長い詠唱の文句が魔術の構成を織るのと比例して、目の前で膨れ上がる火球がさらに大きさを増す。
属性は火。
ご丁寧に風と雷まで混ざってる。それ以外も入ってるかもしれないけどさすがに複雑すぎて読み解く気すら起こらない。わかったところでこっちはどうしようもないしな。相当なレベルの大魔術って分類で十分だ。
って待て待て、コレ相当なんてもんじゃない……コレ洒落になんなくね? こんな危険極まりない大層なもん、もっと披露するのにふさわしい時と場所があるだろ。いや、今がその時と場所か。だからってなんだっておれに向かって使ってくんの。ありえない。
自分の魔術が周囲に及ぼす被害をいつだって屁ほども顧みないあいつは、未だ続くくそ長い詠唱の合間におれを一瞥して笑ってきた。
格下を蔑む嘲笑。そして、それを刻むことに慣れた顔。ホントその表情がサマになってる。
……相変わらず、むっかつくわ。
慣れてるけど胸くそ悪いのに変わりない。
その間にも火球は膨張を続けていた。内部に細かな雷光を抱えて、そのさらに奥では黒いほどに紅い炎が渦を巻いて。自分を押さえつけている戒めからの解放を、今か今かと舌なめずりして待ちわびる猛獣みたいに。……凶悪。
はは……あれ、まともに喰らうとかなんの冗談?
防御張って正面から受け止めるなんてのは一番に捨てる愚策も愚策。おれの作る防御壁程度じゃ緩衝材にさえならない。悔しいとも思わない。魔力量の差はれっきとした事実だ。
持って生まれた相手との差に打ちひしがれる時期なんて、とっくの昔に過ぎて終わった。
今は、その差をどうやって埋めるか。どうやって先をゆくか。
そう。大事なのは思考を止めないこと。そうすれば、立ち止まって目をつぶるよりは計り知れないほど多くの勝機を見いだせる。
だから今おれがとるべき行動もひとつしかない。
そして導き出される答えを、おれはもう手にしている。
今まさに展開されようとする大魔術に、さっきから「外側」がどよめいている。それを意識したんだろう、あいつの視線がひと呼吸の間、おれから外れた。
……馬鹿なのか? それともわざとか?
確かにおまえは強い。
おれだって何度おまえにこてんぱんにのされたか数え切れない。
かろうじて生きてたってくらいにやられたときもあった気もするけど、まぁここは横に置いといてやろう。
ここじゃもう、使える魔術のレベルでおまえに勝てるやつなんて一人もいない。それは認める。だって事実だからな。
でもな。あくまでそれは「魔術のレベル」での話だよ。
おまえがそうやって自分の強さを見せつけて、ふんぞり返ってるうちは。おまえは。
「灰も残さず焼き尽くされるがいい!」
尊大で物騒な台詞で最後の命令を与えられ、炎が唸る。
雷鳴を伴う炎の嵐が巻き起こる。
その中心に飲み込まれたおれの影は、ゆらりと揺らぎ、溶けるように掻き消えた。
「外側」から聞こえる、悲鳴。
あいつはそのさまを鼻で笑った。
放たれた魔術は「内側」を文字通り蹂躙した。
残ったのは炎の腕に舐められ抉られた石畳の残骸。そのどこからも熱を持つ土煙が上がってる。
視界が悪いが目は見える。
土が焦げ、乾いて舞い上がる砂が頬に当たる感覚もする。
おれの五感は損なわれていない。五感どころか手も足も、体のどこも。
当然だ。おれはあの軽々しく人に向けていいもんじゃない凶悪な魔術にかすりもしていない。
長ったらしい詠唱が紡がれる間、ぼーっと突っ立って発動を待ってやるアホがどこにいる。
炎に飲み込まれたのは幻影だ。
水による光の屈折を利用する初歩的な魔術。
