『そしてその先で。
あなたは私に辿りついてしまった偶然を呪うでしょう』
虚実の知れない『忠告』は、ただ未来にのみその影を置く。
その邂逅は必然か否か 4
小屋――というより、掘っ建て小屋。
そう評した方がよほど正しい小屋の内部は、見事に景観を裏切らない。住むとすれば許容人数はせいぜい二人といったところだろうか。
「ここはなんだ? 偶然見つけたにしては」
小奇麗に整えられている、言いながらメルヴィーナは頭に被っていた外套のフードを外した。
女にしては短い赤銅色の髪がはらりと音を立てる。
「ん。私の隠れ家そのいち。
なにか食べるー? 今はあいにく、お菓子とお酒しかないけれど」
「謹んで遠慮する」
酒瓶とグラスをそれぞれ手に取った女に胡乱な視線を向け、メルヴィーナは引き気味に辞退した。もともと菓子も酒も好きではないのが理由の一番ではあったが、それ以外のものも多分に含む。
簡単に潰れるくせに、旅先で珍しい銘を見かけるとの飲まずにはいられないアドルは物欲しそうに熱い視線を送っていたが。
「そう? 残念。美味しいのに」
一気に数枚口の中へ放り込まれた焼き菓子が軽い音を立て、芳しい琥珀色の液体がとくとくとグラスに注がれてゆく。
躊躇いなく喉に流し込む姿に、その組み合わせはどうなのかというメルヴィーナの白い目が向いた。
「酔いどれるには、まだ早すぎる時間だと思うが」
「あら。その台詞――今もきっと町の酒場でたむろっている方々に、ぜひとも聞かせてあげてほしいものね?」
「私はおまえに言っている」
「酔いどれたことなんてないわよ」
「……そうか、それは悪かった。常に酔っているの間違いだったな」
早々に二杯目を手酌する行為に冷ややかな視線を浴びせたメルヴィーナを一瞥し、リィンはどかりと椅子に腰を落とし、足を組む。
メルヴィーナたちに見下ろされる形となってもただ飄々と――内に絶対的優位を潜ませ、彼女はこの上なく綺麗に笑んだ。
「へぇ、そう。それが頼み込みに来た人の態度。そうですかーよくわかりました他をあたってくださいお帰りはあちら」
「少しでも素面でいるうちに教えてもらおうか」
「え、あの、ちょっと……メル」
「なぜこの場所だ」
「あぁ、宵時の山道はさらに危険だから気をつけて。今夜は月が綺麗だといいわねぇ」
「指定したからにはなにか理由があるんだろうな?」
「お腹をすかせた狼さんやら山猫さんが帰りを待っているかもしれないから」
「お願いどっちか譲歩しよう! 頼むから! どっちでもいいから!」
笑顔と真顔の応酬に根を上げたのは、一歩引いたところから二人のやりとりを見守っていた弟。
しかし彼はそれ以上言うことなく押し黙る。姉の形相に気圧されたか、もしくは女のまなざしに圧倒されたか――理由は知れない。
「弟くんの言葉は正論だと思うのだけれど」
「うるさい。だったらおまえが折れろ」
「いつの間に私は『あなた』から『おまえ』に格下げになったのかしらね……」
どうでもよさそうに呟いたところで、また一枚焼き菓子が消えた。
「そろそろ飽きたし、いい加減に本題に入ってもいいかしら」
無駄に話を引き延ばしてややこしくしたのはそっちだろうが、口の中だけで小さく悪態をついたメルヴィーナの、固く握られた拳が小刻みにふるふると震える。
「あなたたちは情報が欲しい。
そして私が魔族に関する何らかの情報を持っていると期待した。
でも私は、紅目の魔族などというだけの不鮮明な情報の断片ではどうすることもできない。そもそもどうにかしてあげる義理もない。私はそう言った」
間違いはないかしら?
空けられた間は、言外にそう問うていた。
沈黙を肯定と受け取ったらしい。彼女はグラスの縁を指でなぞりながら言を続ける。
「それでも、あなたは私に助力を求めた。
――さてここで問題です。私はこの後、なにを言いたいのでしょう。10文字以内で答えてみましょう」
「誠意を見せろ?」
「弟くん正解」
飴玉がふたつ、アドルの目の前に飛んできた。
それを微妙な顔で拾い上げた彼は、ひとつ広げた紙包みの中身を凝視し鼻を近づけるという二段に及ぶ確認の後、恐々と口に含む。
「あ、意外。すっごい普通の味……」
「食べるのかおまえは」
口内で飴を転がす弟に、姉の生ぬるい視線が飛んだ。
「意欲は見せてもらった。こんなところに来いって言われて馬鹿正直に来たものね。あらホントに来ちゃうんだーって呆れさせてくれてありがとう。
でも、それだけで雇い主になれるだなんて思っていて?
