草木の焦げた匂い。
土に染みた血の匂い。
大きな魔術の使われた残り香。
それらは常人にとっては風化し、消え去って久しい痕跡。
しかし鋭敏な五感をもつファルの鼻は、この場所で近年、激しい戦いがあったことを読み取った。
ふと首を巡らせただけでは、ところどころで緑を成しているこの草地が戦場であったとはわからない。だが目を凝らすと見えてくるものがある。
背を伸ばした雑草の影に転がる鉄の残骸。炭化した木々。地面に突き刺さったままの矢の一部分。そんなものが。
膝をついたファルの手が、折れた剣を拾い上げる。
赤茶けた錆の侵蝕を促進させたもの。容易に推し量れるその正体の匂いが殊更に存在を主張し、鼻腔をくすぐっても、その表情からは眉ひとつ動く気配もない。
争いとは些末ごとであり、生にあっては当然の過程。
ファルはそのように考える。
もっとも、人間のそれは目に余るともいえる。
縄張りを守り、得るための同族同士の争いにしては、巻き込むもの、犠牲にするものが多すぎると。守るために戦ったはずなのに、本当に守りたいものが失われることが多すぎると。なんのために争うのか、その意味を考えようともせずにただ力を振るう者が在りすぎると。
だからファルの目には、人の争いは無為なものに見えてならなかった。
『無為だと思うのは、ファルがファルの中で、争うということにしっかり根をもった意味を見出しているから。でもそれは、ファルの中でしか通用しないことかもしれない。
目線の方向転換、ね。もしかしたら違うものが見えてくるかも』
ファルが人間の争いの正当性を訊ねたとき、彼の主は、そんな的外れと言えなくもない答えを返した。
自分を強く持つことは悪いことではない、けれども強すぎる自我は自分をも滅ぼすかもしれない――とも。
己が目で、見て聞いて。
自分ではない立場の者の発言を、最初から否定を持たずに受け入れて。
そうしていればいつか、今まで見えていた視界がより広く開け、新しく見えてくるものがあるかもしれない――と。そう。
ファルは、そう説いた自分の主が全てにおいて正しいわけではないことを知っている。
そのことを知っているからこそ、また、盲目的に従っているだけではないからこそ、その信念を信じることができるのだと、ファルは思っている。
――
そのときファルの耳に届いたのは……わずかに空気の揺れる感覚。そして五感とは異なる部分に働きかける、違和感。
緑玉の瞳だけが、その存在「たち」に向けて、す、と動く。
「……なにを」
口の中だけで呟く。
捨て置くべきか、把握するべきか。
迷いはほんの一瞬で消える。
ファルは自分をこの地に向かわせた主の意図を量り――錆びた刃先を投げ捨てた。
赤と黒、その境界
「まだ、理解できないのか? 自分が用済みだということにすら」
地に体を投げ出した「生き物」が、ひとつ。
どくり、どくりと脈打つごとに体は痙攣し、低い音ともつかないうめきが洩れる。
うつろな紅の瞳に光はない。それでもせめて、自分をこのような目におとしめた者の姿を刻み呪わんとばかりに、血走った眼を見開いて。
その喉元に、一迅の風が奔った。
衝撃にびくりと全身を震わせた生き物は――首に鋭い小さな刃が突き刺さったのだと知る暇も与えられないまま、一切の動きを止めた。
止まることを知らぬのは、ゆっくりと広がってゆく赤の領域。それだけ。
「写身の魔族……生の最期に、我が主のお役に立てたことを光栄に思え」
一片のやわらかさすら削ぎ落とされた声だけが、むせるほどの血の匂い漂う空気の中に、凛と響く。
静寂がおちる。
それを破ったのは再び、温度のない、感情の振幅の少ない――細い声。
「…………盗み見とは、趣味が悪いな。猫。主に似たか?」
首だけで振り返る動作にともない、肩までしかない燃える赤毛がはらと揺れた。
黄金色の瞳。
王者のごときその輝きは、冷たく、淡白にファルを眇め見た。
「……イェルフランジュ」
「気安く呼ぶな。我が誠名が汚れる」
赤毛の娘が、表情の薄い顔を歪めて吐き捨てる。
どこにでもいるような小柄な少女だ。きちりとリボンを結わえられた襟元や整った眉目からは、どこか高貴ささえ感じられる、少女。
しかしこの小さな体に秘められた真実は、あまりにも強大な――覇者の力。
そのような力を持ちながら、彼女は『主に従う者』であり、『主以外に興味のない者』。主のためとあれば、敵意を持たずに、しかしどこまでも残酷な行為にも及べる――そんな、者。
「…………あの魔族は」
動かぬ塊となった『生物だったもの』を横目で見やるファルに、少女はすげなく答える。
「貴様には関係のないことだ」
「あれは、口封じだろう。……なにを始めるつもりだ」
「酔狂なご主人さまへのご報告のために情報収集か? ご機嫌取りに必死だな」
吊り気味のファルの目が剣呑さを宿す。
その迫力に圧される様子など微塵も感じさせない少女は、口元だけに薄い笑みを刻み、哂った。
「あの方と同等に近い力を持ちながら、その力を正しく使おうとしない。かと思えば、理解に苦しむとしか思えない馬鹿げた余興に心頭する。……これを酔狂と言ってなにが悪い」
酔狂。
以前、同じ言葉で彼の主を評したものがいた。
ファルに言わせれば、その相手の方がよほど酔狂であり、今回もそうと評したイェルフランジュの主の方が――、……いや。
――今の自分は主の酔狂の、その結果か。
今の自分をつくった主の力の使い方を、ファルは絶対的に正しいなどとは思っていない。同様に、彼の主自身も。
力とは――結果の正しさよりも、使うものが、どうあればより良い方向に向けることができるのかと考えることが大切なのであり、結果のありようはその過程に付随するだけのもの。
「正しい力の使い方など――存在しない」
ファルはそのことを理解しろというつもりはなかった。
ただ、自分たちと同じような存在が、絶対的な主をこうまで盲信しているということが。苛立たしくてならなかった。
「存在する」
イェルフランジュが言い放つ。
「貴様にはなくとも、あの方には存在する。あの方の――ルタ様の成すことこその、すべてが」
真の正しさだ。
そう断言した少女には、迷いの欠片もない。
イェルフランジュの長いスカートの裾が、一迅の風にふわとひるがえる。遅れて、ファルのコートをもはためかせた風は、色は同じくとも匂いの異なる魔族の血の残り香を含んでいた。
「おまえは……危険だ」
緑の眼光が、少女を射抜かんとばかりに鋭さを増し。
巨大な刃をもつ武器を体の前に構えたファルを、イェルフランジュが一笑に付す。
「だから排除すると?」
「……」
「ふん。貴様は往往、もの覚えが悪いとみえる」
イェルフランジュが薄い、格下のものを哀れみるような笑みを唇にだけ浮かべ、目を閉じる。
「三歩歩くとものを忘れる猫は、私に何度辛酸を舐めさせられたか……そんなことすら忘れたらしいな。難儀なことだ」
華奢な拳、指の間に、獣の爪に似た小さな刃が陽光を得て煌めいた。
「いいだろう。炎を統べる空の覇者、その最後の後継たるこの私が。猫。貴様の相手をしてやろう。犬の援護なしに貴様がどれだけやれるのか……見極めてやるのも、悪くはあるまい?」
ふたつの影が地を蹴り、火花が散った。