「――もう結構です。
次に、彼女らがイヴァンに不法侵入したルートですが。貴女はご存じではないのですか?」
「さあ?」
初めから変わることなく悪びれない回答に、閉口せざるを得ない。
ジョエルが心中で、自分にこの役目をあてがった上官に悪態をつくのは既に何度目だろうか。
「私、滅多に国外になんて出ないし。その辺の情報はさっぱり」
「では貴女の国籍は我が国ということでよろしいのですか」
「籍なんて登録していないはずだけれどねぇ。そもそも、都市部はともかく郊外になればなるほど戸籍の管理なんて甘くなる一方よ? 徹底的な国民や出入国管理をしたいのなら、まずその管理体制を見直す必要があると思うのだけれど、どうなのかしら」
「……ご進言、痛み入ります。
ところで先ほど『滅多に』と言われましたが。出国されたことはあるのですね? その際はどうやって検問を通られたのですか」
「行き帰り共に検問の方はお休み中だったから。あ、これはどうぞ自由に出入国してくださいということなのかな、と思って遠慮なく」
そんなわけがないだろうと考えつつ、しかし言及したところで今度は検問所の人員教育がどうのと言われるだけのような気がして、言葉を飲み込む。こめかみのあたりが痙攣するのを覚え、軽く咳払いをして心を奮い立たせた。
これ以上、彼女にペースを与えてはならない。
再度仕切り直そうとしたところで、上官とよく似た紫の瞳を持つ女は、なにやら楽しげな笑みを深くする。
「ねえ、これってもしかして事情聴取?」
「それ以外の何かだと思われているのでしたらもう一度最初からやり直しますが」
「じゃあそうしてみましょうか」
彼が自分の手に負えないと判断を下したのは、それからも似たような問答を十数回繰り返してからだった。
紡がれゆくもの 6
「なにやってんの」
廊下に座り込んで頭を抱える、というわかりやすく落ち込んでいる様子のジョエルの上に、気遣いとは無縁の響きを内包する声が落とされる。
痛々しい者を見る目。
その視線はすぐ近くの扉に移り、瞬時に、あぁ、と納得の感嘆が漏れた。
「聴取。終わったの」
「……きみはあれだな。目上の者に対する云々の前に、年長者に対しての態度を改めるべきだと何度言わせれば気が済むのか」
「それ、おれいつまで言われんの」
「きみの振る舞いが改善されるまでだ」
「じゃ頑張っておれが死ぬまで言い続けてて」
ジョエルから興味をなくしたらしい少年はそっぽを向くと、ジョエルを見もせずに「入っていい?」と尋ねる。
少年とのやり取りに妙な既視感を覚え、ジョエルは眩暈に傾きそうになる頭をどうにか持ちこたえようとした。非常に最近、似たような体験をした気がする。
そしてジョエルは思い当たった。
ついさっきだ。
外見とテンションの標準値の高低差はあるものの、先ほどまで相対していた女とこの少年は、同じ疲労感をジョエルに与えるのだ。
「……血の繋がりを感じるよ」
扉にかけようとした手が、ジョエルの言葉にぴたりと止まり。
「一滴たりとも繋がってねぇし」
少年は、とてつもなく嫌そうな顔でアレはただの養い親と吐き捨てた。
ジョエルが「……親?」という疑問を投げかける前に、少年はノックもせずに扉の先へと消えてしまう。
同じ言葉を口に出して自問し、頭をひねっているところに、彼は通りがかったハラルドからも「何してる」と不審の目を向けられたのだった。
数年ぶりに会った養い親は少しもその外見を変えていなかった。
さらに言うべきなら、初めて出会った約十年前から、ずっと。
そういうものだと割り切ってしまえればよかった。
だが、ここ数年で更に培われた探究心はそれを良しとしない。思考の停止は前進の妨げにしかならない。
「訊きたいことが、あるんだよ」
「ええ。言っていたわね」
おそらく先程までジョエルをからかって遊んでいただろうリィンは、鉄色の髪の少年の姿を認めてやわらかく微笑んだ。
全身から滲み出る余裕が苛立たしくて、無意識に口の中で舌打ちをつく。
「手紙」
少年が忌々しげに眉を顰めた。
「おれが出てった時に、セレンに持たせた手紙。そのうち帰って来いって意味じゃなかったのかよ。
なのに、帰ったら家ないって、なに。
カイルに聞いたらおれが学校入って半年しないうちにいなくなってたって、どういうこと。
しかもそんなこと覚えてないって顔でおれの目の前にのこのこ現れやがって――ふざけるのも大概にしろよ」
素っ気なくはあるが、その中には燻りつづける炎が一瞬にして燃え上がったような激情を秘めていた。少年をよく理解する者でなければそうは思わないだろう、微細な変化。
決して感情が薄いわけではないのだ。ただ、表現することが苦手になってしまっただけで。
それを誰よりも知っているであろうリィンは、これもまた本当にそう思っているのかわかりにくい表情で、それでも少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「――うん。ごめんね?」
「謝れなんて言ってないんだけど」
「それでも。ごめん」
「だから。そんな謝罪なんて聞きたくないって言ってる」
容赦の欠片もない刺々しい追及に、これ以上はぐらかせないと観念したのだろうか。リィンはまっすぐに睨みつけてくる少年から逃れるように視線を外し、ううともああともつかない長い息をついた。
しばしの無音。そしてようやく彼女は話し始める。
「帰ってくるまでの間くらい、我慢できるかと思っていたのだけどね。できなかった」
変わらないはずの笑顔。口調。
茶化すような調子のその声は、しかし白々しくは聞こえない。青紫の瞳を閉じ、彼女は続ける。
「いるのが当たり前――そんな存在になっていたものが急にいなくなる。どんな気持ちになるか、ラトくんにはわかるでしょう?
