目的を達するためならば、果ての結果がどうなろうと知ったことじゃない。

 そんな志を持つことは愚かだと、人は哂うだろうか。

 哂いたければ哂うがいい。どうせその時にはもう、俺にその哂声は届かない。
 届くとするなら、俺の唯一の家族の怨嗟くらいか。それならば届いてほしいと願う。

 どうしてこんなことになった? あのとき、なぜ、あんなものに踏み込んでしまった?
 俺はこれでも後悔している。
 でもそれは、きっと『今』のための必然で、未来のために必要だった。今はそう考えている。

 なぁ、――。
 俺はべつに、投げやりになっているわけじゃない。
 この世界に存在しない俺が自分を見失うのは、言ってしまえば当たり前で、ほんの些細なことだから。

 意志だけは、最後の刹那まで、この魂から放しはしない。
 渡すつもりは毛頭ない。今は、まだ。



 俺は運命に身を委ねたんじゃない。

 自分の意志で虚無へと進む。




紡がれゆくもの 2






「なにが『申し訳ありませんがお引き取りください』だ」

 呪詛のような文句が紡がれる。
 フォークに小突かれころころとトマトが逃げ惑う。さらに転がされ、赤い球体はまた一回転した。

「身分証なんてものを持って出歩けるか。そもそも申請できるか。そんなことをした時点で外に出られなくなるだろうが」

 背後に負のオーラを立ちのぼらせ、メルヴィーナは転がるトマトを睨みつける。
 昼食時の飲食店は客がひしめき、合席を求める者も見受けられたが、一脚空いた彼らのテーブルに近づこうとする者はいなかった。それを幸いとして堂々とくつろいでいるのはリィンだけで、アドルは居心地悪そうにちらちらと視線をめぐらせていた。

「特に嫌い? トマト」

 話しかけられたのが自分だということに、数呼吸間、アドルは気づかなかった。
 そういう意識が働かなかった、というのが理由だろう。これまで個人として話しかけられたことは多くなく、彼の方から会話を切り出すこともほとんどなかったのだから。
 リィンの視線が向いているのを感じてようやく、「あぁ……」と小さく呻く。

「メルは生野菜全般ダメだけど……トマトはどんなに味を隠してもダメかなー」
「好き嫌い多そうだものねぇ、メルちゃん」
「いやいやきみも人のこと言えないってばさ」

 リィンと行動を共にして以来、姉の偏食に辟易していたアドルは更なる強敵に頭を悩ませていた。もったいないから、と元々姉が手をつけなかったものを片付けていたものが、倍以上に増えたのだ。
 姉の野菜と、リィンの肉。
 後者はかけらが混ざっているだけで回されてくる。今やアドルの食事量は二人分だ。今回も料理が運ばれてきて早々、彼女はランチメニューのメインの皿を寄せてよこしてきた。

「失礼ねー。私のは好き嫌いではないわよ。ただの食わず嫌い。
と見せかけておいて、実はアレルギーで動物性のものを食べると大変なことになっちゃう体質」
「待って。お菓子って卵とかミルクとかバターとか、大量混入されてるよ?! あれってめちゃくちゃ動物性食品!」
「それは別ー」
「……やけに都合のいいアレルギーなことですね」

 いつの間に頼んでいたのだろう、イチゴの乗ったケーキをぱくりと口に入れるのを横目に、アドルはいろいろな意味で生ぬるく笑った。

「で、メルちゃんはいったいなにを考えて魔術師協会に殴りこんだの」
「きみってすごい今さらなタイミングで訊くよね……いや、殴りこんでないしね」

 宣言通り魔術師協会の本部に足を向けた彼らは……それからあまり時間を置かず、協会本部とは街の反対側に位置する大通りに身を落ち着かせていた。
 そう。逃げるように、人の波に紛れ込んで。

「あれじゃあ身分証を提示できなくて、なおかつ他国の人間だってことを教えに行ったようなものよねぇ。今ごろ不法入国者として通報されていたりして」
「……」
「というか国際機関なんだから通報されて当たり前なのだけど。あぁ、それでなにがしたかったのだったっけ」
「…………魔術師。味方に、欲しかったんだよね」

 一瞬、リィンが微妙に目元を険しくした。

「それなら私は要らなくないかしら」
「要るっ! 違う方面で要るから!」

 あ、そう。それは残念。言ってリィンがにこやかに笑う。
 ここで「要らない」などと口走ろうものなら、速やかに去っていきそうなのは想像に難くない。そんな事態に陥ったら、姉の烈火の怒りの矛先が向いてくるのは明白である。だからアドルは必死に首を横に振って即答した。

「はあ。で、それはなにを求めて?」
「なにを……って、魔族と渡り合おうと思ったら、欲しいでしょ。魔術師」
「あの子も魔族だったけれど」

 あの子、と。
 さらりとリィンが口にした「もの」が脳裏に浮かび、アドルは絶句する。

 『家族にもういちど会いたい』
 その思いだけを糧に、変異を受け入れた少女。正しい形では決して得られない望みを抱えたまま、本懐を遂げられなくなった、魔族になろうとした人間――

「……まあそれはいいとして。魔術師を雇用したくて、協会本部なんてところに突撃したの」

 コーヒーをスプーンでくるくると回し、物足りなかったのだろう。さらにミルクを注ぎ足したリィンはカップをもう一度くるりとかき混ぜて。メルヴィーナを、そして次にひたとアドルを見据え、言い放った。取ってつけたような真顔で。


