一対の茶色の瞳だけが爛々と輝きを放つ。
光源などない沈むような闇の中にあって、それだけが。
「そうすれば、おねがい、かなえてくれる……の?」
ぐしゃぐしゃになった顔にわずかの希望を見出して、彼女は一言一言を噛みしめる。
「なんでもする」
手が伸ばされる。
ふさりとした感触、獣の匂いに埋まって。
「なんでもするから。
これで、ずっと。いっしょだから。
だから――」
間もなく、一対の瞳の光は別の一対に取って代わることとなる。
嘘つきの約束 2
その日レピストは見つからなかった。
人里からかなり離れてしまったため、その日は火を焚いて野営することとなった。
初めからそのつもりだったわけではない。途中、夕刻までに戻れそうな地点で引き返そうとしたのだ。余所の子どもを連れて野宿するなど考えてもいなかったし、起こすつもりは毛頭ないが、なにか万が一のことがあってはことである。
それをしなかったのは、ぐずりもせずに歩き続けたアーシアが頑として拒否したことと、あろうことかリィンがそれを容認したからだった。
これで捜索隊でも出されて見つかったら俺たち誘拐犯だよな。
ぼやいたアドルは予備の薪を集めに夜の森に消えていった。
火に小枝を投げ入れていたメルヴィーナも弟と同じ思いを抱いて不審の目を向ける。女は露ほども意に介していない風に、ぴったりと寄り添うレピストではない自分の白犬の背中を撫でていた。
その隣でアーシアは与えられた携帯食料にかぶりついている。守られ、与えられることを当然に受け入れて。
優しい大人に囲まれて育っていたに違いない、メルヴィーナはそう思った。
(私たちの周りにも大人しかいなかったがな)
それに比べてこの子はなんと恵まれているのだろう。はっきりと『嫉妬』といえる思いがこみあげる。一回り以上年の離れた幼子に向ける感情ではない――分かっていても止められるものではないのだ。
すべてが敵で、気心許せる者などいなかった。
母親は味方だったがメルヴィーナたちを守る力はないに等しかった。
血の繋がった人間が他にいないわけでもなかったが――肉親でありながら家族とはいえない。そもそもそれらは遠く離れた地におり、今では顔も覚えていない。
「……アドルだけか。私には、最初から。今も」
つい口をついて出てしまったことに気づき、慌てて取り繕おうとするがうまく言葉が出てこない。
目だけでリィンを窺い見ると――考え事でもしていたのか、ちらちら揺らめくオレンジ色の炎を見つめ、メルヴィーナに注意を払っていた様子はなかった。内心胸を撫で下ろす。
炎に照らされる横顔は、女をまるで別人に見せた。
思案に暮れる人間特有の無表情が珍しいこともあったが、まぶたから伸びる長い睫毛、炎を映した紫の瞳が常にはない情動を感じさせていること――気づくと、無心で見つめ続けていたようだ。女がメルヴィーナの眼前すれすれで手を振っている。
「メルちゃん大丈夫? 正気?」
「正気を疑われるなにかをした覚えはないが」
「うん? 見惚れられてたみたいだから疑ってみた」
メルヴィーナは何も言わずに炎に向き直ると、手元に置いた長い枝を火の中に突き入れ、崩れかかっていた薪を調整した。水分を多く含んでいた枝だったのだろう、派手な音を立てて炎が爆ぜる。
子どもを驚かせてしまったかと思ったが、アーシアはびくりともせず携帯食のお代わりをねだっていた。存外図太いようだ。
「……一つ、聞きたい」
ひとつも手をつけていなかった乾燥肉をアーシアに渡しながら、どうぞとリィンが応える。
「最初からどこにもいなかったのか? お前は」
「ん? 私? 私はここにいるわよ?」
「は。お前、昼間と言っていることが違うんじゃないのか。言っていただろうがなにやら意味深に!」
あぁ、と思い出した風に感嘆し、リィンは違わないわよと主張する。
「あれは『リィン』はどこにもいなかったのかもね、という話」
「……なにが違う」
「じゃあ訊くけれど。
メルちゃんは、いつからメルちゃんだったの?」
「お前にそう呼ばれてからだな」
「そういうことではなくて。
メルヴィーナはいつからメルヴィーナだったのかしら。これならいかが?」
「生まれて、名前をつけられたときからだろう」
「名前をつけられるまで、あなたはあなたじゃなかったの?」
「…………はあぁ?」
意味が分からなすぎる。
名前がなかったらメルヴィーナではないだろう、いや待てメルヴィーナでなかったら私はなんなんだ、思考が空回り、眉を寄せて時折うめき声を上げるのを彼女は気づかない。
「私は例え名を持たなくても『私』という存在で、リィンという名を与えられはしたけれど、結局私は『リィン』にはなれていないのかもしれない。
だからリィンという存在は、どこにもないのかもしれない。そういう話」
わかってたまるか。
それ以上の理解を拒否してメルヴィーナの思考は停止した。
「あぁもう私はそういう屁理屈な理論は苦手だ! 余所でやってくれ余所で!」
体が痒くなる!
