「ラト君ラト君ラト君ーっ! エルディアード侯爵家にってゆーかクロヴィス様にお仕えすることになったって本当ーっ!?」

 普段のとろい動きが嘘みたいな勢いでおれの名前を叫びながら突進してきたベルテをひらりとかわす。勢いを殺せず廊下の壁に激突しそうになったベルテを、おれと一緒にいたアイザックが危なげなく受け止めた。

「平気だったか? ベルテ嬢」

 アイザックがベルテの肩を抱いたまま「キラッ」て効果音のつきそうな好青年の顔を作る。似合わないからやめろその顔。

「え。あ、うん。ありがとうアイザック君」
「ぐおぅっ……! 俺はこれで一ヶ月生きていけるぜっ……」

 ベルテのにっこり笑顔に胸を押さえて天井を仰ぐアイザック。実に鬱陶しい。その間にベルテが肩に置かれた手をさりげに外してた。ベルテ、アイザック苦手だからな。
 馬鹿で人懐こい犬みたいなアイザックだけど、犬は犬でも超大型犬。おれを介したつき合いで人となりを知ってても、あまり間近に来られると身が竦むらしい。まあ、ベルテ、お嬢サマだし。こういう筋肉ダルマに耐性ないのは仕方ないと思う。

「アイザックの野郎なんつー役得……!」

 ……なんか今、ぼそっと怨念に満ちた声聞こえた……。

 おれたちがいるのは武道部校舎から食堂に続く渡り廊下、つまり当然近くにいるやつのほとんどは武道部学生なわけで。

「闘武会の優勝だけじゃ飽きたらず、ベルテ嬢まで手中に収めるとか」
「呪われればいいのに」
「丸坊主の呪いとかどうよ」
「いやいやそれより散切り頭の呪いの方が」
「俺ハサミ持ってくるわー。この前、研いだばっかのやつ」

 追い抜きざまの熱視線やら遠目からの呪いの言葉、だだ漏れ。武道部ホントわかりやすっ。

 相変わらずベルテは男どもに大人気な。さすが四年連続裏ミスコンの覇者だ。
 当の本人はそれを知る由もない。一年に一度、投票制でグランプリのみ発表されるこの裏ミスコンは女子に存在すら知られてないからだ。知られないことに開催の意義がある、らしい。その意義の意味は何度力説されてもおれにはまったく理解できない。
 ちなみにここ最近の責任者はオースティ。開校間もない時代から密かな代替わりを続けて運営されてた本部を探し当てて、結果だけを言えば、……本部、乗っ取ったんだよな……。

「うっせーよバーカ! 羨ましけりゃスライディングで割り込んでベルテ嬢受け止めるくらいの気概でこいってんだてめーら!」

 気心知れた同級生に口汚い捨て台詞を吐いてるその顔、ベルテが見たらさらに距離とられると思う。まるっきりチンピラだって。

 そのすぐあと、そんな勝ち誇った大声の罵りが偶然通りがかった礼節にうるさい教官の耳に障ったらしくて「せっかく誉れある騎士団に迎えられようというのに、貴様はいつになっても……! そんなことでこの先、国護の恩命を果たせると思うのか!」なんて説教が始まった。アイザック、完全に食堂に向かう学生のさらし者。

「ていうかなにしにこっち来たのベルテは」
「ラト君を探してたの。オースティとね、尋問しなくちゃって。お昼食べながら」
「……あ、そう……」

 当然、アイザックは見捨てた。





「お庭番ねー……へぇ。それ適任じゃん?」

 先に食堂で席取ってたオースティが行儀悪くフォークの先っぽをくわえたまま、にやっと笑う。
 千切りキャベツを口に詰め込んだばっかりだったおれは、目だけで「なんで」と訴えた。

「だってだいたいなんでもできるだろお前。生活能力あるし」
「そりゃオースティと比べれば」
「自分で考えて動けるし。そういうのって上からの指示で動くっていっても、現地出てりゃいちいち指示仰ぎに戻ってらんないんだから全部自分で判断しなきゃだろ。全部最初から自分の意志で動くより難しいよ。誰かの意図を汲んで動くのって」

 聞けよっていうおれの訴えを無視するオースティのあとを、今度はベルテが引き継いだ。

「魔術だってそうだよね。私たちって専門分野を持ってそこを重点的に高めてくのが当たり前だから、これはできるけどあれはできないーっていうの多いけど……ラト君は使えない系統の魔術ってすごく少なくない? それって結構珍しいよね」
「そうそうオールマイティーな」
「超低空飛行での、って注釈がつくんだけど」

 オールマイティーって言葉がこれほど皮肉なことはない。おれに似合う言葉は「器用貧乏」一択。自他共に認める器用貧乏、それがおれ。

「理論ならともかく実技になると上位とか応用の単位取れないから、単位数稼ぐのに浅く広く専門取ってったらいつの間にかそうなってたんだけ。おれだって、なんか一つを極めたかった。……あいつまでとは言わないから」

