「羨みも怨恨も、向けられる道理はない。俺は賭けた。おまえは放棄した」
世辞にも友好関係にあるとは言い難い者が、そう発した。
欠片の感情も表出しなかった女が目を眇める。理解に苦しむ指摘だった。羨んでいる――ただその一点に関してのみ。
「羨んでいるだろう? おまえは」
女にはそれ以上を論する気はなく、ただ一言ばかばかしいと吐き捨てた。
「私は、ただそばにありたかっただけ」
「結果がそれか? そのようなちっぽけな、意味のない不変が?」
それと示された先。首元の緑石が光を映し、くるりと輝く。男の言葉に反応したかのように、女の指が触れたことを喜んだかのように。
「糾弾しようとでもいうの? それこそ道理はない」
男はなにも答えず、ただ哂う。
己の写し鏡の愚かさを。『同じ』でありながら真逆の生を歩む女を。
彼は。
女がこの先も隠し通そうとしている過去の愚行を知る唯一であり、だれよりもその行いを蔑み――しかしだれよりも女をそのような行動に向かわせた思いに、理解を抱く存在だった。
その邂逅は必然か否か 5
一瞬の強風に、メルヴィーナは思わず目を閉じた。
金髪の細い一筋が目深に被ったフードを掠める。
同時に香ったのは女の使う洗髪剤だろうか。好ましい香に、思わずどこのものなのか問おうと口を開きかけ――束の間もなく閉口し。
(今、なにを娘らしいことを考えた)
摘んだフードの端をそっと下に引き下げ、眉を寄せた。
今でも時々。なにもない肩口を梳こうとして空を切ることがある。
指の間を髪が流れていった頃の自分を思い返すと――心の内側にちくりと棘が刺さったような感覚に襲われる。
なにも知らない、知ろうともしない小娘でいられた自分に未練があるのだと思い知らされる。
メルヴィーナはそんな無意識の念を封じてしまいたい一心で、己の腕に爪を立て、歯噛みした。痛みとも思えない感覚が爪の先にのみ留まる。
こんなものでは、まだ足りない。
一気に腕を引き裂いてしまいたい、そんな自虐思考に駆られた刹那。
「メル?」
姉の様子を気に留めたらしいアドルの声に我に返り、手にこもっていた力が緩む。
家族と呼べる唯一の顔が、気遣わしげにメルヴィーナを覗き込んでいた。
「……なんだ」
「どうかした?」
問われただけなのに、咎めを受けたような気がした。
小さな痛みがメルヴィーナの胸の内に走る。抜こうとしても取り除けない、指に刺さった棘のように。
「どうもしない。それよりもおまえ、顔」
「いや、二人揃って隠してた方が怪しいでしょ。ただでさえ目立つのにあの人が」
弟に顎で指し示された、先を行く背中を再び見つめる。
それだけを見ていると、まったくどうして自分はこのような人物に協力を願い出たのかと、メルヴィーナは今さらながら不思議でならない。
人目を忍んで行動するべきなのだ。自分たちは。
だというのに、容姿流麗な女という目立つ人物と行動を共にするなど、馬鹿げた選択をしたとしか思えない。
存在を消し、人々の記憶から逃れて。
そうしなければいつか、行く手を阻むものが現れる。本懐を果たせなくなる。
――本当に、自分たちだけではどうしようもなかったのだろうか。
だが、どうしようもなかったからこその結果が今だ。
メルヴィーナは自分の直感を信じることにしたのだ。彼女の手は、仇の魔族どころか、その眷属の姿すら捉えることができなくて。泣きたいくらいに無力なのだから。
「そういえばおまえ、昨日はなにを話してた?」
話題を昨日のものに変え、メルヴィーナはリィンの背中から視線を外さぬままに訊ねた。
昨夜、彼女たちは山の小屋で夜を明かした。
その間に一時、リィンは薪を拾ってこいという命令でメルヴィーナを外に締め出したのだ。
なぜ自分だけがと抗議したところ、『お姉ちゃんの前じゃ話せないことだってあるかなと思って』という答えが返ってきた。薪拾いが口実なのは明らかだった。現に、メルヴィーナが悪態をつきながら拾い集めた小枝の束は小屋の隅に放置されたまま、彼女らはブローハーゲンに戻ってきている。
「別になにも。無鉄砲なお姉さんを持って大変ねーって同情されたから思わず同意をしたくらいでいたいいたいいだいいっだい」
「お、ま、え、は。なにを話したんだとっ。聞いている」