そしておれ自身はあの、あいつが視線を外したひと呼吸の間に、同じ屈折の魔術で姿を隠して「外側」との境界線ぎりぎりに退避した。そうしないと影と同じ道を辿るはめになる。さすがにそれだけ中心地から離れれば、おれの張れるささやかな防御壁でも十分身を守れる。
目算通り、あいつはそのままおれの幻影に魔術を放った。そこまではよかった。
誤算はこの、土煙。
魔術の蹂躙が終わる前にあいつの不意を突いてしまいたかったんだけど、想像以上の視界の悪さに時間を取られた。
でも誤算は勝算にも繋がる。
土煙に隠れて背後を取ってしまえば、あいつの意識の外から攻撃ができる。
思考の着地と同時にベストポジションへ辿り着き、微かに視認できた目標に向けて指を横に切った。
圧縮された風の刃が「敵」に向けて真っ直ぐに放たれ――
「そこに来ると思っていたよ」
耳元に感情のない声。
そして左脇腹のすぐ横に、熱が。
背筋がぞわりと粟立った。とっさに熱の部分に氷の魔術を叩き込み、体を翻して後ろに跳ぶ。本気で残念そうな舌打ちが聞こえる。
――アレはやばかった。
背後を取られていたのはおれの方だ。
おれの脇腹にぶち当たりかけた熱は、短縮詠唱によるものなんかじゃなかった。あいつお得意の長文詠唱で丁寧に練り上げられた、おれの血液を沸騰させてやる気満々の、悪意の高熱だ。
おれと同じく幻影の魔術で自分の位置を誤認させたあとであれだけの熱量を生む詠唱なんてできる時間はないはずだ。
つまり同時詠唱したってことかという考えに至る。
……才能に恵まれてるってのはなんでもありか。相変わらずこっちの劣等感を煽ってくれやがる。頭では割り切れても感情までは制御できねぇんだよ、ちくしょう。
今回ばかりはなりふり構わず潰しにきてる。下等魔術とか言って蔑んでたはずの幻影術を使うとか、今までのあいつからは考えられなかった。あの隙はご丁寧にわざと作ってくれたものらしいし、それだけ本気ってことらしい。
今の相殺でかなりの魔力を使わされたし、うぅん……さすがに勝算薄くなってきた。
「殺す気満々じゃねぇの」
「そうさ。舞台に上がってきた身の程知らずのネズミは、そろそろ駆除しておかなくてはね」
薄笑いを浮かべながら乱れ撃ってくる炎球をぎりぎりのところで避け続ける。
反射神経には自信があるが…体力には自信がない。
正直、これあんまり長く続けてほしくないんだけど。集中切れたらそのうち当たる。そんでもって一発でも喰らったらやばい。握り拳大のくせして威力は全然可愛くないんだよ。さっきの大魔術から逃れて無事だったはずの石畳がところどころで爆散してんだもんよ。
時々危なくなって防御壁でしのいでるものの、元々防御は得意じゃないのに加えて瞬間的な展開速度重視で張ってるから耐久性がないったら。直撃は防げても反動がもろにくる。次が来るから反動を逃がすのに踏ん張ることもできなくて、さっきから肘とか膝とか肋骨とかが悲鳴上げてんですけど。あーこれ絶対に後にくる……。
……つぅか後のこととかどうでもいいし。
現実問題、このままおれの方だけ消耗戦してたら魔力枯れる。いやもう枯れそう。おい、早くしろよ。枯れる前にさっさと来い!
「ちょろちょろと鬱陶しく逃げ回って……まあいいさ。そろそろ魔力切れだろう? 凡人程度の魔力量でよくまあそこまでの小細工を、とはいつも思うけれどね。所詮は凡人。いや、ここでは底辺だ。選ばれた場所に生を受けた者として頂点を戴くのは僕の義務だというのに。それを貴様はいつもいつもいつも、邪魔だてして」
「るっせぇな! だからそれ被害妄想だっつってんだろっ」
「〈持たざる者〉風情が!」
うわ、こいつマジで同時詠唱してきやがった!
まぁ、一方は炎球に攻撃命令を与えるだけなんだけど……って、「だけ」じゃねぇよ。普通できねぇよ!
