「あら、あなた。なにか良いことでもありました?」

 仕事を終えて帰宅したら、開口一番妻に言われた。
 うん? そんなにだだ漏れだったか? 若い頃しょっちゅう口にしてたような歯の浮く台詞を帰宅の言葉にしたわけでもないんだが。

「何年一緒にいると思ってるんですか」

 素直に聞いてみたら、逆に問われてしまった。
 腕に掛けていた上着を渡しながら十八年だったかなと答えると、先月で十九年になりましたよと訂正された。む、そうか……。女というのは俄然数字に弱いくせに、よくもこう記念日や年数のことは細かく覚えていられるものだと感心してしまう。そういう俺自身も数字に強いわけではないからとやかく言えたものじゃないが。

「来年の結婚記念日も忘れたら、さすがに実家に帰らせていただきますよ」
「え、ちょ……っ、ちょ、っと、待ってくれ。おまえそれだけは」
「もう。あなたったら。本当に取引に向かない性格をしていらっしゃいますよね。あの子もそっくり。二人とも、そこがいいところと言えばそうなんですけど」

 取り乱した俺になんとも言いがたい表情でこれ見よがしなため息をついた妻は、冗談ですから本気にしないでとおかしそうに笑いながら俺の上着を丁寧な仕草で玄関脇のワードローブにしまった。
 ……結婚記念日が思い出せない。年か? 年なのか?! いや落ち着け。先月なのは確実だ。だが日にちが……そうだ、昔の日記を読み返せばいい。最近はとんと忘れがちだが、昔はまめに日記をつけていた。後で確認して部屋の目立つとこにでも貼りつけておけばいい。そうしよう。二十年目の節目はさすがにまずい。

「おふゃえり、ひょうははあいのあー」

 手洗いをすませて狭いながらも清潔に整えられたダイニングに入ると、食事をかきこんでいる息子がなにやらわけのわからないことをもごもごと言ってきた。
 ……躾はそれなりに厳しくしてきたつもりだぞ。結果を見ると、つもりだっただけらしい。一人息子だからとついつい甘やかしてしまっていたことを思い知らされるのはこんなときだ。

「なにを言ってるかわからん。口の中にものを入れたまま喋るな」

 苦いため息をつき、強く、しかし部下が同じことをしていたら注意するだろうものより格段に厳しさを欠いた口調で苦言すると、息子は口の中のものを飲み下してから、にかりと歯を見せて笑った。

「おかえり親父ー」
「……ああ、ただいま」

 もう十六になったというのに、どうにも子どもっぽさの抜けない息子に頭の痛くなる思いをしながら椅子を引く。

 家族全員でこうして食卓を囲むのは久しぶりだ。我が家では帰宅時間の予測がつかない俺を待たずに夕食をとる。たいてい俺は食事がすっかり冷めた頃に帰ってくるのだが、冷めた食事を一人寂しい食卓ですませることなどきっと一年に数回あるかないかというところだろう。妻がいつも当然のように温めなおして出してくれ、晩酌をしながら愚痴をこぼすのを相づちを打ちながら聞いてくれるからだ。……まったく、なんとよくできた女を妻にしたものだ。結婚記念日の件を改めて心に刻む。

 息子が今日の出来事を話すのをこれも久々に聞きながら、俺はふと思いついたことを口にした。

「そうだおまえ、ラトという名前に聞き覚えがないか? 魔術部の学生なんだが」

 俺の息子は学院の武道部に在籍しているのだ。今日、エルディアード邸を訪れた少年と同じ、王立学院に。
 ただし同い年の十六歳といっても、あの少年は卒業間近の四学年、息子は二学年で部も違うのだから接点など皆無のはず。たいして期待していなかったんだが……意外にも息子は俺の想像を裏切る答えを返してきた。

「あー、知ってる知ってる。それ魔術部四年の特待だろ? 結構有名だよ。昨日もさぁ、食堂でアイザック先輩と騒いでた」
「うん?」

 騒いでた?
 ……おかしい。衆人監視の中で友人と騒ぎ合う性格には見えなかったぞ。むしろそういう人間を遠くから鼻で笑っていそうな印象だったんだが。人違いじゃないのか?

