私のことを強いだなんて、いったいだれが決めたのかしら。
ひとの強さは何によって決まるというの。
力? 心? それとも意志?
どれも私は持っていない。
それなのに、皆、私を強いというの。
――あぁ、そうだ。
あなただけは最初から、私を「弱い」と言ってくれたわね。
紡がれゆくもの 7
進み、間違うことを恐れるな。間違いの先にこそ道は広がっている。
王立学院の入学式で、学院長はそれだけを新入生への激励とした。
どうやら自分が万能だとでも思っていたらしい養い親だった人が、これまで何を踏み出せずにいたのか、ラトには知る由もない。
明らかなのは、彼女がその先の何かを恐れているということ。
そして彼女が「恐れ」という感覚を持っているということ。
恐れを知らない生物など存在しない。
いるとしても、生存競争に勝ち残っていくことはできない。進化の過程で淘汰されるはずの特質を持った生物のはずだ。
だから彼女がそれを持っていることは当たり前であるはずなのだが、事実はラトにそれなりの衝撃をもたらした。
そして同時に、安堵を得た。彼女は間違いなく「人間」なのだと。
迫り始めた夕闇の中、少年は通い慣れた人通りの少ない裏路地の片隅で足を止める。
「……あ」
ほとんど声にならない呟きだった。
養い親だった彼女に訊ねたかったことがもう一つあったのを思い出したのだ。しかし、そのためだけに戻る気にはなれなかった。
機会は、いくらでもある。
彼女は自発的に逃げ出すつもりはないようであったし、ラトの方も明日また来るように言われている。
そう思い直して歩みを早めた。
数日前、卒業論文が期限に間に合わないと泣きついてきた友人たちの面倒を見る時間を、少しでも長くとるために。
メルヴィーナが案内された部屋は、今まで彼女が押し込められていたものと変わり映えのない客間のようだった。
芳しいコーヒーの香りが漂う部屋に一日ぶりの弟の姿を認め、肩の力がほんの少し緩まる。
「メル、掴みかかったりしなかった?」
「するか馬鹿」
緊張感なく軽口をとばしてきた弟の頭をはたいてから、メルヴィーナはじろとソファに腰かけている人物に白い目を向ける。
「なにかなメルちゃん? そんな怖い顔しちゃって」
「いや。おまえのそのマイペースさが羨ましいようで、やはり腹立たしいと思っただけだ」
部屋に充満する香りの根源であるティーカップを傾けるリィンの仕草は優雅そのもので、雰囲気には合っている。が、状況的にはやはり緊張感に欠けている。
真面目に「捕まった」という事実を捉えているのが自分だけのような気がして、メルヴィーナはどっと疲れを感じ、片手で頭を抱えた。
「…………それで、何なんだ、そこの子どもは」
リィンから少し離れた椅子に少年が座っていた。手にしたカップの中にはリィンのものと同じであろう黒い液体が湛えられている。
街中の食堂で自分たちを捕らえにかかった人物が当たり前のように混ざっている状況に、メルヴィーナの口から尾の長い吐息が漏れた。
「見張り」
面倒くさそうなオーラを隠そうともせずに、少年本人が短く答える。
「アンタらに、今後の身の振り方を決めてもらいたいって。空気だとでも思って。おれは別にどういう方向の決定しようとなんとも思わないし、口出さないから」
「……生意気な口を利く子どもだな」
「一応管理してる側にいるし。どういう口の利き方しようと問題ないと思うけど。おばさん」
すぐ後ろで吹き出すのを堪える気配がした。
思いきり打ち込んだ肘が丁度よく当たったらしい。潰れたうめき声が上がった。
わなわなと全身を痙攣させ、メルヴィーナはつまらなそうに指遊びしている少年を睨みつける。
おばさん、そう呼ばれるのはなにも初めてではない。
これまで立ち寄った町々で、いたずら盛りの子どもたちにすれ違いざまからかわれることはあった。それなりに落ち込みはしたものの、許せる範囲内だ。
が、今回の場合は明らかに悪意がこもっている。
しかも充分に善悪の区別のつきそうな10代半ばの年頃だ。
