「さて、本題に入る前に一応確認させてもらうとしようかな。今日きみがここにいるのは、私からの申し入れを是としてくれたーーそう受け取って相違ないのかな?」

 案内された応接室はエントランスホールから一枚扉向こうの落ち着いた空間だった。
 飾られている生け花や絵画、凝った装飾の施されたテーブルや椅子からはけばだった嫌らしさは感じられず、屋敷全体の雰囲気からして質実剛健、という言葉がしっくりくる。かといって無骨でもないと思う。正しく『丁度よく』品のいい感じ。
 ただ、広い。余裕で寮のおれの部屋の四、五倍はあるって……。

 対面する革張りのソファに腰を下ろした執事、もとい侯爵子息サマは早速本題を切り出した。
 改めて見ると、どうしておれこの人を執事だと思ったんだろ……。
 初夏なのに長袖のめっちゃ細かい刺繍入った仰々しい上着着てるし。背負ってるオーラが完全に人の上に立つ人間のそれだし。侯爵子息サマなんて人がエントランスまで出てくるわけないっていう先入観がそうしたのか? いや、やっぱりそういう人は平民なんぞを出迎えに玄関に出てこないと思うんだけど。フットワーク軽すぎんだろ。

 思考をずらせつつも最初の問いに頷いたおれを認め、侯爵子息サマが満足そうに笑った。その笑みを直視できなくて、思わず目を逸らす。薄ら寒い。

 人畜無害な笑顔……なんだろう。世間一般の目が見れば。
 でもおれは知ってる。
 さっきの手合わせーーっつー名の一方的な試験の間の、口元に笑みを浮かべながら獲物を見定めるみたいに冷ややかにおれを選定する目。あれが人畜無害な人間の目であっていいわけがない。

「うん。まあそうしないと君、国に馬車馬のように飼い殺されるだけだしね」

 ほら!
 この、全部知ってるよっていうのを直にじゃなくてさらっと思わせぶりに伝えてくるこの言い方!

 いやこっちの事情知ってるのは当然、つか耳に入ったからこういうことになったんだろうけど! イラっとするこの言い方……! 低いくせに柔らかい声色がどういう相乗効果引き起こしてるんだか知らないけどそれを助長してるし! 人畜無害が聞いて呆れる……っ!

 侯爵子息サマがひとしきり楽しそうに穏やかに含み笑ってから、後隣に立つ男がすいと前に出てきた。
 最初から応接室に控えていたそいつは、神経質そうな顔とゆったりした服装の文官然としたやつだった。それなのに当然のように腰に帯かれている剣に、さすが将軍とこの家……と心の中だけで感嘆する。

 知的な光を宿した瞳は黒陽石みたいに真っ黒でーーあれ? どっかで見たなと思ったら、十分手加減されたんだろうけど容赦ない攻撃を仕掛けまくってくれた、ハラルドってやつも黒い目をしてた。つけ加えると年も同じくらいだ。
 そのハラルドはというと、まだ脇腹押さえながら渋面で氷の入った水のグラスを傾けてた。だいぶ入った感触したからな、蹴り。あれは痛かったと思う。
 でも悪いとは思ってない。反撃していいって言ったじゃんあんた。

「王立学院魔術部第四学年第一級特待生ラト・ヴァロア。魔術構築の才と構築速度、応用力には目を見張るものがあり、筆記試験においては入学試験から現在まで魔術部主席の座を一度として譲ったことはない。しかしながら魔力保有総量は学院内でも最下層であるため、特に応用力方面への才を生かせず実技評価は低い。魔術部生には珍しく武術科目を選択履修しており、小柄な体格を逆手に取る戦法で武術部生に負けずとも劣らない成績を上げている。生活態度は並。目立った大きな問題ではないが校内外補導歴数回あり。全て厳重注意止まりで不問に処されている」

 伝達事項の箇条書きそのままに読み上げられてるのは、学院生活におけるおれの総評らしい。えらくざっくりと。

 前半部分は「え、なにいきなり」と面食らった分を差し引けば、まあ平常心で聞けた。魔力保有量学年最下層の部分で顔が引きつりかけたけど、今さら気にすることでもない。……気にすることでも、ない。

 ただ、補導歴はちょっと……。
 ……オースティのやつ隠蔽工作は完璧とかぬかしやがってたくせにっ!
 いや、実際大したことしたわけじゃないんだ。全部ウェインの取り巻きの嫌がらせが発端の正当防衛だったしな!

