広々とした庭園に、白い花が一面に咲いている。
枯れたものなど見当たらない花々は、一身に日の光を浴びて花弁を広げる。決して豪華ではない花だ。むしろ素朴な白い花はしかし、開花期である――それだけでは説明のつかない絢爛さをもって咲き誇っていた。
敷地内に広がる庭園に足を踏み入れたクロヴィス・シエン・エルディアードは、予想通りの場所で膝を折っている母の姿を見つけ、苦笑した。
そこで祈りを捧げる母の姿は日常の一部分に過ぎないはずだった。
しかし彼は、いつの間にかその光景が「穏やかな日常を思わせるもの」に変わったことを思い知らされた気がした。長らく家を離れていたからだけではないのだろう。時の流れは、感情を簡単に過去のものに変えてゆくから。
「声をかければよろしいのに。遠慮などする必要がありますか?」
祈りを終えたらしい彼の母はクロヴィスが後ろに立っていることに気づくと、一瞬目を丸くし、ふわりとやわらかく微笑んだ。日だまりのような笑顔につられ、彼もまた笑む。
「邪魔をしたら怒られると、身に染みて理解していますので。
……子どもの時分には刺激が強すぎましたからね。母親に、真剣を向けられて凄まれては」
「あれはあなたが悪いのです。花壇から花を引き抜こうとしていたのは誰でしたか?」
「……そうでした?」
「そうでした。
お兄様の一家と、まだ存命でおられたお父様もいらしたのですよ。あの後、散々に笑われたのを忘れるはずがありません」
「あぁ……そういえば。アリエがひどいことになっていましたね。母上の剣幕に」
十数年前を思い起こしたクロヴィスが、遠い目で斜め上を見上げた。
普段は声を荒げることすらない叔母の様子に、年下の従妹は怯えに怯え、仕舞いには泣き喚きながら庭中を駆け回るという参事になったのだ。
「挨拶が遅れましたね。ただいま戻りました。母上」
「ええ。おかえりなさい。
……変わりなさそうで安心いたしました。怪我もなさそうでなによりです」
「怪我をするような任務に出ていませんよ。今は」
「……なんですかその『今は』というのは。わたくしは、あなたが実は最前線に出ていた、などという事後報告を聞くのはごめんこうむります。二度と。これからも、とお言いなさい」
目を吊り上げた母親に、クロヴィスは曖昧に「はぁ」と言葉を濁す。
敬愛している母親だが、数年前に後方支援と偽って実は戦場の前線に出ていたことを、ことあるごとに話題に出しては牽制してくるところだけは辟易していた。
軍に所属している限り絶対安全などありえない。
そんなことを彼の母は十分すぎるほど知っている。それでも心配なのが親心なのだと理解しているクロヴィスは、苦笑って「努力します」と答えた。
そして午後には仕事に戻るが、当分は王都に留まる旨を伝えると、彼の母は周りの花が霞んでしまうほどの笑顔をほころばせたのだった。
花の中に埋もれ、だが確かにその存在を置く拳大の白い石。
なんの文字も刻まれないその石が持つ意味をクロヴィスは知らない。だが。
母が、叔父が、祖父が。そして時折訪れた母方の祖父の背中が、沈黙を続ける石の代わりに、なにかを語る。
白い花はいつか紡ぐだろう。
『忘却の拒否』の物語を。
紡がれゆくもの 1
「……そろそろ触れた方がいいのか?」
メルヴィーナは不躾に女の全身像を眺め、言い放った。
飲み込もうと一瞬ためらったのは、自分たちの訊かれたくない不都合について詮索してこないリィンへの遠慮があったからだろうか。だが、好奇心と不審が遠慮を超えたようだ。
「その格好に」
イヴァンに入る前からだ。この女が変装なぞをし出したのは。
今さら訊ねたのは、とうとう眼鏡なぞを掛け始めたからである。どこぞで買い求めたのか、それとも元から所持していたのか聞く気はなかった。おそらくというか、まあ伊達だろう。
自分たちなら、そんな真似をしなけらばならない理由がある。
……というか既にしている。その変装が、変装であって『人の目に留まりづらくする』効果を発揮しているのかというところは、他者から見ると微妙なラインだが。
「似合わない?」
「似合う似合わないの問題ではないぞ。……似合わなくはないが、似合ってもいないな」
「あらありがとう。
触れていいのか悪いのかと訊かれたら……じゃあ、よくはないかしらね?」
「なんだその『じゃあ』というのは」
「文体の接続詞?」
「そんなことは聞いていないっ」
メルヴィーナは地団太を踏んで抗議した。
このリィンの相変わらずの調子はともかく、変装自体は本当によくできているとメルヴィーナは思う。
枯れ草色のケープをまとい、長い髪をひとつに結い上げた姿は「ほぼ別人」と言っていい。体のラインを隠す服装をするだけでこれほど印象が変わるものなのか。追加された眼鏡も、女の珍しい紫色の瞳を意識から外す役割をしている。
