ぶつりと途切れた意識が再び浮上を始めるまでに、どれほどの時間が経ったのだろうか。
おぼつかない、たゆたいの中にある頭では時間経過を把握できない。
それとも今ここにある意識の片鱗は、俺の見ている夢なのだろうか。本物の俺は未だ、術式と図形に頭を悩ませ、また机に伏しているだけなのだろうか。
そうであればよい。そうであってほしい。
ひとつの終わり
ゆっくりとまぶたが持ち上がるように視界が開けてゆく。
……暗い世界。
張りつくような闇は、目が開かれているのか閉じているのかを不覚にさせる。
黒檀、漆黒、暗黒。そのどれもが当てはまらない――ただ、闇。
己の存在すら感じることができない闇の中で、これは夢か、それとも紛れもない現実なのかと確かめることにようやく思考が運ばれた。腕で体に触れようとする。得体の知れぬ違和感に襲われる。
触れることができない。
腕の感覚が、体の感覚が、ない。どんなに意識を伸ばしても、全ての感覚は遮断され、なにをも感じとることができない。背筋を這うような悪寒が昇る。なにも考えられなくなる。思考の拒否。夢であってくれればよいのにと思考する、実のない逃避が奔る。
――あぁ。俺は……死んだのか?
思考の進行と拒否との葛藤の末――ぽん、と唐突にはじき出された仮定は、納得はともかく、理屈としては通るものだった。
動かしているつもりなのに繋がらない感覚も。荒いつもりの呼吸に息苦しさを覚えない胸も。どこにも拠りどころのない、海にたゆたうような頼りない浮遊感も。
声に出したはずなのに震えぬ喉も、音を拾わぬ耳も。
ここは死の領域で、自分は生から切り離されてしまったのだという理由をつけるのには十分……なのかもしれない。
これが死の世界。
色彩のない、音のない、己すらない世界だというのか。
死とはなんだ。死後の世界というものは、こんなにも虚無に抱かれ、無に近いものなのか。
無に近づくということなのか。
――俺が、俺で、なくなるのか。
ここにある意識が本当に自分のものなのか。これをいつまで保てるのか。この意識が消えたとき、自分はいったいどうなってしまうのか。
今にも押しつぶされて己が失われるかのような切迫に、叫びだしたくなる。
音をつくる喉すらないのだから、無理なのだろうか――変に冷静な自分が可笑しかった。いっそのこと狂ってしまえればいいとさえ、思った。
音を拾わぬと思っていた耳が、粘着質に濡れる音を捉えた。
闇だけと思っていた視界に異形の姿が映し出される。
闇に沈まんばかりのどす黒い二体の異形の間に、赤黒い物体がうごめいている。互いに競ってでもいるらしい。なにかを貪っているようだった。
生理的な嫌悪を抱きながらも意識を凝らす。
元はなんだったのだろうか。おそらく生き物であっただろう物体に、生きていた頃の名残はない。それは今、ただの引きちぎられ、噛み砕かれ、飲みこまれるためだけの肉塊としてそこに在る。
鮮烈な紅の端に、色素の薄い糸束に似たものがちらついた。
どこか見覚えのある色彩をもったあれは――
警告が、鳴った気がした。
それ以上を考えてはならない。気づいてはならない。知ってはならない。
けれども俺は、理解してしまった。
反射的に吐き気がこみ上げる。
けれども、俺はもう、吐くという機能を奪われた。
奪われたのだ。あの異形たちに。
あれは。
20年間、俺を成していた容れ物であって、俺を俺としていた全て。
感情が消えた気がした。
そうでなくて、どうして、原形を特定できない代物となり下がった自分だと思われるモノを咀嚼され飲み下される様を見ていられるというのか。
…………。
あいつはまた、泣くだろうか。
俺が半分負い続けるつもりだった意志を、あの小さな肩に全て背負ってしまうのだろうか。
こんなものが俺の求めてきた結果だというのか?
こんな終わりが? 結末が?
冗談じゃない!
俺はまだ、なにも成し得ていない。
独断で試みたハイリスクの末に、結局はなにもわからず、なにも遺せず、共有した意志だけをあいつに残してしまうなど。
あの惨めな終わりが俺の最期だとしても、まだ早い。未だ俺は……。
「生きたいか?」
悪魔の甘美な囁きが、体を失くした俺の魂の隅々にまで滲み渡る。
形なき腕を伸ばすことに、ためらいはなかった。
その行為は背徳とでも呼ばれるだろうか。呼びたければ勝手に呼ぶがいい。俺は選んだ。大切なのは、その事実だけでよい。
……いつか裁きを受けるときがくるだろう。そのときは甘んじよう。全てを終えたそのときは。そのときが、くるまでは。
俺を断罪する権利を――だれにも譲り渡してなるものか。