引っ張った耳元に一言一言を叩き込み、メルヴィーナは弟の耳から手を離す。
赤くなった耳をさするアドルは恨めしそうな、しかしきょとんとした顔をメルヴィーナに寄こしてみせた。
「……俺? いや、だから別になにも?」
「あのな。私は一時間以上も山の中をうろついていたんだぞ。使われもしない薪を集めて。その間そんな話しかしなかったわけがないだろうが。寝ていたとでもいうつもりか。殴るぞ」
「寝てません! ……一時間以上?」
「かかったぞ。そのくらいは」
「…………一時間? えぇー? 嘘。だってメル、すぐ戻ってこなかった?」
「おまえやっぱり寝ていただろう」
「だから寝てない! 信じて!」
「それで依頼主。今後の予定はいかがなさいましょうか?」
女が突然振り返った。
まさかここで立ち止まるとは思っていなかったメルヴィーナは彼女にぶつかりそうになり、すんでのところで上体の重心を後ろに移す。
姉弟の口論に水を差しても、まるで気にした様子のない女にむっとし、メルヴィーナは律儀に答える。この話は後だ、と弟に目線で釘を刺しながら。
「おまえを当てにしていた」
「他人頼みねぇメルちゃんは」
「私たちがおまえを頼った理由を忘れたわけじゃないだろうな」
「まあそんな風に胸張って言える理由じゃないことは確かよね。悪いけど当てなんてないわよ。私、魔族探知機なんかじゃないんだから」
たとえそうだったとしても、紅の瞳の魔族なんて限定条件、探しやすいようで逆に難しいわよ。
呆れた、とでも言いたそうに腕を組み、リィンは魔族について話し始める。
「わかっているだろうけれど、そんなにぽんぽんと人前に現れるものじゃないのよ、魔族というものは。目撃情報だって少ないし、お馬鹿さんな下級魔族だったらともかくとして、上級は人間に魔族だって気づかせないから。そもそも上級は滅多なことでもなければこっち側に出てこない。
でも昨日話を聞いた限りでは、どうもメルちゃんたちの探しているのは上級っぽいわね。そいつはよほどの物好きなんじゃないかしらね? たとえば『なにか』に執着している、とか」
「その線で当たれと? 『なにか』、というのは」
「いやそれ私に聞かれても」
結局、参考になったような、ならないような説明だった。
おまえ以外のだれに聞けと、言いたいのを飲み下し、メルヴィーナが代わりに吐き出したのは特大級のため息。
「……当初の目的通り、イヴァンに向かう」
「そう。移動手段は?」
「歩く」
「それはそれは。実に経済的で体力のすり減る移動手段の基本ですこと。ねぇ、セレン? ファル」
暗にもなにもなく満面の笑みで文句を言ったリィンは、自分の足元に呼びかけた。
白い犬と黒猫は、山を下りる途中でどこからともなく現れた。
リィンを探している間頼りにしていた数少ない情報だったが、結局目にしたのは昨日という、メルヴィーナたちにとってあまり意味を持たない情報となってしまった二匹だ。
姿を現して以降離れることなく、しかし歩みを邪魔することなくリィンの足元にまとわりついている二匹の獣。
その様子は、二匹がリィンを本当に主人として慕っていることを知らしめるには十分だった。
「だいたいそんなのを連れていたら乗合馬車にも乗れないだろうが。途中で粗相でもされたらかなわん」
「失礼ねぇ。この子たちはお利口さんよ?」
白犬を抱き上げ、ねぇ? と問いかけているリィンに不安を抱かずにはいられないメルヴィーナだった。
しかも犬の赤目からなんともいえない不穏な感情を向けられている気がしてならず、彼女はますます胸中に靄がかかる感覚に襲われる。
それを払拭しようと犬を睨みつけてやったところ、犬はくぅんと鼻を鳴らしてリィンの胸に頭を埋めた。
「メル、犬嫌いだったっけ」
「嫌いではないがあの犬は苦手だ。なぜかわからんが」
甘やかされる白犬から意識を外したくて、ふいっと視線を逸らした先を見て。
「……アドル」
低く囁くが早いか、メルヴィーナの手が強引に弟の腕を取った。
そのまま溶け込むように、しかし迅速に細い路地の影に引きずりこむ。
たいした抵抗もなかったのは、無意識にアドルが意図を理解していたからだろう。それでも多少の非難めいた目でなにをするのかと訴える弟に、メルヴィーナは視線で『理由』を示してみせた。