 アタマ使えばなんとかなる範疇だったら努力すればいいけど、魔力量だけはどうにもなんない。偉大な魔術師になることを約束されたような潤沢な魔力とセンスを持って生まれたあいつが、羨ましくて仕方ない。
 そう。「羨ましい」。

「ラト君はウェイン君みたいになりたかった?」

 ベルテに真をつかれて、意味もなく皿に残ったキャベツの欠片とソースをフォークの先で混ぜていた手が止まる。珍しく空っぽになった皿から顔を上げると、目が笑ってないベルテと視線がぶつかった。

「ウェイン君もウェイン君で大変なんだけどね。特に、今」

 ベルテの話では、ウェインのやつは父親のシュタインベルグ公爵に、王室付き魔術師になれないなら貴様の存在意義もその程度だ、なんてことを言われたらしい。

 ……うわ。無茶ぶり。
 世界一の魔術大国って言われるこの国の王室魔術師なんて魔術師の頂点も頂点じゃん。あいつの実力は相当なもんだと思うけどさ……さすがにそこまで期待するのは厳しいだろ。
 そんな考えを代弁する勢いでおれと同じ、それ以上にシビアな現実をオースティが口にする。

「無茶ぶりするなーシュタインベルグ公。そもそもあれってスカウト制で募集かかるもんでもないだろ? それに今は王室付き魔術師けっこう人数いるし、戦争も終わったことだし。よっぽどの理由がなきゃ増員はないだろー」
「そのよっぽどをウェイン君は期待されちゃってたの。迷惑な話だよねぇ。期待される側の気も知らないで」

 なんかさ、さっきから、……ベルテの言葉にすっごい棘を感じるんだけど。ウェインの名前が出たときあたりから。え、これホントにベルテ? ってくらいに。
 いつもはほわほわして、ぼけっとしたズレた発言連発してくれるベルテが棘含ませてくるとか、なんか怖い。オースティまで「あぁ、うん」とか気のない相づちを打ったきり無言になった。なんか言えよ。おまえいつもの余計なことばっかり出す口どこやった。

 食堂の喧噪が遠い。
 この、痛い沈黙。
 薄ら寒いものを感じて、おれは自ら話題転換をはかろうと口を開いた。ベルテの方は見ないように努めて。

「ところで、おれは不思議でならないんだけど。侯爵より公爵の方が偉いんだよな? なんであの侯爵子息サマがシュタインベルグの圧力を無視できるのかわかんない」

 オースティとベルテがなんとも言えない奥歯にものが詰まったみたいな顔でお互いを見る。
 よし、ベルテからぎすぎすした空気が消えた。目論見通り。ただ、なに言ってんのこいつ、って目を二人分貰う。こういう雰囲気になるときはだいたいが貴族の常識の話だ。おれが知ってるわけないだろって常識の。

「そっか、そこ、わかんないのか……」

 子どもに一般常識説明しろって詰め寄られてなにから話せばいいか、みたいな表情で、オースティが頭を抱えた。ああ、うん。わかる。自分にとってあまりにも簡単なこと訊かれると説明に困るよな。逆に。

「うん。単純にな、ほんと単純に、公爵と侯爵を天秤にかければそりゃもちろん公爵の方が上だぞ? でもな、実際のとこ、杓子定規にそのまま爵位どおーり上から偉いってわけじゃないわけよ。……ラト、お前さぁ、エルディアード侯爵の奥さんの実家がどこだか、知ってる?」
「さあ」
「だよな。あそこの奥方な、国王陛下の妹君ね。はいここで問題。お前を雇った方、どういう人間?」
「王サマの、甥っ子?」

 はいピンポーン大正解ーって全然面白くなさそうにぱちぱち手を叩くオースティ。ベルテの方は葬式みたいなテンションでうんうんと頷いてる。

「そうだよ。クロヴィス様は王子王女殿下に次ぐ王位継承権第三位なんてもんを持ってんのよ。これでもかって強権持ってんの。そんくらい知っとけアホたれ!」

 マジでか。

 王位継承権……、って。
 それはなにか。あれか。つまり、まかり間違って上にいる二人になにかあったら、あの無駄にきらっきらしい侯爵子息サマが王サマになる可能性がある、っていうかなるってことか。

「……マジ?」

 今度は声に出た。オースティとベルテが神妙に大きく頷いた。マジか。

 侯爵子息サマは……ほぼ王子サマだったか……。むしろなんかもう似合いすぎてて笑える。王冠絶対似合う。そうか、アレ、ロイヤルスマイルってやつだったのか。
 とんでもない人間に使われることになったって現実を見つめたくなくて、乾いた薄笑いがこみ上げる。はは。おれ、めっちゃタメ口きいたよ。なんで誰も注意してくんねえんだよ。ハラルド。ジョエルも。あいつら絶対腹の中で「あーあ、知らねえぞ」なんて思ってただろ。くそ……っ!