「おまえにそんな必要はないと思うのだが」
「触れてくれない方が嬉しいという答えを与えたはずなのだけれど?」
「そういうことをそういう顔で言うと、変装の甲斐が薄くなると思うのだが?」
「あっははー。メルちゃんもね」
その様子を、なんとも言いがたい微妙な目で口出しもせず眺めていたアドルが、ついに耐えかねたのだろう。
「二人ともさぁ……仲良くしろとは言わないから、せめて仲悪くするのやめようよ!」
拳を握って訴えた。が。
「仲悪くなんてないわよー?」
「仲が良くもないがな」
「そうねぇ。仲が良くはないわねぇ」
「だがこれが普通だろう?」
「通常運転ねぇ。私たちの」
白々しく笑うリィン。憮然とそっぽを向くメルヴィーナ。
なにとも言わず歩き出してしまったそんな二人を白犬と黒猫が追いかける。一人取り残されたアドルはため息を吐くわけでもなく、ただぽそりとこう漏らした。
「もう俺ヤだこの空気…………」
が、すぐに怒気をはらんだ姉の声に急かされて小走りで後を追う。
慌てたせいで途中何人もにぶつかりかけ、謝罪を連発しながら。
道中寄り道をしながらではあったが、ようやく目的地であるイヴァン神聖国の首都に到着した彼らの姿は、中心街から一本外れた商店通りにあった。
寄り道の大きな理由は魔族の目撃情報を得ようとしたものだ。しかし有益なものはなにも得られず、リィンの『地酒巡り』の趣味を満喫させるだけの結果となっていた。
魔術大国であるイヴァン神聖国は、しかし同じくらいに王家の神聖性も取り上げられている。
始祖は国の名のごとく神聖なる「神の使い」であったとされており、これまでの歴史の中で奇跡と称される事柄が幾度となく起きたと歴史書には記されている。しかしそれが魔術の効果を誇大記録したものであるという見方もあり、真偽のほどは定かではない。
それゆえ、建築物から店の土産物まで、魔術関連に匹敵して「神の加護」を謳うものが非常に多く並んでいるのだ。
「……なんだ、これは」
「どれどれ。建国黎明期の魔術師が組んだ魔術仕掛けの人形、だって。メル欲しいの?」
「いらん。それ以前に出所が怪しすぎるだろうが」
「その時代の魔術師がどれだけの数いたのよねって話ねー」
「先代国王の戴冠式で使われた杯のレプリカ……ありがたみが薄いな」
「薄いわねぇ」
「『真実の始祖は建国者ゼルテクスの祖母!』……なんだ、この三流ゴシップ記事のような見出しの本は。しかもぶ厚い」
「…………後世の考察書かしらね。これはおいくら?」
「え、買うの?!」
財布から紙幣を取り出すリィンを横目に、アドルと同じく「買うのか……」と呆れていたメルヴィーナは、そこではたと気づいた。そう。ようやく。
「って、こんなことをしている場合か!」
そうなのだ。
久々の賑わしさに圧倒され、完全に観光状態になっていたが。
「私は協会の本部に行く予定だったんだっ。それがどうしてこんなことになっている!」
「それはメルちゃんが最初に足を止めたからよねぇ」
「う」
メルヴィーナは思わず言葉を失う。
胸に本を抱え、ねぇ、と女は黒猫に同意を求めた。彼女は明らかに荷物になるであろうその本を、この先も持ち歩く気なのだろうか。
「……協会の本部? 魔術協会の?」
リィンは本の著者の部分に指をなぞらせ思案するような顔をしていたところで、ふと確認をとってきた。
「そうだ。もう行くぞ、本など後でいくらでも読めるだろうが」
「行くの? 本気で?」
「なにか問題でもあるのか」
「いいえ。私は別に」
「ならいいだろう。来ないのなら置いていくぞ」
そう言って、中心街の地図を片手にメルヴィーナは行ってしまう。アドルも当然のように後を追う。
「私はいいにしても……あなたたちはやめておいた方が身のためだと、思うのよねぇ…………」
それは理由を含めて是非ともしておくべき助言であったはずなのだが、リィンは「まぁいいか」の一言で終わらせた。
どちらも、ずんずん先へと進んでしまった姉弟には聞こえることはない。
「でもそうなったら、やっぱり私が面倒見なければいけないのかしら……?」
犬と猫が同時に鳴き声をあげた。
肯定に違いなかった。
午後になって半休から戻ってきた上司は、滅多にない顔をしていた。
報告書の校正に頭を悩ませていたジョエルはつい面喰らい、戻ってきたら紙を叩きつけてやろうと思っていたのを踏みとどまる。彼が今している仕事は、本来であれば上司の分野なのだ。黙ってこなして今後もこれ以上仕事を増やされてはたまったものではない。
珍しく一言も発しないまま執務机についたクロヴィスは、ため息とも感嘆ともとれない声を漏らす。本当に珍しい。
久しぶりの実家で、よほどのことでもあったのだろうか。とりあえずジョエルは茶の準備のために席を立った。
