「ラトくーーん」
行き交う人々の中から空に向かって伸び、ひらひらと腕が一本、宙に踊る。
拾い上げた声だけでもう十分すぎるほどの確信があったのだが……人影の間からぴょこりととび出てきた、白い髪。瞬間、ラトは自分の頬が引きつったのを感じた。
ふた月前の記憶と変わらぬ締まらない笑顔が、一歩一歩と近づいてくる。
なにも言わず家出同然に出立してしまったことへの後ろめたさと、自分の前に現れた理由への疑惑が、緊張感から解放されたばかりのはずのラトに、またしても――より心の芯の部分に及ぶ緊張を植えつけた。
怒られるだろうか。
連れ戻されるだろうか。
というか、……もしかしてあいつも一緒なんだろうか。
(……逃げよう)
主に恐怖を覚えたのは三つめに。
結論を即座に実行に移した少年が、最初の角を曲がる前にあっけなく捕まりセレンの腕にぶら下がったのは――言うまでもない。
箱庭の先へ
「……尾行てたとか」
「そんなことしてないよぅ」
胡散臭さ全開のにこにこ笑顔に閉口し、忌々しく目を逸らす。
音を立てて冷えたコーヒーをすすると、すかさずお行儀悪いよーと注意が飛んだ。うっせぇな、努めて小声の文句に意図せずして舌打ちがつく。
コーヒーは養い親が年中飲んでいたせいですっかりクセになってしまった。運んできたウエイトレスはなんの疑問も持たずにセレンの前に置いていったが。そのセレンはといえば、ただの水をちびちびと舐めるように飲んでいる。
「ぼく鼻いいからー。ラトくんの匂いを嗅ぎつけてここまできたのかもねぇ」
「犬かよ」
「あ、惜しい。近いなぁ」
悪態がただの指摘にしかならなくなった瞬間だった。
が、ラトは動じない。ただ腹の底に苛立ちをため、紛らわそうとして舌打ちが入るだけだ。
だいたい、犬だからといって匂いを嗅ぎつけてこれる距離ではない。
ラムロットの森を出て、国境を越え、入学試験会場にして王立学院のあるイヴァンの王都にたどりつくまでふた月かかったのだ。ラトは要所要所で乗合馬車を使ったり荷馬車の荷台に乗せてもらったりもしていた。最短、とは言えないが、けっして遅くはない旅程範囲内の到着だ。
それにしたって犬の嗅覚をあてにするのは難しいと思われる。
同道を務めてくれていた狼は、馬車から降りてしばらくしてからひょっこり現れたりもしていたが。それは嗅覚でというより単にこっそりついてきていただけだろう。
国境越えに問題はなかった。
ラトは通行手形を持っていなかったが、送られてきた資料に同封されていた一次試験の通過証明書がそれに相当したらしい。通行許可のことにまで頭を回していなかったので、検閲の兵になにか身分証明になるものはと威圧的に問われ、あせって背嚢をひっくり返したのは記憶に新しい。
ところでー、とセレンはどこまでもゆったりと話題の転換を図ってきた。
このゆるさに癒しを見出す人間もいるのだろう、という考えには及ぶ。しかしこのゆるさに対するラトの評価は、最初から今現在まで徹底して『うざい』のひと言に尽きる。
「外の世界はどうだった? ラトくん?」
瞬間、ラトの目に力がこもった。
もとから柔和とは縁遠い目つきではあったが、ひとたび警戒するとますます近寄りがたさが増す。
「そんなふうに構えないでよ傷つくー。そんなとこファルくんに似なくていいのに……わかったよ、じゃ質問変える。これから一度小屋に帰る? それともこのままここにいるー?」
「え?」
「え……って、え、もしかして落ちたのー?」
「受かったっつの」
予想外に普通の質問だったので面喰っただけである。
ラトが出てきたのは王立学院。今日この日、臨時の入学試験が行われていることを知っている者は限りなく少ない。が、イヴァンの王立学院に入りたいという意志を一蹴されたラトが家出し、その場所から出てくれば……状況的に、試験を受けに行ったとわかるなと言う方に無理がある。
「だよねぇ。もーびっくりさせないでよ」
そう言ったセレンにラトは、どこが、と心中で悪態をついていた。
びっくりしたと言いながら「落ちたの?」と聞いてきた瞬間のセレンは、完全に普段からさらに五割増しの笑顔だった。暗にもなにも、素直に『だったら帰ってこい』という意味か。
ささやかな嫌がらせの余韻を振り払うかのように、ラトはうっとうしげに頭を振って。