大人のお話で話題に上る『誠意』がなにを意味するのかくらい、――わかるわね?」
「謝礼は出す」
「前金制で」
「……今は出せない」
「話にならないわね」
細い指がすいと上がり、流れる所作で扉を示す。
そして興味を失ったように指は下ろされ、再び焼き菓子に伸びていった。
「今はと言った。
今の私たちには旅の資金以上の持ち合わせがない。だが、助力のおかげで目的を達せられた暁には、必ず」
「そう言っておいて目的果たしたら逃げることもできるわよねー」
それはそちらも同じだろう、吐き捨てたいのを堪えてメルヴィーナは奥歯を噛みしめた。
呑まれるな。あれはわざと癇に障ることを言ってこちらのペースを乱そうという腹づもりなのだ。冷静さを欠いては思う壺――
彼女が口を開くたびに訪れる苛立ちに沸き立ったメルヴィーナの思考が、ゆるやかに冷えてゆく。
「私はそれほどに信頼足りえないか」
「は。信頼」
ひときわ高い、鈴の音にも似た笑い声が上がった。
まさか失笑を招くとは予想しなかったメルヴィーナは目を瞠り言葉を失う。
くつくつと可笑しそうに肩を震わせて、おかしくてたまらないといいたげな顔を上げ。
「隠し事まみれなあなたたちのどこに、信頼を感じろと?」
女は哂う。
「そもそもあなたたちは私を信頼していないしね。
しろとは言わないわよ? されても困るし。
それにしたってそんな警戒心むき出しの態度で『信頼できないか』はないでしょう。虫が良いにもほどがある。
……この際だから言わせてもらうけれど。
腹が立つのよ。あなた」
女は少しも変わらないやわらかさをもったままに笑んでみせる。
しかしそれは、メルヴィーナには冷笑としか認識することはできなかった。
腹が立つのだと言いながら、まるで一致しない表情を浮かべてみせる女。
そして口をはさむ猶予も与えずに並べ立てる。
「あなたは困っている。その困難をどうにかしてくれるかもしれない者を見つけた幸運に酔っている。
こんなに困っているのだから、そんな自分に手を差し伸べて貰えるのが当然だと思っている。
それを拒否されて苛立っている。
目的のためならどんな犠牲も払うと思っているくせに、自分の懐すら痛められない。
まったくあなたは何様のつもりかしらね」
小屋の中のたった一つの家具、しかし実用性のみが追求された木製の引出し棚。
端々が歪んだ作りのその天板にことりとグラスを置き、金の髪の女が問う。
「あなたの復讐は、なんのため?
亡くなった母のため? 母を亡くした弟のため? それとも母を失った自分のためかしら?」
問いなどではなかったのかもしれない。
女にとっては単なる事実確認であって、ついでに当人への指摘をしている――その程度の認識だったのかもしれない。
けれどもその時、メルヴィーナの心音は跳ね上がり、無視のできない鼓動を刻んだのだ。
自分のため?
そんなことはない。私はただ、母を想って――
「死者は生者になにも望まない。望むことができない」
そんなメルヴィーナの心を見透かしたように。
自分にも、言い聞かせるように。
「あぁ、今あなた、自分のなにがわかるんだって思っている?
わからないわよ。わかりたくもない。
そもそも、わかってほしいなんて思っていないでしょう? あなたは。
あぁ……それとも。そう思いながら実はわかってほしいなんて思っている? もしそうだとしたら、あなたは本当に甘ったれなお嬢さんね。
『母の無念を晴らす』? それはただの言い訳でしょう?
無念を晴らしたいのは、ほかの誰でもない。『あなた』でしょう?」
女の声は刃のようにメルヴィーナを切りつける。
もはやその顔には笑みの欠片も残っていない。ふわりとつかみどころのなかった女の瞳は、今や確固とした強さを示していた。
「違うというのなら言い返してごらんなさいよ。
それができないのなら、目を閉じたまま蓋をしたまま志を果たそうというのなら、他人の力を当てにするなんて許されない。自分の力で遂げなさい。
私でなくても、そんな甘ったれに手放しで助力するは器量は持ち合わせていないの。
……私の指摘は心を暴く無神経なものだと思う?
