母はいつも、窓辺から遠くを見つめていた。
それ以外の姿はあまり記憶に残っていない。
優しくはあったが、空虚に憑りつかれていた母。
話しかけても上の空であることの多かった母の声を、メルヴィーナはもう思い出すことができない。
それゆえだろうか。
『なにも望んではいけなかった』
ぽつりと紡がれた平坦なその言葉だけが、鮮烈に焼きついて離れないのは。
紡がれゆくもの 5
窓の外には花壇が一面広がっている。
外から一見した場所とは異なる区画なのだろうか。色鮮やかな花は一輪たりとも見当たらない。
支配するのは、白。
たおやかな蕾をほころばせる、可憐な小花――
それを美しいと感じることすら似つかわしくないと、メルヴィーナは庭の景色から目を逸らす。その先で、半刻前に小間使いが淹れていった茶が手つかずのまま、水面に天井を映していた。
ドアが二回、軽い音を立てた。
なにも応えないでいたところ、もう一度同じ音が響く。今度は少しの間を置いてドアが開かれた。
「返事くらいはしてもらえるとありがたいのだけれど」
ソファに深く埋まったまま訪問者を横目で確認し、彼女はすいと視線を逸らす。
「そういうところは全然変わらないのだね。
――久しぶり。メルヴィーナ」
漆黒の髪の男が紫の瞳を苦々しげに細めて微笑む。
それを素直に懐かしいと思えるのは、今の自分が想像以上に冷静だからなのだろうか。メルヴィーナは冷めた面持ちでただ一言、「そうだな」とだけ答えた。
メルヴィーナたちが連れて行かれたのは、王城を最深部に戴く街の中で、最も王に近い区画――閑静な邸宅の立ち並ぶ貴族街の一角だった。
その中でもとりわけ「大豪邸」と称してよさそうな邸宅の門前に近づいたとき、ふとリィンが「……ここ、だれの家」と問いを口にした。彼女は得られた答えになんともいえない複雑な表情になり、それ以降、少なくともメルヴィーナの知る限りではまったく言葉を発することはなかった。
というのも、邸内に入ってから三人は別々の場所に通されたからだ。
共謀してなにをしでかすかわからない、という至極当たり前の措置なのだが、少年がリィンを指して「こいつほっとくと家破壊されでもするかも」という危険発言をしたからという理由もあるのかもしれない。
「不用心だな」
供の一人も連れてこなかったことを、メルヴィーナは表情を動かさずに指摘する。
「おや。私の心配をしてくれているのかな」
「…………」
「大丈夫だよ。きみが不用意な真似さえしなければ。もっとも、そんなことはできないだろう?
武器もない。弟君の居場所もわからない。
それに大前提として、私を簡単にねじ伏せられると思われては困る」
これでもそれなりに、腕に覚えはあるつもりなのだけど。
それが誇張でもなんでもないことは心得ている。しかし『お前にはなにもできないのだ』と嘲笑われているように思えて、彼女はまた口を噤む。
「怒らせてしまったかな?」
「怒ってはいない」
「それはよかった」
ではなにかという追及はせず、この邸宅の主――正しく言うのであれば主の一族であるクロヴィスは、少し離れた椅子に腰を落ち着けた。
「なにも入っていないよ」
「そうだろうな」
すげない返答に、クロヴィスが軽く肩を竦める。
口をつけられた様子のないティーカップ。
メルヴィーナの「敵視」を如実に表しているように見えたのだろう。それは間違いではない。しかし実際はただ単に、そこまで手を伸ばす気も失せるほど無気力に苛まれていたからだ。
「そのような卑劣な真似をする人間ではないことくらい知っている」
「お褒めにいただき、どうも」
「アドルは」
「心配には及ばない。きみよりよほど開き直っていたからね。
彼は、ずいぶんと強くなったようだ。己の在り様をしっかりと据えているように見えた。少々危うさを感じるところもあったけれどね」
「私はそうは思わないが」
「近くに居続けることで見えなくなるものは少なくないと思うよ。きみたちは幼少から常に共にあったんだ。尚更ね」
「……説教でもしに来たのか」
メルヴィーナはうんざりと吐き捨てる。
落ち着き払った調子のこの男のことが、メルヴィーナは苦手でならなかった。
こちらがぶつかっていってもかわされるばかりで、そのうち、熱くなっているのは自分だけと気づき、真面目な受け答えをするのが馬鹿らしくなるのだ。