ひとりは慣れていても、ひとり取り残されるのは耐えられない。
そこにいたはずのひとの匂いの残る場所に残されるのは、特に。
だから、思い出が風化して記憶に変わるまで遠ざかっていたかった。今までずっとそうしてきた」
ずっと。
かつて彼女の養い子であった少年――ラトは、その言葉に計り知れない重みを感じた。
わかるのは、それが彼女の背負うものの重みなのだということだけだった。
「あいつら、いるじゃん」
自分が生活を共にする前から彼女に寄り添っていた二人の青年。
彼らまでが傍を離れてしまったとは、ラトには到底思えなかった。彼女は一人ではないはずだ。それだけは断言できた。そうでなければ自分はこの養い親を一人置き去りにしてしまった――そんな罪悪感を負うことになってしまう。
「セレンとファルは別。私の一部のようなものだから」
「それ聞いたらあいつらすごい喜ぶと思うけど。特にセレン。でもそういう話じゃないから。
……あいつらどこにいんの」
「ついさっきまで一緒にいたわよ」
「あ、そう」
少なくとも一人置き去りにした事実はないことに安堵し、一瞬申し訳なさに傾きかけたラトの感情はまた、苛立ちに覆われる。
「アンタ、言ってることとやってること、矛盾してる。
自分から一人になろうとしてるようなもんじゃん。
一人になりたくないなら、あんなところに住まないでラムロットに落ち着けばいい。皆言ってた。
そんでもって、なんで遠ざかんの。自分から来ればいい。黙って待ってるだけじゃ、誰もなにもしてくれない。おれにそう教えといて自分はできないのかよ」
「……そうね」
「そうねじゃねぇよ。
自分にできないこと、人に求めるなよ」
この人はこんな人間だっただろうかとラトは思う。
元々大人げない言動をすることは多かったが、このように弱点を匂わせることはなかったはずだ。
彼女はいつもにこやかに理不尽で、横暴で。それ以上に優しくて。
それ以外の顔をラトは知らない。
そんな心境を見透かすかのように。
「ねぇラトくん。
私のこと、万能の人間だなんて思っていない?」
苦笑交じりの問いかけを、ラトは笑い飛ばすことができなかった。
万能な人間などこの世界にいない。いるとすれば、それは「神」に等しい。
しかし、その理を、この養い親はやすやすと壊してしまうのではないか――そんなことを心のどこかで思っていたかもしれなかったから。
子どもにとっての親という存在は、万能。
だからこそ無上の信頼を抱く。守ってくれるとそう、一片の疑いもなく。
六年間、たしかに自分を育ててくれたリィンに対してそんな意識を持っていないといえば嘘になるから。
「私はラトくんが考えるほどに強くない。向き合わなくてはいけないことに背を向けて、恐れて、都合の悪いことから逃げてばかり。
私は自分がそんな弱さを持っていることを知っている。
逃げてばかりのそんな生き方は結局自身に空虚しか与えないと知っているから、そんな風に生きてほしくなくて、あなたにはそう言った。道を示すなんておこがましいとは思うけれどね。
…………あの二人の無謀な前向きさは、私には眩しかった」
突然話題を転換したのは、もうこれ以上自分の弱さを晒したくないという表れだろうか。
会話の繋がりは随分とおかしいものだったが、ラトは触れなかった。
「そう。一人でいるのが嫌だから見つけたただの暇つぶしの道連れじゃないってわけだ」
無謀な二人という表現はセレンとファルに似合わない。
ややこしい背景を持つ姉弟の方を指したのだと判断したラトは、一瞬遅れて首を横に振るリィンの雰囲気が変わったのに気づく。
彼女の醸し出すやわらかな空気はもう、そこにない。
あるのはただ冷えきった横顔だけ。
「そういうわけじゃないわ。
私は利用しているのよ。私が、長い間出せずにいた一歩を踏み出すために」