私たちは誓ったな。
――ああ。誓った。
あの日。私たちの世界が姿を変えたとき。私たちの絶対が奪われたとき。
――ああ。誓ったさ。どんな手段を使ってでも。
仇を取ると。
――そのためならどんな犠牲も厭わない。ただ――を除いて。
? はっきり言え。自分だけで納得するな。
――いいんだよ。これで。……いいんだ。
その邂逅は必然か否か 3
白い残影が視界の中を横切ったかと思った一瞬後。
足を払われた衝撃と共に、メルヴィーナの体が重心を失った。背中から地面に倒れそうになったが、咄嗟に腕を立てて踏みとどまる。
視線の向こう、紅い瞳が意外そうに丸くなる。
メルヴィーナに果てない憎しみを喚起させる、紅。
そんな色を瞳に宿す男は、やわらかそうな白髪を風に遊ばせ、緊張感なくへらりと笑んだ。
平時であれば無害だと印象づける笑みだっただろうそれは、今のメルヴィーナには苛立たしさしか与えない。そもそも追いはぎだと自称した時点で無害でありえたはずがない。
「ちょっと、これっ……冗談きつすぎません、かっ」
少し離れたところから聞こえてきたアドルの泣き言に、容赦ない叱咤が飛んだ。
「無駄口たたく暇があるなら手を動かせ馬鹿」
「こっれが動かしてないように見えますぅっ?!」
返ってきた声のあまりの情けなさに、メルヴィーナは状況に構わず怒鳴りつけたくなる気持ちを抑え込む。
弟が相対している男は、彼女の相手――線の細い優男とは比較にならない威圧感を持っていた。丈の長い黒コート男の一斬一斬は重く、アドルは防戦一方だ。メルヴィーナであれば受け止めきることもできないだろう。
が、メルヴィーナの方とて相手の動きに追いつけず、翻弄される一方である。
彼女の武器は機敏さと精密さ。力では多くの場合敵わないことを自覚しているために磨いた武器だ。
それを白髪の男はいとも簡単に上回り、ねじ伏せてみせた。武器が通用せず、それどころか一太刀浴びせることもできない己の未熟さ、脆弱さに彼女は歯噛みした。
結局相棒に蹴り落とされるなどという情けなさを披露しておいて反則だろう、心の中で悪態をつく。
右手首を中心に広がったじんとした痛みにメルヴィーナの眉が寄る。体重を変にかけたせいで捻ったのだろう、彼女の頭に推論が浮かんだ。
劣勢をこれ以上加速してくれるなという願いは成就されそうにない。
「しつっこいなぁ。ねぇーもう諦めない?」
「だれがおまえたちに屈するか!」
「あのね、ぼくたちもさぁ……いいかげん『お仕事』終わりにしたいんだよね――あ」
ふと、なにかを思い出したような表情になった白髪の男が、ひたりとその動きを止めた。同様に、黒の男の動きも止まる。
なにが起きたかと不思議に思う一方、絶好の好機と体勢を立て直したところで。
「もう終わりでいいみたい? じゃ帰ろっかー」
唐突にそんなことを言ってのけた。
一貫してふざけた態度を貫き通した白髪の男のみでなく、黒コート男までもが完全にやる気をなくしていた。無表情はどことなく眠そうにも見えるが、妙な威圧感は変わらずかもし出されている。
「待て、いったいどんな戦意喪失だ!」
「えーそんな戦意喪失があってもいいじゃないー?」
「いいわけがあるか!」
なおも噛みつこうと二人組に詰め寄ろうとするメルヴィーナに、慌ててアドルが駆け寄りしがみつく。
「待ーって待って待って待ってまってまってメルってば!
