「おなかすいた……ねぇ……まだ、たりないの?」
――マダダ。チカラヲ、タクワエナケレバ。
彼女の中のなにかが囁いた。
聞き覚えのない、けれども知っている音で。
――タリナイ。モット。モットオオク。
「もっと……なの」
――ソウスレバ、カナエテアゲル。ネガイヲ。カナエテホシインダロウ? オマエハ――
その先の囁きを、彼女は信じた。
それだけを信じていた。
「…………おなか、すいたよ」
空ろな瞳で虚空を見上げ、彼女は歩き出す。
自らではどうすることもできない枯渇を腹に抱えて。
後に残ったのは、大きな赤黒い水たまりと――点々と続く小さな足跡だけだった。
嘘つきの約束 3
戻ってきたアドルは、目に飛び込んできた光景を目に立ち尽くした。
抱えていた木枝の数本が滑り落ち、土の上にばらばらと転がった。
「これは」
彼が発した呟きに耳を傾ける者はいない。
この場で、この世界で最も傾けるべき者に今その余裕はなかったのだから。
「『これ』はもう、人間ではないの。あなたたちが仇と称する種族と同じ」
「アーシアはあいつとは無関係だ!
おまえは母を殺した者がもし人間だったら、人間だからといって誰彼関係なく殺すのか!」
「私がこうしていなければ、これとあなたの立場が逆転していただけ。それともあなたは無様に地面に転がって、これの一部になりたかったとでも?」
メルヴィーナの激昂に応じるのは、温度のない女の声。
今起こっている――彼女自身が起こした状況に、本当に興味がないのだろう。声と同じ性質の相貌が物語っている。
黒猫が前足でブーツを叩き、白犬が不満げに鼻を鳴らしても、それを気にした様子はない。
彼らの存在すら認識していないのではないかとメルヴィーナが思うほど、今の彼女は世界の全てに向けるべき関心が、希薄に見えた。
「メル」
窺うような声にメルヴィーナが振り向いた。
弟には何事もなかったのかと安堵したのも束の間、固い顔をしたアドルの視線が自分の足元へと動いたことで、一瞬ほぐれた緊張が固さを取り戻す。
弟がなにを問いたいのかは明白だったから。
「アーシアは……魔族、だったんだ」
そうなのだ。
言葉にしてようやく、そのことを理解できたような気がした。
「犬を探してほしいというのは嘘で、私たちを指して、私たちのことを『欲しい』のだと言っていた。
こちらへ向かって来ようとしたところを――リィンが」
殺した。
なぜだか、その一言を告げることができなくて。メルヴィーナは件の女から逃れるように目を背けた。
一瞬で詰まった間合い。
アーシアの、なにが起きたのか理解できないような呻き。
ぐらりと傾いだ小さな体。
広がってゆく、――黒い血だまり。
それを見下ろす冷たい目。
その時、リィンの瞳は血色を映してなのか、常より紅く染まって見えた。
恐ろしいと、思った。
メルヴィーナとて、頭では理解している。
このアーシアという少女が己を脅かす存在であり、己が憎悪を向けるモノに属する種であり、今まさに害されようとしていたことは。
それでも、畏怖を抱いたのは魔族であっただろうアーシアではなく、こちら側であるはずのリィンに対して。
なんの躊躇いもなしに、屈託なく笑う少女の命を刈り取ったことにではなく。それを成しても罪悪感の欠片も垣間見せないことにでもなく。
ただ、狂気を思わせるその色を。
畏ろしいと。
「ありがとう。メルを、守ってくれて」
「……そのつもりだったわけではないけれど」
メルヴィーナは、そのやりとりに違和感を覚えた。
しかし自分が状況を説明したことで、リィンの行いが正しいものだと自ら証明したのだと気づく。アドルの言葉もまた、正しい。
それでも納得できないのはどうしてなのか――苛立つ頭の中で、ふいに答えが閃いた。
――私は、幸せなアーシアに嫉妬して。羨んでいた。
優しい家族に囲まれた少女。
きょうだいとの他愛無い喧嘩。
彼女を待つ家。
そんなものを羨んで。アーシアに自分を重ね。
幸せが命とともに断ち切られた少女に代わるつもりで、勝手に憤慨していたのだ。
この怒りは少女のためではなく、自分のためのもの。
そんなもので真実から心を背け、不相応な感情を向けてしまった自分が愚かしかった。
「それでも、感謝をしないわけにはいかないよ」
「……どうぞ、ご勝手に」
それでも。
何度確認したところで、瞳の青紫を鮮紅色に変じた彼女に抱いた違和感は、完全には拭うことはできなかった。
「ママ」
小さな囁きが上がった。
アーシアは、開いた片手を持ち上げようとしている。なにかを掴もうとするその姿は、哀れ以外のなににも見えなかった。
「レピの、うそつきぃ……!
