえてくることはあった。が、それを完全にアテにするわけにはいかない。いつどこでどのタイミングで、あの――便宜上『レン』と呼んでいる狼が、自分の前から姿を消すかわかったものではないから。
日程から考えたものより一日分だけ多く手に入れた携帯食糧を背嚢に詰め、ラトは一刻前に通ったばかりの町の入口へと急ぐ。狼の気まぐれがまだ息を持っているのなら、まだそこにいるはずだった。
意図など知る由はない。
だが子どもが一人で旅をする上で、あの白狼は最高のボディガードだ。たまにすれ違う人間にはぎょっとされ距離を置かれるが、同時に性質の悪い人間も寄りついてこない。人間のように余計なことも喋ってこない。これ以上の同道者ならぬ同道動物はいないだろう――
と。
後ろ肩に、衝撃。
「悪ぃな!」
一応謝りながら走り去ってゆく後ろ姿を、どこにも体を預けることなく持ちこたえたラトの目は、逃さず捉えていた。
少年の手に握られた……とてつもなく見覚えのある物体も。
「未だにこれかよ……っ」
進歩のない手口にまんまとやられた失態に呆れ、ラトは舌打ちをして追いかける。
それは、苦さと苛立ち、既視感を連れてくる背中――
稚鳥が巣立つとき 3
年の割には小柄な方だが、体力はある方だと自負している。
体の資本は食事からねと持論を語る養い親は、浮浪児からすれば、もうなんの晩餐かと見まごう食事を提供した。
実際には一般家庭より少し豪華で栄養バランスのよい食事という程度だが、拾われる以前に食べていたものといえば硬くなったパンと野菜くずがせいぜいだったから、あたたかい食事というだけでもう、ラトにとっては十分に御馳走だった。
あの食事が『鍛錬』へと向かう原動力となっていたことは、保存食生活が続いたことで身に染みた。
記憶力も、それほど悪くはない方だろう。
教え方が良かったのか悪かったのか定かではないが、まぁ良かったのだろう――文字を教えてくれたのはもっぱらセレンで、『もの覚え早いねぇー』と、徐々に教材を難しいものにしていった。
最後の方に教材が魔術の研究論文にまでなっていたのはさすがにつき合いがよすぎる……というか、そこまでいくと一人で読みたかったのが本心だったが、そこで注釈された知識が魔術の応用理論だったことは結果オーライと言うべきか。さすがに理解するには至らなかったが、参考にはなった。
……こうしてよくよく考えてみると、養い親は実はリィンではなくセレンの方だったんじゃないかと思えてくるのだから不思議だと、ラトは思う。
しかしセレンは認めたくはないが兄のような存在でありながら、同居人でしかなかった。ではファルは、といえば、こちらは兄というよりも父に近いのではないかと思える。しかし親、とは思えない。となると、やはり同居人の枠を出ない。
そしてリィンが本当に親の位置づけにいるのかと言われると……ラトは素直に是と言えない。
彼女はあくまで『養い親』であり、親の位置にはいないのだ。
親というよりはもう少し距離をおいた――口に出したらどんな目にあわされるかわかったものではないので言葉にすらしたことはないが――『おばあちゃん』の位置にいるのでは、とラトが感じ始めたのは、つい最近のこと。
ともかく、ラトはひったくり犯を見失わずに追跡できる体力と、裏路地における地の利を相手に譲らないだけの記憶力を持っていた。
「あのさ。おれに返すものがあると思うんだけど」
言ってからはたと気づき、顔が引きつっている自分を自覚して、ラトはひそかに自己嫌悪に陥る。
……今の言葉は、同じ状況でリィンが放った言葉と違わない。しかもそれが第一声だったというのだから、いったいどんな出会い方をしたんだという話だ。
「なんで」
今さらながら複雑に思うラトを睨みつけながら、呼吸を荒げた少年はそれだけを言った。それだけしか出てこなかった。
「質問の答えになってないんだけど」
「なん、でっ、追いついてこれんだよ! ここは俺達の縄張りだ! おまえみたいな育ちのいいやつが」
「だれの育ちがいいんだって? シリル」
ひったくりの少年が目を見張る。
決して、覚えていたわけではない。ふとよみがえった、思い出したくもなかった記憶とともにあふれてきた名前のひとつをあげただけ。それが運よく目の前の少年のものと整合したことへの感慨は――まったくかけらもなかったが。
「いたよな。五年前。突然行方くらませて帰ってこなかったチビ。それともなに、そんなやつがいたことも覚えてないって?」
「おまえ……」
「べつにいいけど。覚えられてなくても。……いいからそれ返せよ。そうすればなにもしないで許してやるから」
少年――シリルはしばらく意識を探り、記憶にさまよわせている風だった。そしてふっと、ぴたりと嵌まるパズルのピースを拾いあげたかのように表情を浮かせ、次に眉を寄せてラトを凝視した。
それでもまだ納得がいかなそうに首をかしげ。
「女についてって、それっきりいなくなったっていう……あのチビ?」
「たぶんそれ」
……まったくもって間違いではなかった。
「偉くなったもんだな」
憎しみのこもったぎらつく目。これが彼の本性なのだと思わせる、板についた表情で。
「俺に殴られてびーびー泣いてたチビは、どこのどいつだ? スリで金盗ってこいって言ったときも、おまえ黙って言うこときいたよなぁ? 許してやる? おまえ、だれにどの口きいてると思ってんだ」
ラトは、シリルに五年前の自分を見た。
憎しみも、妬みも、今自分に向けられている感情全てが、ラトの中にあったもの。あの森の小屋の不可思議な、穏やかな暮らしの中で丸められ、奥底にしまいこまれた負の感情たち。
