店内に入ってきた人物に向けて、ハラルドはこれまで纏わせていた軽い雰囲気を払拭させる鋭さをはらむ声で、遅かったなと呼びかけた。

 幼さの残る少年だった。
 第一印象として人に与えるのは、無愛想。
 ハラルドの言動からしても、この少年が彼の言っていた「急ごしらえの相棒」なのだろう。軍人であるハラルドが相棒と称するのだから、この少年も軍に準じているのだろうが……学生のような出で立ちと頼りなさそうな体格は、軍人という言葉からかけ離れているように思える。

「報告に行って戻ってくれば、これくらいの時間にはなる」
「どこまでもかわいくないよなお前……この三人、逃がすなよ。逃がしたらクロヴィスに笑われて、ジョエルの小言攻撃を食らう。お前じゃなくて俺が」

 少年は疎ましそうに鼻を笑わせただけだった。
 だが姉弟からハラルドの隣で暢気に茶をすすっているリィンへと視線を移した刹那。ふと、顔色を変えた。今見たものを視覚記憶から消そうとでもするように目頭を揉み……もう一度恐々と確認する。

「……………………」

 勘定を頼む客の声がやけに遠く聞こえる。
 しばらくの沈黙の末、苦虫を噛み潰したような表情で少年が呟いた。

「アンタかよ、おい」




紡がれゆくもの 4






 機嫌の悪さを隠そうともせず彼らのテーブル前に進んできた少年は、怪訝な顔をするハラルドには目もくれず。

「なにそのメガネ」

 毒づいた。

「最近手元が見えづらくなって。遠視かしらね?」
「老眼の間違いだろ。似合ってないし」
「えぇー買った時には知的に見えるって好評だったのだけれど。店員さんに」

 それはかなりの割合でリップサービスが入っているに違いない。
 直球で似合わないとダメ出しをされ、彼女はあっさりと眼鏡を外す。変装の意味は既になくなっているからという理由もあるだろう。

「ところでこんなところでなにをしているのかしらねぇ。
なぁに? 問題を起こしすぎで停学処分中なんて言わないでちょうだい?」
「んな処分受けた時点で特待取り消しだっての。自分じゃ授業料払えねぇんだから、そんなヘマしない。
最終学年は自己課外と卒研の単位さえ取れば、あとは自由」
「あ、そうなの。だってなんにも言ってこないから」
「……そういう状況を作ってくれた張本人がどの口で言うわけ。そのことに関して、訊きたいことが山積みなんだけど」

 これまでが営業用であるかのような生き生きとした笑顔のリィンに対し、少年はあくまで淡々と、不機嫌そうな調子を崩さない。
 それぞれ対照的な二人。
 だが、不思議と不釣り合いには感じさせないなにかが、間にあった。

「なぜ言わない」

 苛ついたハラルドの声が会話を割った。
 少年がどうやらリィンと知り合いであることに対しての文句に他ならない。
 それはそうだろう。ブローハーゲンで声をかけられた時からリィンは目をつけられていた。それは先ほどの話からして確実だ。
 リィンの情報が流れていて、それに関連するメルヴィーナとアドル――元々は逆だが――を追っているのなら、知人であるこの少年を捜索のキーパーソンにしていてもおかしくはないのだから。

「クロヴィスは知ってる。てか、そっから話が本格的におれに来た。
アンタ、こいつの名前聞いてねぇの?」
「俺に来たのは名前以外の情報だけだ」

 少年のハラルドへの目が可哀想なものを見るそれに変わる。

「……教えろ。名前」
「やだね。
なんか勝手にバラしたら意味わかんない文句が向かってきそう。おれは平穏に事を終わらせて、さっさと学校に帰って卒業試験に備えたい」

 どう考えてもハラルドは目上の人間であろうに、少年は、言葉遣いも態度も改める気など一切ない。そのあたりのマイペースさがリィンと似ているとメルヴィーナは思った。
 リィンは一応敬語を使うが……同じなのは基本的な部分。他人の身分や立場への無頓着さ。
 彼女は他人に興味がないから自分たちの事情にも踏み込んでこようとしないのだろうか。