「本当にっ、口の利き方がなってない……っ」
「子ども子どもうるっさいからだよ」
「子どもに子どもと言って何が悪い」
「悪いとは言わない。ただ、そうやって相手の外見だけで物事を判断してたらそのうち馬鹿見るよ。それとも、もう見てる?」
あくまで淡白な少年の態度に、メルヴィーナが沸点に達しかけた、まさにそのとき。
「ラトくん」
静かな、しかし強制力を持った声が少年の名を呼ぶ。
「喧嘩を売らない」
まぶたを閉じ、リィンが勿体ぶった口ぶりで少年を諌めた。
そして指をかけていたカップを口に運び、一息ついた後にこう言った。
「そういうものは、最大限に効力を発揮するここぞという時のために取っておきなさい」
なにか違うだろう。
姉弟がそんな言葉を心中で呟いたのは、ほとんど同時だった。
少年も同意見だったらしい。リィンへ向ける表情が白けている。
「前から疑問だったんだけど。なんでそう、指摘するポイントずれてんの。おかげでおれの一般常識がおかしいことにされてんだけど」
「あぁ、やっぱり?」
「……ちょっと黙っててくれる。
それで、今後の話。どうしたいのアンタらは」
話を脱線させたのはラトくんの方なのに、と小声で呟くリィンをうるさそうに見やりながら、少年は再度、「議題」を投げかける。
それは確かに三人が揃った今、最も優先して話し合いたい事項であり、話し合うべきことだった。
こうして集められたということは、言っていた通りクロヴィスにはこちらの意向を汲んでくれる気があるのだろう。だとすれば、メルヴィーナの気持ちは決まっている。
「ここから出たい」
「だから……それが前提としてあると仮定して、その先どうするつもりなのかの話」
「当初の目的通りだ。紅目の魔族を探す」
クロヴィスは言っていた。
『平穏に、人並みの幸せの中で生きていてほしかった』
そんなものは望んでいない。
ただ、心の芯の部分に燻りつづける感情のままに生き、動く。
それが今の自分にできる全てだと、執着せずにはいられないものだと、メルヴィーナは思っている。
アドルも口を開いた。俺も、と。
「賛成。今更、はいやめます、大人しく領地に戻るかどこかに消えます、なんて言ったところで信用される気もしないしね。もちろんそんな気もない」
当然のように、場の視線がリィンへと向かう。
「いいの? なんだか話し合いじゃなくて、ただの発表会になっていない?」
「いんじゃないの。総意になれば」
「まぁ、私はメルちゃんたちの意見に流されるけれどね。ただ意見を聞いてもらえるなら、速やかにここから離れたいわね。居心地悪くて」
「なに。アンタ他になんかしでかしてんの?」
「してないわよー。私としては、ラトくんの方こそ心配になっちゃう。なにか学校で問題起こしてここで働かされているんじゃないのかなんて」
「問題起こした学生がこんな場所で処分受けるかよ。
卒業後の就職先。どうせ暇だろって無理やり呼び出されてるだけ。暇でもねぇってのに」
「それだけ期待されているのじゃない?」
「……ちょっと、いいかなぁ……」
遠慮がちなアドルの声が、会話の間に割って入った。
「さっきから、すごい気になってるんだけど。……どういった関係で?」
メルヴィーナも同じ思いだった。
二人の様子から、かなり親しい関係にあるというのは見て取れる。が、関係が想像できない。
友人とは考えにくい。
外見があまりにも似ていないので、親戚とも思えない。
しかしリィンは呆気なく、信じられない答えを口にしたのだ。
「私の息子」
間。
そしてメルヴィーナの、アドルの口から同時に、「は?」という裏返った声が出る。
息子ということは、リィンは親ということで、この少年が彼女の子どもということだろうか。そして、この二人は親子ということなのか。
リィンと少年の間を、恐ろしいものを見る目が何度も往復する。
「だから、血、繋がってねぇし」
忌々しげに少年が吐き捨てる。
その横でリィンは一人、満足そうに笑みを浮かべていた。