失うことなど考えられない『絶対』だった。
幼い私たちを抱えたまま僻地に追いやられ、慣れぬ場所で私たちを守り育ててくれた母。
私たちの前では恨みごと一つ吐かなかった。母にとってあの地での生活は青天の霹靂のようなものであったろうに。
ささやかな平穏が崩されたあのときも、気丈さを失わなかった母。
命を摘まれる必要など、もうなくなったと安心していたのに。
あいつはそれを――
……許してなどやるものか。
どこに隠れようと、地の果てまで逃げようと。
探し出して息の根を止めるまで。
記憶に鮮明に刻まれた、紅。
血を練り固めたような瞳へ向かう憎しみだけが、今の彼女をかたち成す。
その邂逅は必然か否か 2
「それで、返ってきたのが『ヤだ』のひと言って……――なにやってるの、メル」
「笑うな馬鹿」
「馬鹿にしてるの」
ほんの少し前をゆく弟が立ち止まり、ふっと大真面目な顔で振り返ってひとこと言った。丁寧に、歯切れよく。
昔から真面目な話の腰を折るきらいのある弟だったが、ついうっかりとはらわたを沸かせてしまい、意識せず、メルヴィーナの拳が目の前の腹に沈む。
腹を抱え、顎をしゃくって悶絶する姿を見るとわずかばかり胸がすいた。
「ぼ……ぼうりょくはんたい……っ!」
「文句を言うな。おとなしく殴られろ馬鹿」
「はぁ……馬鹿って言われ続けると、ホントにそうなのかなぁって気がしてくるからやめてほしいんだけど」
メルヴィーナの耳はその後に続いた舌打ちと、昨日からなに苛々してるんだか、という呟きを聞き逃さなかった。歩き出したその背中を蹴りつける。
のあっ、という悲鳴とともに、べしゃっと前のめりに崩れた。
今度は爽快感は生まれない。代わりに、こんなのが私の弟なのかという情けなさにため息が漏れる。
「3日間町中探してかけずり回ってようやく見つけた相手に、こんな山中まで来いと言われれば腹も立つっ」
「お、俺へのこの仕打ちは、腹立ちまぎれですか……?」
「半分以上は」
どうにか起き上がったという風情の弟の横を素通りし、今度はメルヴィーナが先に進んだ。
それ八つ当たりって言わない?! と文句の尾を引かせ、弟が小走りに後を追う。
「言う。だいたいアドル、手伝いもしなかったお前が悪い」
あの女、リィン・ヴァロアは、母の仇を探すのを協力してほしいと頼んだメルヴィーナを一笑に付した。
『自分で探し出すことすらできないのなら、そんな実にならない決意なんてさっさと捨ててしまいなさいな』
そう言って。
それでも諦めるわけにはいかなかった。
胸に燃える炎を簡単に捨ててしまえるくらいなら、メルヴィーナは今ここにいない。国を渡り、魔術大国と謳われる、だが本来メルヴィーナが足を踏み入れてはならないこの地には。
食い下がるメルヴィーナに、彼女は呆れを隠そうともせず――しかし最終的には折れた。そして、ブローハーゲンの東北に位置するシュトルゼ山に来るようにと指定したのだ。
意図は知れない。
だが、従う以外に選択の余地はない。
「俺は俺で別の大事な用事があるから探すの手伝えないって言っただろ? 最初に!」
「どんな」
端的に問われ、わかりやすく口ごもる。
えっと、うぅ、などと意味を持たない言葉をごにょごにょと口の中で繰り返して、やっと出てきたのが。
「そー……、れは……さ、ほらっ。女には言えない男の事情?」
一瞬の間を置いて。
この世のものとは思えない汚いものを見る壮絶な目が、弟に――アドルに突き刺さった。
「…………へぇ……そう」
まったく感情の乗らない声が、ほとんど動きを必要とせずにメルヴィーナの唇からこぼれる。
「そ、そう。男の? 事情」
「へぇ。母さまの仇を探してるって、旅の途中で……ふぅん……男の…………ねぇ」
「うん、そう。生理現象。仕方ないな男ってやつは!」
メルヴィーナは、風に揺れるこずえに顔を向けながら軽く笑い飛ばす弟の方向に。
「ほんっとうに、な」
しゃり、と。
鞘走りを鳴らした。
「え、ちょ……えぇぇっ?!! え、メルさん……えぇーっ?!」
メルヴィーナの手に収まった長物――とはいっても、女性用に軽量化され長さも抑えられた小剣を見て、アドル傍目どころか身内から見てもどうしようもなく狼狽し、目を剥いた。
「謝るっ、謝るあやまるごめんなさいホンットすいませんでした姉上様だからちょっとそれだけは」
「馬鹿。お前じゃない」