「あなたたちって子は、なんていう考えなしのおばかさんなのかしら」


 それだけはしっかり聞こえたのだろう。メルヴィーナがナイフを握りしめる気配がした。

「今、メル挑発するのやめてほしいなー、なんて……」
「協会は身分証も持っていない、あるいは見せられない相手を依頼主と認めない。これはさっき思い知ったでしょうけれど。
よほどの事件でない限り、市民階層個人が持ち込む依頼は受けないわよ」
「…………あー……そうなんだ……」
「そう。そういうものを求めるのなら傭兵にでも依頼なさい。ここにもごろごろ転がっているから。それに意外といるわよー、傭兵やっている協会未所属の魔術使い。
ピンからキリまでよりどりみどり、取るものしっかり取っていく代わりに優秀なのは仕事が早くておすすめね」
「きみと違って?」
「そうそう。私と違って正確で迅速」

 改めて周囲を見渡すと、なるほど、いかにも荒事慣れしていそうな男たちがちらほらいるのが見受けられた。この中の誰かから傭兵の魔術使いの情報を得られれば、大きな一歩になる気がした。
 それにしてもリィンが投げ飛ばしていたというのは、本当にこんな感じの者たちなのか――姉から聞いただけのアドルは、その話をいまいち信用していない。

「その方法を取った場合、わざわざ王都にまで来て不法入国をひけらかした意味ないけれどねー。あなたたちと会った街。あっちの方が傭兵の出入りは多かったから。あぁ、でも不法入国に変わりはないのか」
「……実際、捕まったりするもの?」
「ただの不法入国程度なら、このあと他国に出るとき検閲で引っかからない限り、ばれないと思うわよ。たぶん。自国から出る必要のない一般人は、そもそも身分証を持つ必要ないし」
「あのね、お願いだからそれ以上連呼しないでほしいなその単語!」

 さっきから不法入国不法入国という聞こえの悪い言葉の連発に、とうとうアドルが噛みついた。
 飲食店内の賑わしさにかき消されるのかもしれないが、誰に聞かれているのかわからないのだ。しかも自分たちは「ただの」不法入国ではなく、追われている身だ。敵地のただ中にのこのこと入り込んできた自覚はある。これ以上リスクを負うのは避けたかった。

「……そういえばきみは? イヴァンの人間?」
「国籍的にどうだかわからないけれど、まぁ……場所的には」

 いまいちはっきりしない言い方が気にはなったが、不法入国は自分たちだけとわかる。ほっとしたような、しかしなぜだか釈然としないもやもやした感じがアドルの胸に落ちた。

「傭兵のことはあとで提案してみるよ。今のメル、聞く耳持ってないからね」

 未だサラダにぶつぶつと文句を言っている姉を苦笑い、アドルはすっかり冷めてしまった二皿目のメイン料理にナイフを入れた。
 半分も食べ進まないうちに、またもや視線を感じてアドルは顔を上げる。どこか呆れを含んだ紫水晶の瞳が、まじまじと彼を見つめていた。

「本当に持っていないのね」
「え?」
「決定権」

 その一言は、思いのほかアドルの心に響くことなく、ゆっくりと沈んで彼の胸の内に下りる。
 むしろ、人から指摘を受けるほどになっていることは喜ばしいことだった。だから彼は、彼の反応を試しているようなリィンに、軽く笑いを飛ばすことができたのだ。

「そう思う?」
「思うというか、見える?」

 なにをどこまで探りたいのか、アドルにはリィンの真意は見えない。

 踏み込まれすぎてはならない。
 そんな警告は、あった。出会った時から。
 けれどもつい「本音」の欠片を口にしてしまったのは、彼女の瞳に好奇心を感じなかったからかもしれない。


「……どこへ行くのか。なにを目的として行動するのか。
決めるのは全部メルであるべきだから。それだけ。俺にはそんな権利ないからね」


 リィンは彼の言葉を噛みしめるようにまぶたを閉じた。
 そして静かな声が、ゆるりと紡ぐ。あらかじめ用意されていたかのように淀みなく。


「確かにそれは、あなたにとって重きを置くべきことかもしれないわね。
けれども、見えないそのときばかりに囚われすぎてしまっては、折角ここにあるあなたの今は……どこへ行ってしまうのかしら。
あなたが『そこ』に存在する意味は、なに?

ねぇアドル。それも見過ごしてはならない、とても大事なことではないの?」


 そのあとの間は長かった。
 互いになにを言うこともできず――いや、アドルの側が言を継ぐことができずに、ただ沈黙のみが過ぎた。ウエイトレスの注文の復唱が、他愛無い世間話が、遠い。
 やっとの思いで口にした問いを後悔しても遅かった。だがこれ以外の言葉も見つからない。


「きみは…………どこまで知ってるの」


 彼女は、さあね、とだけ答えると、一片の隙のない笑みを浮かべてみせた。



「こちらの席は空いてますかね。
いやぁ、こんなに混んでいるとは思わなかったもので……ご一緒させてもらえると嬉しいんですが」


 場違いに軽い調子の声が降りかかる。
 胡乱そうにそちらを振り向いたメルヴィーナと、なんとか顔を上げたアドルは――揃って目を剥き、音を立てて腰を浮かせた。





   2012.3.30