見逃されよう、いいぃからもうここは大人しく見逃されとこう! それが大人っ、賢い大人の賢い選択よ!?」
「そんな賢しさは要らん! 放せアドルっ!」
「メルの辞書には無謀って言葉載ってないよねホントにいいから早くお帰りくださいあんたたちーっ!」
「うん……なんとゆーか…………お互い、苦労してるね女の人には」
「そう思うなら早く行ってくださいーっ」
勝負はきみたちの勝ちでいいからーとついでのように付け足したかと思えば。
「あ、そうだ。覚えてろーこんちくしょー」
「……なんだそれは」
「え、負け犬の捨て台詞の常套句。一度言ってみたかったんだよねぇ」
そうして自称・追いはぎの二人組は木々の奥へと姿を消した。
残されたメルヴィーナとアドルは、まるで狐に化かされたような釈然としない面持ちで、再び顔を見合わせる。
弟の無言の問いに、メルヴィーナはわかるものかと黙って首を横に振るしかなかった。
リィン・ヴァロアは小さな小さな小屋の脇に流れる小川のほとりに座っていた。
脱ぎ捨てられたブーツが転がっている。
両足を清流にひたし、かすかな声で唄を口ずさむ彼女はどこにでもいる普通の――世界の汚い部分など欠片も知らない潔癖な少女にすら見えた。
川のせせらぎにかき消され、旋律は断片的にしか拾うことができない。
しかし、どこかでこの旋律を耳にしたことがある気がして、メルヴィーナは己の記憶を辿ろうとする。
最近ではない、どこか遠くで――
「メル、あのさ……もしかして、あれ……?」
「そうだ」
思考の渦に沈もうとしたところを邪魔され、返事に棘が含まれる。
姉の不機嫌に触れたアドルは一瞬視線をあさってに彷徨わせ――気にしないことにしたらしい。
「まじで。どう見てもあれ普通の女の子……」
「幸運か不幸かわからんが、あれは普通の女じゃない」
「あら悪かったわね普通じゃない女で」
聞こえてたみたい、と肩をすくめたアドルの後頭部が容赦なくはたかれた。
いつの間にか旋律は止んでいた。
彼女はメルヴィーナたちの存在に気づいたからといって立ち上がるでも近寄るでもなく、ただ背中を向け、ぱしゃり、ぱしゃりと水面に足を遊ばせている。
あと10歩ほどの距離まで近づいたところで、彼女は背を向けたまま言った。
「意外と早かった?」
馬鹿にされた気がして、メルヴィーナはそれに直接的には答えず、代わりに。
「ここには追いはぎが住みついているのか?」
「うん? ……追いはぎ?」
「妙な二人組に襲われた」
「……あぁ。言ってなかったかしら。出るのよー」
「聞いた覚えはない」
女は、そう? 悪かったわねと言いながらくすくす笑う。
「で、どうだった? 手ごわかったでしょう」
「待って。なんだかそれだと、貴女がけしかけたように聞こえるんですが」
初めて女がアドルに意識を向け――青紫の目が瞠られた。一瞬ではあったが、確かに。
別人のようにすとんと表情の抜け落ちた顔で注視されたアドルは、一歩後ろに下がり、挙動不審に小声で。
「な、なに? 俺、なにか顔についてる?」
「安心しろ。いつも通り妙な顔だ」
「メル。俺への優しさとかって言葉、知ってる……?」
す、と瞳を細め、視線を外さないまま女が問う。
「…………どちら様?」
「弟だ」
一瞬感じたひやりとするものを内心にとどめ、努めて平静にメルヴィーナは答えた。
初めてこの女を――怖い、と。そう思った。
あまり頼りにはならないが、自分に残された唯一の家族。大切な弟。それをどうにかされてしまうのではないかという恐怖が、メルヴィーナの中に生まれる。
そう、自分ではどうにもならない未知によって――
「ふぅん……………………そう……」
一度まぶたを伏せ、再び上げたときにはもう、女の青紫の瞳に鋭さは宿ってはいなかった。
そしてなにかを言いたそうに口が開かれかけ、しかし言葉にする気はなさそうに閉じられる。なにを言いたかったのか気にはなったが、なぜか訊くのはためらわれた。
あれは、憐れみの目。
少し前までメルヴィーナたちが日常的に浴びていたもの。
今になってまたそんなものに晒されているのが不愉快で、苛立たしくて。
その理由を知りたくなくて、彼女は強くまぶたに力を込め、そして女を睨みつけた。
「どうかしら。少なくとも私は『追いはぎ』をけしかけた覚えはないわね。
――とりあえず、そこ。入って。足拭きたいし」
ようやく女は川から上がり、脱ぎ捨ててあったブーツを手に取った。