それを見つけたアドルの表情が平素と比べて険しくなる。
「なんでこんなところに」
「覚えがないか。私は、ある」
「……俺も」
突然なんの断りもなく身を潜めた二人に気づきながらも、リィンは二人を追いかけて理由を問う気はないらしかった。
どうでもよいと思っているのか、それとも行動の意味を汲んでくれているのか。どちらにしろ知らないふりをしてくれている女に、メルヴィーナは心の底から感謝した。
「失礼。貴女はこの町で噂の歌姫とお見受けしますが」
リィンが呼び止められたのは、そんな矢先のことだった。
声をかけたのは、隙なく制服を着こんだ男。軍の人間であることは明白だった。
「噂かどうかは知らないけれど」
ことりと首を傾けて、犬を抱きかかえたまま女が答える。
警戒心を持たない雰囲気の女に、男は紳士的な笑みを向けた。
「少々、お話を伺っても?」
「残念だけれど自分の名すら名乗らない相手とお話しする趣味はないの。それがどんなに位の高い騎士さまだとしても」
男が面喰ったのが、メルヴィーナの位置からでも容易に見て取れた。が、それも当然と思える。
リィン・ヴァロアという女の第一印象は、至って普通の――むしろほわんとした天然系の女の子、といったところなのだ。その想像を、女は見事にかき消してみせた。
「これは失礼を。
私はイヴァン神聖国騎士団所属のジョエル・ローディル。そんなに偉いものではありませんので、ご安心を」
「偉くなかったら安心できると思われる理屈はどこから?」
「そうですね、世間一般のご婦人は、というところでしょうか。ところでですね」
「あら。では私は世間一般の女ではないと言いたいのかしら」
「い、いえ、そのようなことは」
「言いたいのよね?」
「いえ。ですから」
「言っちゃいなさいよ。ほら正直に」
「その……」
「まったくもう。そこは『世間一般以上に美しい』とか『この上ない魅力を感じた』とか言うところでしょう? 今後のためにお勉強が必要ね」
「…………も、申し訳ありません……」
咳払いで立て直しを図ったジョエルの話の腰は、リィンによってあっさりと砕かれた。
途中からは騎士の威厳など欠片も感じられなくなっている。相手が悪い、としか言いようがないが。
「あ。それでなんだったかしら話って」
促されて、騎士は目に見えてほっとした顔を見せた。
メルヴィーナたちですら、このままあしらって終わりにしてしまうのではと思っていたのだから。
「はい。
我々は現在、ここを訪れているやもしれない一組の男女を捜索おりまして。最近この町の宿や酒場を渡り歩いていたという貴女であれば目撃している可能性が高いのではないかと、探していたのです」
「男女と言われてもね。そんな組み合わせ、星の数ほどいるのではなくて?」
「年は21と22、銅色の髪、青い瞳の姉弟なのですが」
「ずいぶんと仔細に渡る情報ね」
「目立たぬように行動しているとは思いますが目立ちますので、これだけでも十分かと。心当たりは」
「さあねぇ。人の顔を覚えるのって苦手なのよ」
肩をすくめた女の指が、白犬の耳の後ろを撫でた。心地よさそうに赤い目が細くなる。
嫉妬でもしているのだろうか。黒猫が頭をブーツに擦りつけていた。
「そうですか……では、もし今後その二人と思われる者を目撃することがありましたら、イヴァンの駐在所まで情報をお寄せください」
「まあ、見かけて、その気になったらね」
「協力感謝します」
明らかな適当な返事に対しても、騎士は律儀に礼をとってみせた。
犬を下ろし、話は終わりとばかりに背を向ける女。
「その、……もうひとつ。つかぬことを訊きますが」
「まだなにか」
再度呼び止められたリィンは面倒くさそうに振り向く。
「イヴァンに親類縁者がおいででは?」
「いたら、なにか」
「いらっしゃられるのですか?」
今度は、騎士が引くことはなかった。
断固とした男の視線を真正面から受け、しかし紫の瞳が逸らされることはない。
無言の、視線だけの応酬は、騎士が折れることで終わった。
「やめておきましょう。私は、貴女を暴こうとしたつもりはありませんので。今は」
「ひっくり返してもなにも出てこないわよ。あなたが想像するような真実はなにひとつ、ね」
騎士はもう一度協力を念押しし、場を辞した。