メルヴィーナの視線は、両手を上げて早々と降参の意を見せたアドルを通り越し、揺れたこずえの元へと向かう。
「出てこい」
剣を払い、いつでも動ける姿勢をとったまま、メルヴィーナは姿を隠したままの存在に呼びかける。ただ平静に。
上から見下ろされていようと、場を制することを許さない威をもって。
「そこに、いるだろう。二人」
存在を教えたのはアドルだった。
アドルが気づいていたとは思えないが、彼が目を向けていた広葉樹の葉の揺れ方は、他のこずえと比べるとどうも不自然さを感じさせた。
そうして少しの疑をもった上で意識を研ぎ澄ませると――野生の動物ではない、明確な意思を持った存在がふたつあることに気づくには、さして苦を要さなかった。
目を凝らせば、樹の上に人がいる影すら確認できる。しかし、それだけだった。
姿を現してこない限り、こちらから動くことはできない。
だからメルヴィーナは威嚇するに留めたわけなのだが――
「なんかバレちゃってるよねぇ完全にこの時点でー。……ね、どうしよっかぁ?」
「どうしようか、もない。想定の範囲内だろう」
「うーん……でもねぇ、段取りとして美しくはないよねぇー」
ひそひそと、というにはいささか大きすぎる気もしなくはない男二人の内緒話に、メルヴィーナの肩から、一瞬力が抜けた。
「美しさが……?」
「必要だよー? 完全な完璧な任務遂行のためにはっ」
「崩れただろうが。すでに」
「えー、自分で想定の範囲内って言ったの、忘れちゃったのぅ?」
「……言っていることが、矛盾している」
メルヴィーナは訝しげに眉を寄せ、状況を飲み込み姉に倣って得物を手にしていた弟と、顔を見合わせた。
これはなにかの冗談だろうか。
それとも……油断を誘う作戦、だろうか。
意図を量りかね、先に業を煮やしたのはアドルの方だった。
「あの、おまえらさぁ……なんなの?」
続いていたひそひそ話がぴたりと止まる。
替わって若干高めの、相手を困らせていた側の嬉々とした声が、初めてメルヴィーナたちに向けられた。
「ええっとねぇ〜……うん、そうそう。そうだった。通りすがりの追いはぎでーす!」
「こんなフレンドリーな追いはぎがいてたまるか!」
メルヴィーナの怒声が響き渡った。
間髪、入らなかった。
「むぅっ、ここにいるもん! いいでしょ親しみやすくて」
「もんとか言うな、確かめようもないが大の男が気色悪い! あと追いはぎに親しみやすさは必要ない!」
「きしょく……っ、ちょっとこのひと今すっごい暴言吐いたぁーっ!」
「……間違ってはいないと、思うが」
「ひど! ひっどい! ぼくになんの恨みがあるっていうのぉっ」
メルヴィーナの中で、なにかが切れた。
もともと気が長い方ではない。寛容さは、これまでの会話を聞いてやったところで品切れした。
そして彼女は高らかに言い放つ。
「仮にも追いはぎを名乗るならな、暴言でも恨みでも怨念でも、あぁもう、そういうものを寛大に受け入れるくらいの気概を見せろ!
それができないなら名乗るんじゃない! 追いはぎに失礼だ!!」
びりびりと空気を震わせる静寂の後にやってきたのは静寂。沈黙、そしてダメ出しだった。
「メル……ちょっとそれは……」
「きみ、言ってること無茶だよぅ」
弟が恐々と言い出したかと思えば、上からもこんな声が降ってくる。
「おまえのほうが盛大に無茶苦茶だ!」
「……なんかこの人怖いぃ」
メルヴィーナは言い返された男が相方に縋りついた気配を感じた。
縋りつかれた、感情の乏しい低声の男の迷惑そうな気配もまた、一緒に。
「よかったねメル。追いはぎ?に怖がられて」
もう、返す言葉を持ちたくなかった。
「うぅ〜……気を取り直すっ!
うん、力ずくでねじ伏せて意見をムリヤリ通しちゃうのがワルモノっ。そういう設定なんだもんね!」
「設定と言うんじゃない。ここで」
「あ、ごっめん。つい」
力ずくで、と高めの声が口走った瞬間にメルヴィーナに奔った緊張は、その後の『設定』という単語に吹き飛んだ。
どうも力の抜ける二人組だ――
「ねぇメル。設定ってなにかな設定って」
「私が知るか馬鹿」
「あっ、設定っていうのはねぇー……って痛いよぅーっ! 蹴らないでよ落っこっちゃうってば! しかも今けっこう勢い強かったぁ!」
「……落としたほうが、相手のためか……?」
力ずくでいうことを聞かせられる気は、微塵もしなかった。