「そうじゃなくて。なんで受かった前提で話進めてんの」
「え、当たり前でしょー? リィン様とぼくで教えたんだよ? 受からないはずないでしょ。それともなに? ダメもとで受けてみよう、運がよければ合格するだろー程度の気持ちでここまできたの?」
「そんなわけない」
「じゃ、いいじゃない前提で。で、どっちー? 帰る? 帰らない?」
「帰らない」
時間的に無理ということはない。仕度金を使い、時間短縮できる中央ルートを突っ切ればの話だ。
だがラトは入学までの自由な時間を移動時間に費やすより、案内される途中で通り過ぎたドアの隙間から見えた膨大な蔵書の攻略にあてたかった。
そもそも、一時であれ帰る気などラトにはなかった。
特待で試験には受かった、金銭面での迷惑はかけない、だから入学を許せと言いに帰るのか。そんなことをすることに意味はない。それでもだめだと言われて素直に受け入れるくらいなら家出はしない。そこまでだめだと言われる筋合いはないとも思う。
「うんそっかー。あのひとね、ああ見えて寂しがりやさんなんだ」
「相変わらず、すごい話題の転換だな」
「ラトくんに似て」
投下された爆弾発言に、残り少なくなったグラスの中身をかきまわしていたラトの手が、びたりと止まった。
ややあって、ゆるゆると視線を上に持ちあげ、その先にあるこれ以上ないほどいい笑顔を確認し、また下げる。目頭を押さえて揉んだあと、ストローに口をつけて一気に飲み干した。
その直前、養い親を寂しがりやだと評されていたまでは、へぇそうなのか。どこが。と頭の中で吐き捨てていたものだったが。
「だれが、だれに似てるって」
「うん、だからラトくんがリィン様に。あれ? リィン様がラトくんに? あれー? ……まぁどっちでもいいやー」
「ホントにな。だいたいおれとアイツは他人。血、繋がってない」
「でも似てるのは事実だもん。一緒に暮らしてると、案外似てきちゃうもんなんだよー? ぼくみたいに……って、うーん……そういうことじゃなくてね。なんて言えばわかりやすいかなー……。
うん、そう。根っこが似てる」
「似てない」
「さっきも言ったけど意外と寂しがりやさんなところとか」
「聞けよ人の話。違うし。寂しがってないし」
「一線引いてるところとか」
「あれのどこが」
「じゃ、いなくなられるのが怖いから、自分が先に置いてっちゃえばいいやーって思ってそれをホントに実行しちゃってるところとか?」
否定しようとして、言葉が喉に詰まる。
セレンは的確に、どうしようもないくらい的確にラトの心理を当ててみせた。
芯を突かれ、似てなんかない、そう返すので精いっぱいで。
「あのね、ぼくはね、そういう生き方を悪いことだなんて言わないよ。そうするだけの理由がリィン様にはあるから。知ってるから。それだけの理由がラトくんにはないなんて言いきれないから。
でも、ぼくが一番たいせつなのはリィン様なんだ」
そんなこと知ってる、ラトは心の中で呟く。
セレンも、ファルも。優先の一番はアイツで、おれは――
「だから、ホントはラトくんには、このままリィン様の前からいなくなっちゃわないでほしいなぁ……なんて、思ってるんだよね。もちろんそれだけじゃないんだけどー。
――はい、ここでもいっこ質問ー。二度と帰ってくる気はない? それとも、いつかは帰ってきてもいいかなーって気持ち、少しはある?」
「……少し、は」
笑顔に圧倒されかけながら、決して虚偽はなく答える。
「そっか。はい。これどーぞ」
そんな言葉とともに、すいっと差し出された小さな四角い紙。封筒。
間を置かずセレンが席を立ち、言った。
「じゃ、ぼく帰るね。用事済んだし。ラトくんもしたいことあるだろうし」
「アイツから?」
「とうぜーん。読んだら泣いちゃうかも」
「泣かねぇし」
「ぼくが行っちゃっても泣かないでねー?」
「……」
「そこも反応してよぅ。もーほんっとファルくんにも似ちゃってー……」
肩を落として遠くなるセレンの後ろ姿を、少しだけ、ほんの少しだけ。もう少しゆっくり歩いていけばいいのにと思った。
まだ、封を切らない手紙。
そこに記された文字たちには、たくさんの言葉がこめられているということ。そして言葉にならないふわりとあたたかな想いがあること。