 ――と、軽く背中をつつかれて、メルヴィーナは横目でアドルに注意を向ける。
 弟の目線が一瞬入り口を示した。意図を察し、機会をうかがう。
 今必要なのは騒ぎ立てることではない。ひたすら傍観者となり、存在を消すこと。『捕縛者』の意識の外側に出ること。それだけだ。

「で。さっき言っていた訊きたいことというのはなにかな?」

 その意図を理解してなのか、リィンが再び場違いな平和な会話をはじめだした。
 メルヴィーナの中に、彼女も一緒に逃げるという選択肢はない。放っておいても彼女は自分で状況を切り抜ける。確実に。自分たちが逃げ切れるのならなおさらのこと。そもそも、彼女の分の心配をする余裕はないのだから。

「あとで訊くからいい」

 少年が嫌そうに答える。

「久しぶりに会ったっていうのに……いつの間にこんな冷たい子に育っちゃって……!」
「昔からこんなだった自覚しかないけど」
「うん、そうね。確かに」
「ときにお嬢さん。こいつとの関係性を教えていただけると嬉しいのですが?」
「…………お嬢さん……ね……」
「それはできないわねぇ。後で私、怒られちゃいそうだし。それになんだか楽しそう」
「いやそんなこと言わずに」
「無駄だと思うけど。そいつ、アンタの上司と同じタイプの人間」
「そりゃ手ごわそうだ……」

 意識が完全に姉弟から外れた、その瞬間。

 メルヴィーナとアドルが同時に動いた。

 瞬時に反応したハラルドが姉弟を追おうと身を弾ませる。
 ――が、柄にかかった手は刃を鞘に走らせることなくぴたりと止まる。

「……とんだ歌姫がいたものだ」

 冷え切った声が、背後の女を切りつけんばかりに響く。

「あら。女がひとり世を渡るには、このくらいの意外性は必要だと思わなくって?」

 ナイフを背中に突きつけたまま、彼女は可愛らしく小首をかしげた。

 人もまばらな店内がざわめいている。
 店長だろうか、中年男性の店員が慌てた様子で寄ってきたのを、ハラルドが制した。

 その直後。

 ふわ、と風が鳴った。

 リィンの足元に、ほのかに発光する幾何学模様が広げられる。
 行動制限の魔法陣を敷いた少年は、淡白な調子で追いかければと相棒の男に提言した。やるならさっさとやっとけ、苛立たしげに言い捨てて、彼は姉弟の消えた扉の先へ向かう。

 残された少年が、やや呆れ気味に息をついた。

「逃げる気ないなら下手な手助け、しないでくれる?」
「あの二人が一生懸命だったからつい」

 音もなく魔法陣が消え失せる。
 術者の意思とは関係なしに魔力の定着を失った陣。干渉らしい干渉を感じさせずに魔術を文字のごとく『霧散』してみせた女は、なにごともなかったかのように微笑んでいる。

「……今改めて見ると、アンタの魔術、反則」

 少年はそう、かつて自分を拾い育てた女を評した。










「報告に行った、という言葉の意味。おわかりになられなかったようですね」

 ハラルドが嘲笑したのは振り返らなくても明らかだった。
 外がこのような状況になっていると想像できなかったのかという揶揄に、しかしメルヴィーナは歯噛みすることしかできない。
 周囲を取り囲む兵たちは、自分たちを包囲するために呼ばれた応援に他ならない。
 姉弟は今度こそ完全に、逃げ道を失った。



 その後。
 少年に連れられ……というよりも少年を連れて出てきたリィンの発した「あ、やっぱり無理だった?」という軽さがまた、彼女の慨嘆を助長させることとなる。

 わかっているなら助言くらいしてくれても罰は当たるまい。





   2012.5.15