――ああ、そうか。この感情の、正体は。
――きっと、憐憫。
なにも変わらなかったのだ。
シリルたちを取り巻く状況は、なにも。
自分は幸運に選び取られ、あの生活から抜け出ることができたけれど。あんな幸運、そうそう起きることではない。
シリルは高すぎる確率でこうなるかもしれなかった自分。
抜け出すすべなく、少し考えて抜け出そうとする意思も薄れ、状況に甘んじ生きて行くしかなかった子どもの行く先。
だからといって真実、本当の憐れみが生まれることはなかった。
憐れみも、情けも、持っているものだけが向けることのできる「見下し」だと、ラトは今でも思うから。そんなものを向けないことが、昔の仲間へのせめてもの礼だと思うから。
「もう、おれはおまえを怖いとは思えない」
「なんだと?!」
「おまえみたいな力を振りかざすだけのヤツ。昔から大嫌いだった。でもおれは抵抗する力すら持っていなかったから、自分を守るために従ったよ。殴られる状況をつくるのはごめんだったから」
ひたりと据えた目を逸らすことなく、ラトはただ淡々と言葉を紡ぐ。
「でも、おれはおまえみたいになりたくないから。だから、返してくれればなにもしない。そう言ってる」
「ふざけたこと……っ! 第一、その言い方がむかつくんだよ!」
「……悪かったね」
言葉が通じないのだろうか、とラトは思う。
意思の疎通を図ることのできない人間がいることは知っている。五年前までは、そんな人間たちばかりを相手に生きていた。けれども最近は気が長く、話もわかる穏やかな気性の人間とばかり接してきたせいだろうか。その手の耐性が薄くなり、気が短くなっている気がした。
「じゃあおまえ、いったいおれにどうしてほしいわけ」
精一杯の自制心を発揮し、それでも――それゆえに冷めきった、感情の乗らない声がラトの喉からこぼれた。
その瞬間シリルの顔に浮かんだのは、見ている者の気分を悪くする、勝ち誇った笑み。
ラトが屈服したとでも思ったのだろう。彼が気づくことはない。眼前にしている、自分が搾取する側だと信じている子どもが、以前の自分に従っていた「弱い」子どもではないということに。
「まずひとつ。この荷物は俺のもの。でもって次は……そうだなぁ、うん。よし」
からん。
足元に放り投げられたものを視認して――ラトはとうとう呆けた。
――こいつは、いったいなにをしくさっているのか。
そしてさらにデジャヴ。
あのときはラトが投げつける側だったが……いや、ここまで愚かなことをしたわけではないのだが。
「貸してやるからよ。これ使って、そのへんの金持ってそうなやつ脅して盗ってこい。おまえももうチビじゃないだろ? 使い方くらい――わかるよな」
「…………おまえさ。バカだバカだとは思ってたけど。見上げるくらいの馬鹿だったのな」
ラトは片手で頭を抱え、心底呆れた、と言わんばかりに長い深いため息をついた。
わけがわからないといった顔をしているシリルを視界の端に捉え、緩慢に身をかがめて拾い上げたもの。馴染みのあるものよりも造りも使い勝手も悪いとすぐに知れるそれを手の中で弄びながら。
「シリル。おまえさ、おれのこと信用してんの?」
「は? してるわけないだろ」
「……だったら、信用できないやつにこういうものよこすなよ。喰らいつかれるとか考えないわけ。ほんっと、どんだけ馬鹿なの」
どこかで拾ったのだろう粗悪品のナイフ。
ろくに手入れもされていないどころか刃先に錆まで浮いている。これでは使いものにならないばかりか、向けた相手に素人だと吹聴するようなものだ。
おそらくシリルはこのナイフを使ったことがないのだろう。
使えないことを知りながらこのナイフで恐喝してこいと言ったのなら、ラトはなかなかの嫌みだと逆に感心したところだ。
「つーかおまえによこされるまでもなく持ってるから」
外套の前を広げたラトの示した指の先、それを認めたシリルの足が一歩後ろに退いた。
「……返しとくよ」
風を切る音、かつりという硬い音とともに、ラトの手の中にあったはずの錆びたナイフはシリルの足元近くに刃先を埋めた。
「おまえにこれを使う意志があるとは思えないけどね。代わりにおれの荷物――……って、おい……」
最後まで聞くことなく、シリルは奪った荷物をその場に捨てて走り去った。
残ったのは転がったラトの背嚢と、錆びたナイフ。それだけだった。
『これはだれかを傷つける、命を奪うことのできるもの――それでも、剣に使われることなく、使うことができる? 命を、恨みを背負うことができる?』
ラトが木剣の扱いに慣れてきた頃。
小屋の奥にしまいこんでいたらしい二本の真剣をラトに突き出して、養い親は真顔で問うた。
どんなに小さくとも、刃は命を刈り取ることのできるモノの象徴。
武器を扱う店を構える者の多くは、買い求める者がその武器を預けるにふさわしい器を持っているか定め、認めた者にしか売り渡さない。そんな誇りを持っている。
覚悟なき者が武器を持ち、守れるものなどなにひとつない。失わずにすんだはずのものを増やすだけ。
武器は、傷つける覚悟と傷つけられる覚悟をあわせ持った者の意志と、手段のかたちだから。
だから、相手の武器に、自分が傷つけられることに、あからさまな怯えを見せるシリルのような者が持ってはならないものなのだ。
「つーか、そもそもなんで、おれがシリルなんかに講釈たれなきゃなんなかったんだか……」
隣をゆく狼は、少年のひとりごとにかすかに首をかしげた。
刃先を埋めた小さな刃の柄は、その先しばらくだれの手にも触れられることはなかったという。