またあえるって、言ったのに、ぃ…………いっぱい食べれば……かえして、くれるって」
掠れた声で絞りだされる言葉は悔恨に満ちていて。
やはりこれは間違いではなかったのか、メルヴィーナは罪悪感に目を背けたくなる。
「ごめんね、ママ……」
パパ。
おねえちゃん。
最後にもう一度、切なそうに「ママ」と言ったきり、アーシアはなにも言わなくなった。ほんの少しだけ持ち上がった腕が、ぱたりと落ちる。
それきり、動くこともなくなった。
「この子は、魔族になった人間だったんだな」
骸を土の中に葬い。
少しだけ盛り上がったその跡を見つめ、おもむろにアドルが呟いた。
「……そんなことが起こり得るのか」
「それほど例が多いわけじゃない。けど、変異種が存在することは認められているよ。
様々な形で魔族の気、魔気に曝されることで、生き物は魔族に変異することがある。
ただ、多くは変異に耐えられず命を落とすらしい。
それでも魔族への変異を遂げたものは、適性が強いと考えられているよ。最終的には純粋な魔族よりも強大な力を持つなんて話もある。
ある国では人工的に変異を起こさせるなんて実験もあったらしい。
もちろん人体実験だったわけじゃないらしいけど……気持ちのいい話じゃないね」
その実験の過程でわかったらしいんだけど、とアドルが続けた。
「もともと彼らは魔族だったわけじゃない。だから魔族としての力を蓄えるために、
かつての自分と同じ種の生物を選んで、生きたまま食らうんだそうだよ」
ぞわり、と。
背筋に怖気が走った。
同じだった生き物。人間であったアーシアが食っていたもの――
考えたくは、なかった。
「どうしておまえ、そんなに詳しい」
「敵を知ることは必要でしょ。色々調べたんだよ」
「色々?」
「そう。色々やってもみたの」
だから色々とはなんだ、問い詰めたところで弟からは「さぁ?」という答える気のない返事が返ってくるばかりだ。
――座り込んでいたリィンが立ち上がる気配がした。
「行きましょう。ここに用はないでしょうから」
もう、夜も明ける。
静かに言った彼女の瞳は、元の青紫に戻っていた。
二人ともにはぐらかされた気がしたが、自分が一番多くを知らないのだと思い知らされ――メルヴィーナは頷いた。
「ほら、あんたらが探してるのはここだろうよ」
最初に出会ったとき少女が座り込んでいた街道の先――そこからほど近い、小さな村。
『この村に最近、一家全員亡くなった家族はおられますか』
メルヴィーナは、そんな怪しい質問に親切に答えるやつがいるか、しかも見るからに閉鎖的な村で、と呆れたものだったが、拍子抜けするくらい簡単に成果は得られた。
王都から来た地域統計学の学生、というリィンの口から出まかせが効いたらしい。
案内されたのは、まさに幽霊屋敷であった。
窓は割れ、壁の一部は崩れ落ち、それを修繕されることなく長年放置されたことが窺える。
「どれほど前のことでしょうか」
呆然と家を眺める姉弟を横にリィンが訊ねた。
老人は露骨に迷惑そうな顔で、10年、と答える。
「原因がわからんもんだから気味が悪うて、それ以来だれも近づきゃせんよ。
最近じゃ子どもらが度胸試しに近づくようになっての。
土地持ちだからて、うちのところに文句ばかり持ち込まれて迷惑極まりないわ」
「それはお気の毒です」
「……なにが知りたいんだか知らんが余計な事だけはせんでくれよ。
余所もんのあんたらはともかく、ワシたちにまで呪いが振りかかっちゃ、たまったもんじゃない」