だとしたら、あなたの周りにいた人たちはよほど寛容だったのね。
それともあなたは歯牙にもかけられていなかったか……どちらかではないのかしら」
なにも、言い返せなかった。
否。言い返そうとはした。けれども開きかけるメルヴィーナの唇が紡ごうとするのはただ、「違う」というそれ以上の意味を持たない否定のみ。なにがどう違うのか、その問いには到底答えられない。
ゆえに、それは「違わない」と答えるのと同意。
メルヴィーナは魚のように開いた口を閉じるしかなかった。
そんな彼女を鼻で笑い飛ばし、女が行儀悪く立てた片膝に頬杖をつく。
「今のあなたにとって、誇りほどに目的を邪魔するものはない。
志を捨てられない、誇りも捨てられない。
そんな甘い考えで望みが叶うほど、世界はあなたに優しくないの」
沈黙が場を支配した。
誰も、言葉を忘れてしまったかのようになにも言わない。
金の髪の女はグラスを取って底に残った液体を飲み干した。アドルは女から顔を背け、陰鬱に視線だけを床に落としている。走り抜けた風に吹きつけられ、ごうという音に混じって木が軋みの声を上げた。
「わかった。私はおまえを信頼する」
メルヴィーナが閉じていた青玉をまっすぐに据えたのは、半分ほど残っていた酒瓶の中身が小指の先ほどになった頃だった。
残り少ない焼き菓子を惜しみなく腹に収め続ける女が、興味なさそうに目を逸らす。
「そう。口ではなんとでも言えるわね」
「これを」
メルヴィーナは胸元に手を入れ、細鎖を引き出した。首の後ろに両手を回して間もなく、ぷつりという小さな音が立つ。
女の眼前に突きつけ、開かれた手の中から現れた銀細工。
それを見た瞬間弾かれたように一歩踏み出そうとし、しかし踏みとどまったアドルの顔は完全に色を失っている。
「メル、……」
「前金代わりにしてほしい。いいな、アドル」
常のものよりやわらかい、突きつけるのでは窺いをたてる姉の目に、アドルは戸惑いの濃い同色の瞳でもって応える。
「俺は、いい。捨てたものだ。でもメルは」
「……私にとっても、もう。必要のないものだよ。今まで後生大事に手元に置いていたことの方がどうかしていた。手放すにはいい機会なのだろう」
「ちょっと。私は処分品の受け付けはしてないわよ」
「それなりの値がつくことは保障する。ただ、持ち込む店は選べ」
「どんないわくよ……」
ため息をついた女の指が、細い鎖に通された銀細工を摘み上げる。
一見しただけで見事な細工物であると知れる精緻な指輪。
それを指先で弄んでいた女は、なにを思ったか右手の指に銀の輪を滑らせる。
まるで当然のように自分ではない女の指を飾る様は、メルヴィーナの心に微かな棘を生んだ。が、彼女はそんな思いを抱いた事実を打ち消そうと、小さくかぶりを振った。
女は何を考えているのかわからない、しかし無表情というわけでもない顔でメルヴィーナを、そしてアドルを見た。
そしてため息とも感嘆ともつかない息を吐ききった後。紫の瞳が再度アドルに向けられる。
青に傾く紫水晶は薄いような深いような、底を見せない輝きを放っている。注視された本人は挙動不審に目を泳がせ、口角を歪めた。
「……わかった。協力はしましょう。
勘違いしないで。あなたの信頼に応えようというわけじゃない。正式に依頼として受諾したわけでもない。私が、あなたの思惑とは別のところで必要性を感じたから。ただそれだけ。
だから、これから先あなたに起こるであろう事についての責任は一切取らない」
直後、女の顔からふつと全ての感情が抜け落ちる。
「あなたの望みはいつか、あなたが最も失いたくないものを殺す」
声からも一切の感情を殺ぎ落とし、女は告げた。
今のメルヴィーナにとっての『失いたくないもの』は、志。
心のどこかで失うことを恐れていた指輪は彼女の手を離れたばかりだ。後悔がないと言えば嘘になるが、不思議なくらいせいせいしているのも事実である。
そこに告げられた言葉に対してメルヴィーナが感じたのは不可解さであり、形にならない不安であり、なぜそんなことがわかるのか、そんなことを言われなければならないのかという憤慨でもあった。
しかし彼女が最も強く抱いたのは――
「それが、今の甘ったれお嬢さんな『メルちゃん』に贈る――忠告よ」
この女の助力を得ることができたという、小さな一歩に対する満足感。
それはメルヴィーナに女の『忠告』を深く考える意識を薄れさせ――結局、そんなことを言われたことすら忘れてしまった。