言って自分の腕をかきむしり始めたメルヴィーナに、『リィン』はくすくすと含み笑う。
「なにが可笑しい」
「いいえ? 可愛いなぁと思って」
「…………気味の悪い冗談はやめてほしい」
別の意味で体をさすりたくなったメルヴィーナだった。
「おねえちゃんたち、さっきからなんのお話してるの?」
「んー? メルちゃんは難しいことを考えるのが苦手な単細胞さんだってお話よ」
「こいつが訳のわからない屁理屈をこねるのが得意な変人だという話だっ」
「理屈を突き詰めていくと、自然と屁理屈になるものよ?」
「知るか!」
「事実は想像より異なりという言葉を知らないのかしら」
「もうお前の存在が異だ!」
「あらよくわかるのねぇ」
「自覚があるのか。結構なことだな」
アーシアはリィンの横で腹ばいになっている白犬に「どっちが合ってるの?」と尋ねたが、白犬は丸くなって顔を埋めてしまう。その横では黒猫が我関せずであくびをしていた。
「ねぇアーシア。こっちお姉さんの言うことはどうでもいいから。
お母さんは? 一人で出てきて心配しているのではない?」
どうでもいいとはなんだ、小声で毒づきメルヴィーナはいつの間にか小さくなってしまっていた炎に枝を投げ入れる。
「してないよ」
「どうして?」
「ママはおねえちゃんといっしょだもん」
「お母さんは子どもを心配するものだと思うのだけれど」
「心配なんてしてないよ。
だって、ママが先にアーシアをおいていっちゃったんだもん」
アーシアはふいと顔を逸らし、神妙な面持ちをオレンジ色に照らした。
炎がまた、ぱちりと爆ぜる。
「あのね。アーシア、ほしいものがあるの。
レピがね、アーシアに、とってもとってもすごいものをくれたの。ホントだよ。うそじゃないよ。
それでね、もっといいものをくれるって、やくそくしてくれたんだよ」
そう、一言だけの相槌を返し、リィンが口元だけを微笑ませる。
アーシアはそれを気にする様子もなく、少し舌足らずの愛らしい調子で話し続けた。
「でもねぇ……まだ、たりないの。
まだいっぱい、いっぱいひつようなの。そうしないとアーシア、ほしいものをもらえないの。
ねえ、おねえちゃん。アーシアのおねがい、かなえさせて?」
「レピを探すのは、もういいのね」
「うん。いいの。
だってレピは、ずっと『アーシアといっしょにいた』んだから」
探すひつようなんていらないの。
メルヴィーナは、握りしめた自分の手のひらがじっとりと汗ばんでいることに気づく。
それならばなぜ、アーシアは「レピを探して」などという意味のないことを頼み、人里を離れた奥地まで探しに来させたのか。
「違う……」
アーシアの目的は目的ではなく。
現在の状況、またはその先から生まれる、なにか。
弾かれたようにメルヴィーナは立ち上がり、闇に沈んだ森を振り返る。
腹の底から滲み上がる違和感。
戻ってこない弟。
かみ合わないアーシアの行動と言葉。
メルヴィーナはその場から動くことができず、奥歯に力をこめ、腰に佩いた武器に意識をのばす。
「アーシア。
あなたが今、必要なものはなに?」
訊くな、メルヴィーナがどんなに願っても、声とならない願いはリィンに届かない。
メルヴィーナからはリィンの表情を確認することはできない。そんなことを気にしたのは、声からは少しの感情も感じ取ることができなかったからだった。
子どもはぱぁっと笑顔をほころばせた。
「あのね。アーシアがほしいのはね」
そして、十数分前に乾燥肉をねだっていたのと同じ、無邪気さで。
「おねえちゃんたち」
メルヴィーナたちを指し、にぱりと笑った。