そんな抽象的な、目には見えないものを受け取れるようになったことが不思議だった。
だれのおかげなのかははっきりとしている。
けれど、口にも態度にも、感謝なんて出すことはできなかった。『感謝している』なんて思われたくなかった。今の自分は自分の努力あっての賜物で、だれかのおかげだなんて認めたくなかった。
なんでも自分でできるなんて、思い上がったガキだった。
今のラトにはそのことがよくわかる。
導かれなければ、見守られなければ、なにを得ることもできなかった自分。いつからあんな思い上がりを持つようになったのだろう。縮こまって生きていたころは、分というものをわきまえていたはずなのに。
他者をねじ伏せられる力を持ったからだろうか。そうだとしたら、力とはなんと人を愚かにするものなんだろう。
持つものが愚かであるほど力は災いとなって自分に返り、飲み込まれる。
正しくあっても、それが善であるかなんてわからない。
――おれは、愚者にはなりたくない。
『力を持つことに責任を持ちなさい』
アイツのあの言葉は自分にとってこれ以上ない戒めだったのだと、ラトは今さらに理解する。
――おれはまだ、子どもだ。
アイツは言ってた。
子どもってのは、守られていいものなんだって。
おれは守られるなんて嫌だった。
守られていたら、あんな居心地のいい場所に居続けたら、置いて行かれたときに今度こそなにもかもなくして、身動きも取れなくなる気がしてた。
そうだ。独りにならない保証なんてない。
おれに生きていく術ってのを教え込んだのは、いつかおれを置いていってもいいようになんだろう? おれはそう思い込んでいた。
でも、違った。おれは自分から独りになろうとしていただけ。
『ひとり』は、『独り』とは違う。
本当の独りというのは、だれにも心を拠らせない。
そのことがわかった今も、おれはひとりで生きていこうとしているけれど。でもきっと独りではない。
カイルがくれた、なんでも言い合える友達って存在。
ファルに教わった、なにも言わずに黙って隣にいてくれることがとても落ち着くこととか、自分より大きいものと戦う術。
セレンが作るお菓子が美味しかったこととか、いろんな系統の魔術の基礎知識。
そんなものたちをくれたのは、あの日おれをすくいあげた手の持ち主。アイツ。
守られたくないなんて思っておきながら、おれは守られ続けてた。
ぱちぱちと爆ぜる枝。だれもいない夜の森。オレンジ色の炎を見つめながら、ぼんやりとした、けれども確信が頭をよぎった。悔しさよりも先に浮かんだのは、涙だった。
おれは、守られた子どもでいたかった。
与えられることになんの疑問も抱かない、無知な子どもでありたかった。
その先には、おれが想像もできないような普通の幸せなんてものが待っていたんだろう。
でもおれは持っていなかったから、『普通』なんてものが、本当は手の届かない高い場所にあることを知っている。知っているから、だれかに守られるってことがどんなに幸せなことかってことに気づいた。
この先も、おれはきっとあんたの想いに護られて。
大人になって、強くなって。
おれにたくさんのあたたかいものを注いでくれた人たちの、今度はおれが助けとなりたい。
だから、そのときまで。
あんたのところに。『ラト』がはじまった、あの小屋に。
おれのオモイデ――置かせといてくれよな。
意を決して手紙の封を切る。
一枚の便箋の中央に、想像以上に短い二行の文章。
『おみやげはお酒でよろしく。
私の息子、ラティアル・ヴァロアへ』
「……………………おい……」
これはないだろう。
人が感傷に浸っていたところに、これはない。
ラティアルというなにやら聞き慣れない名前は、おそらく以前言っていた自分の本名なのだろうが……前についている一文のせいで感動もへったくれもない。
というか、あの養い親からの手紙に感動を求めていたらしい自分が、なんだか悔しい。別の意味で泣きたくなる。
追い打ちをかけるように、ラトの前に立ったウエイトレスが一言。
「こちらお勘定になりまぁす」
「……はい」
おれが払うんだな。二人分。
その瞬間、ラトは次に会ったときに利子つけて請求してやろうという決意を固めた。
もちろん酒代も込みで。