 それにしてもその、一緒に騒いでたと言うアイザックという名には聞き覚えがある。今年の武闘会の優勝者の名前だ。部下の幾人かが『賭けに勝ったはいいが配当金がスズメの涙でたいした儲けにならなかった』なんて文句を言っていたな。最初から優勝候補だったということだろう。

「なんかアイザック先輩がその人の地雷踏んだらしくてさー。切れて不意打ちで肘入れて転がしてから魔術ぶっ放そうとしてた。淡々と」

 あ、これは同一人物だ。淡々と、の部分に納得した。間違いない。
 そうだな。あの少年の性格の表層を一言で表すなら『淡白』という言葉が丁度いい。
 だがあの少年の芯の部分はきっと淡白ではない。

 鼻先に剣を突きつけられて動じない剛胆さ。
 エルディアード邸に張り巡らされているという魔術を感じ取り、俺にはよくわからない専門用語を興奮混じりに早口で並べ立て。

 しかも、聞けばあの後ハラルドの腹に蹴りを当てて悶絶させたっていうじゃないか。あの小柄な体のどこにハラルドを一撃で沈められる威力の蹴りを放つ力とバネがある。そもそもどうやってあの間合い操作の達人なんて言われるやつを相手に蹴りの有効範囲に入れる。昔散々俺に転がされてぴーぴー喚いてたあのクロヴィス様の懐刀には、最近じゃ勝ちを拾うどころか手加減されてるくらいだってのに。
 好敵手だったジョエルがすっかり剣を収めてクロヴィス様の秘書状態になってからというもの、負けなしで高々になっていた鼻っ柱をよくぞ足蹴にしてくれたという「ざまあみろ」的な感情が禁じえない。実に胸のすく思いだ。
 案内だけではなく、是非ともその先を見たかった。いやまったく惜しいことをした。

「あと、妙に女からの人気は高いなー」
「うん?」

 今日の食卓のメインであるかぼちゃグラタンは妻の得意料理のひとつだ。とろりととろけたホワイトソースを覆うカリカリになったチーズの香ばしさを堪能しつつ、新人評価にかこつけて年下上司をこきおろしていたところ、グラタンをごっそり半分以上自分の皿に取り分けながらの息子の言葉に首を傾げる。

「俺ら武道部のむさいのとは根本的に違う生き物じゃね? ってカンジにちっこいし、でも政務部の頭でっかちもやし連中と比べりゃ武闘派、すかした性格だけど魔術部のお貴族様軍団のいけ好かなさ考えりゃ屁でもねーし。なんつってたかな……えーと、たしか『ひねくれ系弟キャラ』? だとかなんとか?」
「……」
「本人だけで十分目立ってんのに、つるんでるのがまたさぁ、裏ミスコンの覇者に、人間閻魔帳。あと武道部きっての実力派、アイザック先輩。目立つなってのが無理無理」
「裏ミスコン? 人間、閻魔帳……?」

 なんだその字面。特に後者。おどろおどろしい。最近の王立学院はどうなっとるんだ。
 そしてそんな黒い二つ名の持ち主とつるんでるあの子ども、実は類は友を呼ぶで腹の中真っ黒なのか?! クロヴィス様と同じで……って、いやいや。思ってない、思ってないぞ。エルディアード家の次期侯爵は腹が黒いだなんて、一片たりとも!

「あなた。その顔。お願いですから侯爵様やご子息様の前でするのはやめてくださいね」

 一足早く食事を終えたらしい妻が紅茶のカップを手に、そっとため息をつく。
 息子はまだ熱いかぼちゃをふうふう言いながら口に放り込んでいる。
 そして俺は、妻に指摘を受けた顔がどんなものかと最近皺の定着した頬のあたりを押さえてみる。押さえたところでわかるはずもない。

 ふと妻を見る。結婚したての頃からはどうしても年月の刻まれた、しかし俺を一発で落とした柔和な笑顔は昔とまるで変わらない。取り立てて美人というほどではないが……なんというか、ほっこりする。この、グラタンのかぼちゃと同じで。
 美人は三日で飽きると聞くが、今のところ俺は妻に飽きる気はしない。つくづく、自分が幸せ者だと感じる。

 料理は美味い。気立てもいい。
 そして、なんといっても忘れてはならない長所がひとつ。

「ところであなた。二階の東部屋の窓枠なんですけど、やっぱり建てつけが悪くて。次のお休みにでも直して貰えると助かります。その間に私はかぼちゃのパイを焼きますから」
「ん。わかった」
「親父、次の休みいつ? 俺も食いたい焼きたてパイ」
「タダ食いはさせんからな」
「手伝う手伝う。かぼちゃパイ食いたい」

 妻は、俺と息子の転がし方をそれはもう熟知している。