だからメルヴィーナの方もある程度の落ち着きをもって対することができるのだが、彼女はそのことには気づいていない。
「まさか。私はまだまだ他人に説教できるほどの人間ではないからね。ああ、されたいというのなら別だよ?」
「御免こうむる」
「それは残念。では、代わりに伝達事項でも聞くかい?」
クロヴィスは立ち上がると、いささか真面目な面持ちでメルヴィーナを見下ろした。口は微笑の形を作ってはいるものの、もはや目は笑っていない。
その視線を、メルヴィーナは真っ直ぐに受け止めた。
「きみたちの処遇について伝えておこう。
本来なら城内に軟禁して交渉材料にでもして利用価値がなくなったところで強制送還、が妥当なところなのだろうけど。
上層部に報告するつもりはないということが、ひとつ」
「…………なぜ」
「知りたい?」
五年。
その年月を打ち消してしまおうというほど鮮やかに、クロヴィスは彼女の記憶に残るままの穏やかさで笑いかける。
年月は刻まれた。
後戻りはできない。変わってしまったものは戻らない。
けれども、変わらないものも確かに存在するのだとでもいうようで。そんなものは要らないと背を向けることができないのはなぜなのか、彼女はわからない。
「ねえ、メルヴィーナ。
私はね。きみたちには平穏に、人並みの幸せの中で生きていてほしかった」
自分には縁のない言葉だとメルヴィーナは思った。
掴もうと思えばどこかにあったのかもしれない。諦めて、忘れて、未来を求めてしまえば、もしかしたら得ることができたかもしれないもの。
人並みの幸せ。
そう、称されるようなものを夢見た頃は確かにあった。
それが夢でしかないのだと思い知らされたのはいつだったろう。
今、その言葉はただの単語としてしか響かない。手に入るとは思わない。望んでもいない。
ただの、単語。
「これまでのきみたちが知っていたのは、父親の作った檻の中と、私たちの手による籠の中だけだ。
けれども今は翼を得て、檻も籠も壊して飛び出した。
そこにきみたちの幸せがあって、なにもかもを捨てて自由に生きていこうというつもりだったのなら、私は見て見ぬふりをしたよ。
今からでもいい。そうできる力は私の手の中にある」
「…………」
「母君の件は……私たちの不手際もあった。監視と保護は、意味は違えど行動の結果は同じ。きみたちの牙は、やすやすと侵入を許してしまった私たちに向けてもよいはずだよ。
……魔族への復讐なんて非現実的だ。それでもしきみたちが命を失ったら何になる? 母君が嘆かれるだけだとは思わないか」
「…………うるさい」
聞きたくない。
なにがわかる。
結局お前は説教をするのではないか。
思わず続けそうになった罵声を飲み込んで、彼女はクロヴィスを見上げた。
昏い、炎を宿した瞳で。
「母はもう、嘆きたくても嘆くことができない。
恨みを晴らしたくても晴らせない。
夫であった男に捨てられて辺境の地に追いやられ、その地が侵略され援護のひとつも寄こされず、抵抗らしい抵抗もできぬまま捕虜になって。それだけでもう十分すぎたというのに。
なぜ――殺される必要があった。なかったはずだ」
吐き出してしまいたかった。全部。腹のうちに底が抜けそうなくらい溜まりきったものを、すべて。
「お前は赦されたいだけだ。自分たちの不手際を認めて、謝罪して、安心したいだけだ。
私たちの感情を置き去りにして、勝手に抱いた罪の意識から逃げたいだけだ。
そんなことで私は止まらない。
立ち止まることは許されない。
私が立ち止まれば、母の、想いは」
――誰にも顧みられることなく消えてしまう。
黙っていたクロヴィスの紫の瞳が、そうとはわからないほど僅かに細められる。
その瞳に圧倒され、メルヴィーナは息をのんだ。
人を従わせることに慣れた者にのみ許される威圧。彼は静かにメルヴィーナの名を呼び、問いかけた。
「きみが憎んでいるのは母君の命を奪った魔族? 母君を捨てたエレンシア王?
それとも――母君?」
メルヴィーナの頭が思考を止めた。
クロヴィスが最後の人物を口にした理由が理解できない。理解できず、不可解なものを見る目で、彼女は自分を見下ろす男を見つめ返す。
五年前、占領軍の指揮官としてメルヴィーナの前に立った男の問いは、彼女の中で燻り――しかし長らくの間答えを出すことはできなかった。