「どうかなされましたか?」
わずかな音も立てられず、クロヴィスの前にティーカップが置かれる。
そこでようやく副官の存在に気づいた――否、視界に入っていたとしても意識に入れていなかっただけかもしれない――クロヴィスは、目の前のカップから立ちのぼる湯気を見つめて言った。
「ん。よくわからないということがよくわかった」
「は?」
ジョエルから『なにやらアンニュイになっている上司への気遣い』が、ざっと音を立てて消え去った。一瞬にして。
「なんですかそれは」
怪訝に眉をひそめたジョエルが思わず下げようとした手つかずのカップが、寸でのところでさらわれる。
「だから、わかったんだよ」
「だからなにがですか。主語がありません。意思の疎通を図ろうという心意気が感じられません。なにがわかったのやらわからないのやらさっぱりです」
「母上に似ていると、君が言っていた者の心当たり」
「……そうですか」
たったそれだけの、答えの前段階に辿りつくまでに大変な労力を要した気がして、ジョエルはがくりとうなだれた。
クロヴィスの話題は、先だって滞在していた国境の街でジョエルが遭遇した女についてらしい。
今思い出しても本当によく似ていたのだ。
クロヴィスの母、若かりし頃のティアリーゼの姿絵に。
光を集め紡いだかのような黄金色の髪も、深い輝きを放つ紫水晶の瞳も。感じさせる雰囲気もまた、困惑するくらいに似通っていた。
紫の瞳を持つ人間は、そう多くない。
多くないというよりもジョエルが知る限り、クロヴィスは然り、ティアリーゼの一族に限局されているはずなのだ。そうでなくてはならない。そして、その一族が旅人としてふらついていることなど許されないことであり、そんな者がいたとして、本家がその存在を把握できていないという事態は非常によろしくない。
「分家の方がおられた、と」
それならそれでこの問題は終わる。
しかしそれだけなら、あの神妙な様子はなんだったのか――
「うん。それがわからないんだよねぇ」
それを聞いた一瞬後のジョエルの形相は、修羅の如くというのが正しい。一言で表せばガン飛ばしである。
「だ……っから……、どっちです! どっちなんですか!
わかったのか、わからないのか! はっきりしていただけませんかっ?! だいたいあなたはですね、いつもいつもそうやって俺をいや俺たちをおちょくっては楽しそうにのうのうと」
「ジョエル、答えを白と黒、どちらかに二分することだけが正しいわけでは」
「今はそんな話はしてません!」
頭からぴしゃりと叩きつけられたクロヴィスはつまらなそうに肩をすくめ、「ないと思うのだけどねぇ……」と小さく呟いた。拗ねた子どものような顔で、湯気の立たなくなった茶に口をつける。
「私も先ほど母上から初めて聞いた話だよ。
――祖父のきょうだいから、駆け落ち者が出たらしくてね」
クロヴィスが機嫌を直して話を始めたのは、少し言い過ぎただろうかという罪悪感に駆られたジョエルが渋々新しく淹れ直した茶と菓子を運んできたのを見計らってからだ。
「……駆け、落ち。ですか」
その単語だけで話の雲行きが怪しい。
頬をひくりと引きつらせたジョエルを気にする風でもなく、クロヴィスは淡々とした口調で先を続けた。
「もちろん連れ戻されたそうだよ。ただ、見つかったのは二年後。
二年あれば、子がいてもおかしくはない。その子をだれかに託したかもしれないね。そしてもちろん、子が子を産んでいてもなにもおかしいことはない」
「…………その、駆け落ちをされた方は」
「母も話を聞いただけらしくてね。当人たちは、とうに亡くなったそうだよ。
もしその彼女が本当にそんな縁者だったとしたら、彼女は私の又従兄妹かな? どうだろうか、ねぇジョエル」
最後は実に楽しげに頬を緩ませたクロヴィスであったが、ジョエルにとってはちっともまったく嬉しくもなんともない。
――もしかして、自分は最上級に見出してはならない人物に遭遇し、最も報告してはならない人物にその存在を認知させてしまったのではなかろうか。いや、しかし――
ジョエルはそのあとしばらく自己嫌悪に頭を抱えていた。
放り出したままだった報告書は、いつの間にかクロヴィスの机に載っていた。
「ところであの二人の件なのだけれど」
「…………」
「不用心な行動をしてくれたおかげでね。尻尾が出たよ。今、ハラルドが追っている。
例の彼も本業が落ち着いてきてようやく手すきになってくれたみたいだから、協力してくれるらしいしね。そろそろ鬼ごっこも終わるかな」
「それはよろしいことですね…………」
「そろそろ開き直って仕事してよ。留守にしていた間に、ほら。こんなに書類がたまってしま」
「だれのせいですかあなたですよ」