自分を優しく包み込んでくれていた世界。
あまりにも当たり前で、「ない」ことなど考えられない――世界の全て。
幼い子どもにとって、親というものはそういうもの。
ごく普通に育てられ、与えられて。無償の愛を注がれていたこどもにとっては。
「ひとり、は、いやだよ……」
切れ切れの嗚咽。
がらんと静まりかえった小さな家に、少女の涙を止める者はだれもいない。
父親も、母親も。だれも。
少女の世界は緩やかに、だが少しの軋みも音も立てず失われていたのだから。
「タマネギだって食べるよぅ。おかたづけだってちゃんとするよ、いい子になるよぅ。おねえちゃんともけんかしないよ。いい子でおるすばん、してるから。
だから、戻ってきて。
抱っこして。
いい子って、言って…………」
やがて周囲の家々に明かりが灯り始めたが、ただ一軒のみは闇に溶けて存在を消してゆく。まるで最初から「なかったもの」であるかのように。
そしてそれは、幾日経っても同じだった。
嘘つきの約束 1
「おーーいレピストー。
どこにいるー出てこーい。レーピースートー、レピー」
叫びながら背の高い草を掻き分けるアドルの声質は常より低く、それだけで投げやりであると窺える。
払い損なった固い枝が小さな切り傷や服のほつれを作り、彼を悪戯盛りの少年のような風体に仕立てていた。
レピー、ダメ押しのようにもう一度繰り返し、――とうとうその後が続かなくなる。
ただ苦々しいため息が尾を引いただけだ。
「納得できない」
弟の奮闘を前に無言を貫いていたメルヴィーナが立ち止まり、きっぱりと言い放った。
文句など聞き慣れているアドルは相槌程度に「……なにが」と尋ねはしたものの、振り返ろうとはしない。
「私たちはなぜ犬探しなどをしている」
「はぁ。それはだれかさんがあの子にほだされたからじゃないでしょうか」
「……私だけじゃないぞ」
アドルが顔だけで振り返った。
その顔には姉の責任転嫁に対する戒め――というかもう諦観がありありと浮かんでおり。それでも一応、きっかけはメルでしょ、との訂正がかかる。
再び前を向いて歩きだした弟の態度に、もともとのきっかけはお前だろうと機嫌を悪くしたメルヴィーナは。
「じゃあ訊く。それならなぜあれは暢気に子守りなんぞをしてる!」
語気を荒げて後方をびしと指さした。
細かく分かれた木の小枝を握ったままもう一度後ろを向いたアドルが、大真面目な顔でこう言うと。
「メルさんに子守りという偉業は無理だからではありませんでしょうか」
「…………そうだな」
ふいと顔を背け、今度は素直に負けを認めた。
ふくふくとした小さな手が二本の指を握りしめ、力いっぱい振り回す。嬉しくてたまらない、そんな気持ちを体いっぱいで体現して。
そうされるがまま、リィン・ヴァロアは微笑っていた。
「それでね、アーシアは言ってやったの。ママはおねえちゃんよりアーシアのことのほうがずっとずっと、ずーっと好きなんだーって」
「そう。それでお姉ちゃんはなんて?」
「……アーシアは子どもだって。ママはアーシアもおねえちゃんもおんなじくらい好きだって。
ずるいよね。アーシアがおねえちゃんよりあとにうまれたってだけで、おねえちゃんはアーシアを子どもあつかいするんだよ? すきであとにうまれたんじゃないのに。
アーシア、おねえちゃんなんかだいっきらい」
「そうなの。アーシアはお姉ちゃんのことが嫌いなのね。でも、お姉ちゃんはアーシアのこと嫌っている?」
「ぜったいそうだもん」
「どうして絶対なの?」
「ぜったいだから!」
「そうかな。アーシアのこと嫌いだったら、お姉ちゃんは相手にしてくれないと思うな」
「……そう、かな」
「そうよ」
興奮が冷め、縋るような目で自分を見る少女を穏やかに見つめ――ようとはせず、リィンはただ、少女に合わせた緩慢な歩みの先だけを見ていた。