「そもそもあの黒騎士侯爵家、今ある爵位持ちの中じゃ一番の古株で、王家の信頼めちゃくちゃ篤いからな。けっこうな数の爵位持ち分家抱えてるし。それでなんでいまだに公爵に格上げされてないのか……でもってそれ以前になんで最初の爵位設定が侯爵だったのかの方が謎だよ」
「この国じゃ王家の次に、ううん、むしろ王家よりも敵に回しちゃいけない、怒らせたらこわーいところなんだよ」
「……へぇ」

 そうだな。外門では不審者扱いされて刃向けられ、抜き打ち試験では首飛ばされるかと思ったしな。普通に怖かった。

「ラト君。エルディアード家で働くんだったら、もうちょっと貴族社会について知っておいた方がいいと思う」
「そうだな。現実逃避してる場合じゃないな。戻ってこい」
「してない」

 嘘だ。してた。現実逃避。
 長い息を吐きながら、テーブルにゆっくりと突っ伏した。ああ、これついこの前もやったっけ。そのときと比べて事態は好転、というかこれ以上ない幸運に恵まれてとりあえずの未来が開けたっていうのに、なんなのこの気分。重い。まさかの侯爵子息サマほぼ王子サマ判明に、幸先が重くなったって。

 ずぅんとテーブルにめりこみそうな気分のおれに、殊更明るいオースティの声が降った。

「ところでラト、これで心配ごともなくなって暇になったんだろ? そこで折り入って相談が」
「無理。授業ないし学校でやることないって言ったら、じゃ明日から来いって言われたから明日から行く。職場? に」
「なんだとぉぉおーっ?!」

 死刑宣告に、オースティの上げた奇声が人目を集める気配がした。そろそろ午後の始業が近くなったから食堂内に学生は少ない。残ってるのはおれたちみたいにほとんど授業に出る必要のない最終学年のやつらだろう。
 隣のテーブルの後かたづけをしてたおばちゃんが、ああまたあの子たち、みたいなぬるい目をよこしてすぐに水拭き作業に戻るのを、突っ伏したままの横目が捉えた。

「え、マジ、嘘!? 俺の卒論おまえに手伝わせる計画は」
「計画倒れってことで」
「完遂させて頼むから!」
「オースティ、まだ資料のまとめも終わってないんだってー」
「ご愁傷様」


 


 学院に入るより前。
 そして、ラムロットの村での閉じた世界を知るより前。
 命の期限との真剣勝負が日常だった頃は、こんな風に身分に囚われない人づきあいができるなんて考えたこともなかった。

 差し伸べられた手を取ったあのとき、おれは選んだ。
 道端に転がった、役に立たない、それ以上のなにものにもなれない石ころみたいな人生から抜け出すんだって。
 そして、石ころ同然のおれたちを蹴飛ばしてふんぞり返って笑ってるやつらの筆頭、貴族って連中を踏みつけてやれるくらいの力を手に入れてやるんだって。

 でもここに、王立学院に来て、そんな目的ほとんど消えた。
 おれが憎んでたウェインみたいな人間が貴族の全てじゃないってわかって、見るべきなのは身分じゃなくて人なんだって気づいたからなのかな。
 憎しみを向けるベクトルの方向を見失ったってよりは、なんていうか……そういう感情自体が薄まったんじゃないかって思う。

 自分でも不思議なんだけど、ウェインの才能を羨ましいと思いこそすれ、あいつの所業の数々を「憎い」とは思わない。
 あんなやつもちろん嫌いだよ。顔も見たくないね。
 でもそれだけだ。殺してやりたいとか、そんな激情には駆られない。

 昔から淡白なやつだとよく言われてた。最近は表面だけじゃなくて内面の感情の起伏まで少なくなった気がする。よく言えば、落ち着いた? そのせいなのかもしれないな。

 でもたぶんそのせいで、おれは未来の目的まで見失った。

 おれはなにになりたかったんだろう。
 石ころ以外の、なにに。

 ……あの人使い荒そうな侯爵子息サマにこき使われてるうちに、見つけられるだろうか。学院の中で、ベルテやオースティ、アイザックといる間は見つけられなかったなにかを。

 不意に、ラムロットから王都まで一人で行くって譲らなかったおれに、手を振って送り出してくれたあの人の言葉を思い出す。

 いつだってあの人は、おれに、欲しい言葉をくれたっけ。



『広い世界を見ていらっしゃい。ラトくん』



 きっと、この先にある。
 ラムロットの揺りかごでも、この、学院の箱庭でもない。

 あの人の言ってた「広い世界」は。