おれとは違ってまだまだ潤沢な魔力を蓄えているらしいあいつは、逃げ回るおれにとどめを刺すべく魔術構成を紡いでる。
また大層な合成魔術を……しかも火と水で混ぜてんのかよ、反発防ぐのにどんだけ細かい調整してんだ。考えただけで頭痛くなるな。
だが、来た。好機。
これを逃したらもう枯れるのを待つだけになる。
仕込みは済んだ。後は、ベストの一瞬を狙いすます!
「〈――激しき大地の怒りを。濃き清流の静寂を〉」
「そこの節、〈狂おしき爆炎の惨禍〉の方が威力増すと思うけど」
「僕の美しい詠唱文に文句をつけるな! ……っ、なん……っ?!」
剥き出しになった土の地面から生き物のように腕を伸ばし、あいつの腕に、足に絡みつく、蔓。目にも鮮やかな植物がおれの魔力によって自在に動いてあいつの自由を奪う。
「あと、〈濃き〉に合わせるんだったら〈濁流〉の方が」
「うるさい! 小賢しい! こんな下級で低俗な魔術で僕に勝ったつもりでいるなど!」
確かにお得意の炎で焼き尽くされてしまえばそれで終わりだ。
だがこいつはイレギュラーに弱い。
格式張って精緻を好む性格の人間にありがちな欠点をしっかり持っている。
だからおれはこいつの想定外を、至近距離で起こせれば十分だった。
魔力が織られ、詠唱によって炎に具現するまでのほんの短い刹那の時間に、疾走する。
あいつがイレギュラーに驚いて炎球に与える命令を止めた瞬間、おれは勢いつけて地面を蹴っていた。
それに気づいたあいつはすぐに炎球の攻撃を再開した。
けど、焦ったんだろう。自分を守ることを優先して、慌てて蔓の方を攻撃目標にしたことで、丁寧に練り上げていた合成魔術の方は中途半端に構成を組まれたまま止まってる。
術者の制御から外れた相反属性の合成魔術……放っておけば勝手にお互いを相殺して消えるか、それとも反作用を起こして暴発するかのどっちかだ。後者は勘弁してもらいたい。が、おれにはどうしようもできない。
だから走る。精度を欠いた炎球をかいくぐって、左手の中に少しずつ織りこんで溜めていた魔術を抱えて。
燃やす暇なんか与えてやるか。
いや、燃やされたっていい。一瞬でも長くあいつの動きと正常な思考を奪うことさえできていれば、それで。
「人の提案に! 少しは聞き耳持ちやがれってんだ、よ!」
渾身の力を込めて、おれはあいつの張った略式防御壁を殴りつけた。
ぱりん、と陶器が割れるのに似た軽い音。
魔力壁の破片が崩れる向こう側で、あいつが引きつった表情で動きを止めている。
勢いのまま、最後に一過程の命令を与えた雷の魔術を懐に叩きつけようとした刹那。
あいつが、にやと口角を上げた。
しまった、と思ったときにはもう、遅かった。
あいつからすればささやかなおれの魔術は、詠唱すら必要としない魔力そのものの壁に防がれた。
ほとんど魔力を使いきって手の打ちようがなくなったおれを嘲笑って、詠唱が紡がれ始める。途中で止まっていた合成魔術の術式に違いなかった。
制御を離れたとばかり思っていたそれは、きっと初めから、あいつの思い通りに途中で留められていた。
……まずい。
間合いが近すぎて逃げられない。威力の低い魔術でも至近距離で展開させれば決定打にできると考えた目算が裏目に出た。
他の方法でなら、そりゃもういくらでも反撃できるけど……今は無理だ。ここで許されてるのは魔術のみ。さっきの防御壁の物理破壊だって、反則とられても文句言えないんだから。
炎と水の相反属性合成魔術が空気を震わせながら膨張の限界に近づいている。
うっわ。
おれ今度こそ……死ぬんじゃね?
残った全部の魔力は防御壁につぎ込んだ。
あの大魔術の前じゃ紙防御も極まるシロモノなのはわかってるよ。でもほら、気分的にもな、違うからな。
この防御壁が完全に壊れる前に審判員が判定を下してくれることを願って、おれは細かく笑ってる膝を叱咤して、腰を据えて「敵」を見据えた。