「もうひとつ、伺いたいのですが」
「なんだね」
「この村の近くで行方不明者が出ている、ということは」
ないでしょうか。
最後まで聞くことなく、老人は顔を真っ赤にして「そんなこと、あるわけがないだろう!」と怒鳴り散らした。
「いいか、もう一度言うが! 余計な詮索はせんどくれ!!」
肩を怒らせて足早に去ってゆく老人の背に、アドルとメルヴィーナが小声で納得し。
「あるね」
「あるんだな」
「それはまぁ、あるでしょうねぇ。事実、未遂ながらも起こりかけたのだから」
リィンも便乗してうんうんと頷く。
「隠したいのは当然でしょうね。
こんな小さな村じゃ、小さな噂が簡単に人の足を遠のかせるから」
メルヴィーナは家――であったものの庭に犬小屋とおぼしきものを見つけ、そこに書かれた『レピスト』という拙い文字に目を細める。
間違いなく、ここはアーシアが生きた場所。
時の狭間に取り残され、置き去りにされた遺骸。住む者を失ったこの場所は。もはや家とは呼べない。
「10年も、アーシアは一人だったんだな」
どれほどの孤独だっただろう。
メルヴィーナはそれを理解できるとは思えなかった。わかってやれると思うのはただの慢心だ。
アーシアの孤独は、アーシアにしかわかるはずがない。それだけは間違いなく、アーシアが抱えて逝った人間の証。
けれども、片鱗くらいならメルヴィーナにもわかるのだ。
「きっと家族に置いていかれて。取り戻したかったんだ」
欲しいものがある、アーシアはそう言っていた。
それはきっと、失ってしまった家族。
「取り戻せるわけがないのに」
願いの力が自然の法則をも変えてしまえるなら。
メルヴィーナだって、願っただろう。願って、願って、祈り続けただろう。
だが、それだけでは願いが叶わないことを知っていた。
「おまえは私を置いていったりしないな?」
知っていたから。
だからこそ今、メルヴィーナは願った。
残されたただ一人の家族が失われないことを。
「……しないよ。
俺は。メルをひとりで置いて、いなくなったりしないから」
だから、アーシアとアーシアの家族のために。
「泣いていいんだよ」
姉ではなく妹にするようにぽんぽんと頭を叩かれ――そんな弟の優しさが、メルヴィーナは好きだった。
姉弟から離れ、空き家の裏手に回った女が大きく息を吐いた。
びっしりと苔に覆われた石壁に背をつけ、そのままずるりと座り込む。二匹の獣が当然のように体をぴたりとつけて寄り添った。
「あの子まだ、少しだけ。……残っていたのね」
完全に変異していると思っていた。
だからこそ、せめてこの手で引導を渡してやりたかった。それが仇となるなんて。
二度と戻りたいとは思わない、あの感覚。
閉じられ、掌握され、なにもかもから精神だけが切り離されたかのような――あの感覚から。
アーシアが呼ぶ声に引かれ、その声に重なる遠い声に呼ばれて。戻ってこられた。
「馬鹿みたい」
は、と息を漏らして笑う。
情けなさ過ぎてこみ上げてきた笑いも長くは続かない。
「ごめん、なんて言葉。私には……言えない」
女はこみ上げるなにかを、覆った片手で圧し殺そうとして。
姉弟が探しに来た気配を感じ取るまで、そのまま動こうとはしなかった。
ふらりと旅人たちが現れて去ったその夜、村の空は赤く染まった。
火は延焼することなく、一軒の空き家を焼き落としただけで何事もなかったかのように消えたのだという。