アーシア。
町から離れた街道に座りこみ、泣いていた少女はそう名乗った。
初めに声をかけたのはアドルだ。曰く「泣いている女の子は無視できない」とのことだ。守備範囲が広すぎると姉から揶揄を受けていた。
顔を上げた少女が目の前にしゃがみ込んだアドルに目もくれず、「レピ!」と叫んで駆け寄ったのは、リィンの足元にぴたりと寄り添う白犬だった。
白犬はセレンで、レピという名ではない。
何度言っても少女は白犬を放そうとはしなかった。その間容赦ない力で抱き潰されていたセレンはなんとか腕から逃れようとしきりにもがいていたが、リィンが首を横に振ると大人しくなった。ぴんと立っている三角の耳を情けなさそうに垂れ下げて。
『レピという子を探していたの?』
どんなにアドルが宥めすかしても、メルヴィーナが訂正を重ねても頑なに自分の犬だと言い張り続けるアーシアが、たった一言で、ぱぁっと花がほころぶような笑顔を見せた。
少女はこの言葉が欲しかったのだ――そのことにようやく気付いた姉弟は、救いの一石を投じた女に先を任せて身を引いた。どうせならもっと早く助けてくれ、そんな文句は飲み込んだ。
『そうなの!
レピはね、レピストっていってね、アーシアの弟なんだよ。えーと、ほーこーおんち? だから、いっつもまいごになっちゃうの。それでアーシアが探すの。
もういなくなっちゃめーなんだからね、レピ。
……レピ?』
今度はみるみるうちに涙をためるアーシアに、姉弟はそろって狼狽える。
どうしたのと尋ねたリィンに、顔をくしゃりと歪ませて『レピじゃない。レピはアーシアがここなでると、お顔なめてくるもん』と答えた。
ここ、と言ってアーシアはもう一度、鼻の上あたりをそっと撫でたが白犬は当然無反応だ。
この子レピじゃない。レピはどこ。
そう何度も繰り返し泣き叫ぶ少女をどうしてだか宥めようとしないリィンに業を煮やし、ついメルヴィーナは言ってしまったのだ。
『わかった、そのレピとやらを探してやる!』
やけくその提案に泣き止んだアーシアが喜びのあまり白犬の首を絞めたので、そこでリィンの制止が入った。
その先、白犬はアーシアに近づかなかった。
アーシアに手を引かれてゆったり歩む女の隣に、メルヴィーナが並んでぽそりと呟く。
「お前はなにも訊かないんだな」
そこには、ほっとするような、それでいてどこか不満そうな色が含まれていた。
先日のブローハーゲンでの件についてだ。
尋ね人は明らかに自分たちだったというのに、リィンはなにも訊いてはこなかった。あれ以来話題に上らせることもない。
メルヴィーナたちにとってありがたいのは事実だが、気を遣うような性格ではないことは明白である。どうしても裏を勘ぐってしまう。
なにもかも見透かされているのではないか。
不信感が募る心を、興味がないだけなのだろうと言い聞かせ続けていた。が、いい加減それも限界だ。
「訊いてほしかったの?」
「いや」
「なら余計なことは言い出さないことよ、メルちゃん。墓穴を掘りたいのなら別だけれど」
結局、肝心なことはなにも言わない。このリィンという女は。
メルヴィーナたちのように拙い隠し方ではない。自分自身をベールに包むことに慣れきって、罪悪感などないのだろう。それが普通のことになっているのだろう。きっと。
「リィン・ヴァロア。お前はどこにいる?」
メルヴィーナ自身、意味不明な質問が口からこぼれた。
女は可笑しそうに笑い。
「さぁ。
そんなもの、どこにもいなかったのかもしれないわね。
――最初から」
決してつくったものではない自虐めいた表情を浮かべてみせた。
主人に異を唱えるかのようになぉんと鳴いた黒猫に「ねこちゃん、おなまえは?」と尋ねたアーシアは、ふいっとそっぽを向かれてしまい、それからしばらく頬を膨らませていた。