そして女は。
メルヴィーナたちが立場なさそうに出てくるまで。
剣呑さを乗せた瞳で、人通りに消えていった騎士の姿を見つめ続けていた。
「さてジョエル」
覚えのある声質に振り向いた彼は、見つけた顔に頬をひきつらせた。
非のつけどころのない笑顔があったのだ。
関わるには心の準備を必要とする、ある意味で油断のならない上官の笑顔が。
表面上は平静に、心中では慌てて表情を取り繕い、彼――ジョエルは肩に入った力を努力によって緩めた。
彼が相対する上官は、肩書きはともかくとして、緊張感を植えつける人柄の人間では決してない。
ただ、知る者が見れば、表出している笑顔が――いろいろな意味で不穏に感じられることが、あるくらいで。
「……なんでしょう」
「任務中に女性を口説いて振られる副官の姿ほど、見ることができなくて悔しいものはないと思わないかい? 胸を躍らせてわざわざ探しにきたというのにだね」
思わずがくりとうなだれた。
ある程度想像通りの口上だったが、いつものことながらそのまま口を閉ざして場を辞してしまいたい、そんな衝動に駆られる。こめかみを揉み解すことで平静を保とうと努力したが、努力の甲斐はなさそうだ。
「趣味の悪い主人であまつさえ幼馴染でもある上司を持った俺の方がよっぽど悔しいですよ誰ですか密告者は」
「うん。答える必要性を感じない」
「そうですかハラルドですかあの口軽野郎」
さすがに礼を失すると考えたのか、後に続く舌打ちは顔を背けて行われた。これが本性かと引かれる確率の高い、壮絶な形相で。
自分は言っていない、容易に言い逃れ可能な本人は、穏やかじゃあないねぇなどと爽やかに笑っていた。
「で。なんと言って口説いたんだい。君が。女性の噂ひとつも流さない君が」
「ですから。違いますと申しております。
例の二人の捜索の件で探していた人物だったのですが……
一見した時、お若い頃のティアリーゼ様の肖像に非常によく似ておいででしたので、まさか縁者の方がこのようなところにと少々気になっただけです」
「……へえ。それはまた。それで?」
興味深そうに片眉を上げ、男は先を促す。
「可能性は捨てきれません。
と言いますか本当に似ていましたので。ある部分で、本当に」
本当に、の部分に尋常ならない実感が込められていることに、男は気づかない。
「そう。親等の近い分家があると聞いたことはなかったけれどね。
…………いや、把握できていない筋もあるのかもしれない、か。……その方はどちらに?」
「さあ、そこまでは……」
「それなら仕方がない。母上にでも訊ねてみるとしよう」
今すぐにでも聞きに行きたそうな口ぶりに、瞬間、ぴくりとジョエルの表情が険しくなった。上官の母親がいるのはここではない。
疑わしそうに眉を寄せ、表情そのままの声で上官に詰め寄る。
「俺たちだけを残してお戻りになられる、とは申しませんよね」
「……ジョエル、前々から思ってはいたのだけれど。きみは本当に私のことを主だと認めているのかな?」
「ええそれはもう」
「できれば感情込みの返事が欲しかったものだね。
隊をあげて撤収するよ。埒が明かない。これ以上彼らの捜索に時間と人員を割くのは無駄だと判断する」
「しかしこれ以上野放しには」
「彼らもわきまえているさ。
だが、確かにこのまま国内をうろつかれてなにか事を起こされでもしたら、責任問題を追及されるだろうしね……」
「どうなさるおつもりで?」
返答は、付き合いの長いジョエルにとっては予想の範囲内であり、しかし本国からは望まれはしないだろう、というものだった。
これ見よがしに息を吐いてみせる。
咎めになるわけがないことは、承知で。
「……また甘いことを」
「さてねぇ」
白々しくそっぽを向いた上官は、ジョエルにとって放ってはおけない弟のような主だ。
甘いと言いながら、自分はきっとその思惑を現実とできるよう動くのだろう――それはジョエルにとって、避けようとも思わない決定事項に過ぎなかった。
「そろそろ……庇えなくなるよ」
ふつりと唐突に。男はふたつ、名を連ねた。
僅かに顎を上げて空を仰いだ目が、何を見ているのかは知れない。
そして男は瞑目すると、急かす副官に向けて紫水晶の瞳を細め。今行くよと笑ってみせた。