 脳内で二人に悪態をついている間に、おれの経歴朗読は学院入学以前のものに遡った。

「イヴァン神聖国東部エルシダの孤児。出自経歴不明。七才で南東部ラムロット村の薬師宅に引き取られ、以降十二才で王立学院に入学するまでの五年間をラムロット村南の森林地帯で過ごす。養育者である薬師についても出自経歴不明、現在の所在も不明」

 見事に不明ばっかりの身元情報とか意味あんのかと疑問なんだけど。
 しかもその不明部分、隠してるとかじゃなくておれも「そんなん知らん」っていうのばっかりだからどうしようもない。

 あーはいはい。そうそう。おれは出自不明、天涯孤独の身の上で、年齢も十六才ってことになってるけどそれも推定だよ。
 まあ本当に完全に天涯孤独かって言われるとたぶん違うんだと思う。今読み上げてくれたとおり、おれを引き取って育ててくれた人がいたからな。
 うん? ……なんか違うな。実際は脅し半分拉致されるみたいに連行されて、ってのはちょっと話盛ってるけど、そういう要素は確実にあった感じで、おれはあの人の養子にされた。なった、じゃなくて、された。なしくずしに。

 そんな、ちょっとそれどうなのって始まりだったけど、おれはちゃんとあの人に感謝してる。おれの最初の拒絶を素直に受け取ってくれる人だったら、おれは今ここにいないどころか生きてたかどうかすら危うい生活環境だったからな。

 ただ、あの人の子どもになったつもりはない。とっくの昔に物心もついて、自分は一人なんだって自覚も覚悟もあったからな。一緒に過ごしたのも五年そこらだし。
 だけどあの人と、おれより前からあの人と一緒に暮らしてた二人のことは『家族』だと思ってる。ふらっと帰っても迎えてくれる場所だと思ってる。

 だからさ。
 だいぶ、衝撃的、だったんだけど。最後の。

「所在、不明……?」

 言葉の意味を噛みしめるみたいに口にしたおれの呟きに、文官が意外そうに眉を持ち上げる。

「知らなかったのか」
「知らない。初耳」
「……長期休暇に帰るなり、手紙のやり取りをすることは?」
「旅費と時間使ってまで帰らなくていいと思って。手紙は、そういえば出そうとも思わなかった。向こうからもそういうのないし」

 文官は理解しがたいと言いたげに苦々しい顔をした。
 手紙の方はまあそういう顔されるのわかるよ。でもさ、帰郷の方は黙っちゃいらんない。そりゃおれだってな、あの家が近くだったらたまに帰ったりくらいはしてたと思うんだよ。でもあそこさ、来るとき乗り合い馬車乗り継いで一週間かかったんだよ。往復の移動時間で休暇の半分が終わるんだよ。課題山ほどあるんだよ。そんなことしてたら終わらないんだよ。こっちは特待落ちたら終わりなんだよ。それでも帰れって言えんの? なあ。騎乗ならもっと早いんだろうけど、そんな移動手段の選択枝持ってないんだよ。

 ってことを多少ソフトに反論したら、「そういうことなら仕方がないのか……?」ってまだ納得できない感じに呑み込まれた。この人んとこの円満家庭じゃ考えられない淡白さなのかな。おれんとこにはおれんとこの家事情があるんだよ。
 それでも、手紙くらいは年に一度くらい出しておけばよかったかなと後悔はした。相互生存報告的に。

 身元情報のあとのやり取りを黙って聞いていた侯爵子息サマが、頃合いを見計らって、そろそろ本題に入っていいかなと言った。

「君、お庭番というものを知っている?」

 首を傾げる。
 お庭番……庭? 庭を整える系の職業? それとも庭に常駐する番犬的な役割を指してる……?
 思わず目線を窓の方に動かしたおれを見て、そういう声質なんだろうか、もはやおれの耳には面白がっているようにしか聞こえない声で侯爵子息サマは続けた。

「違う言い方をすると隠密。監査官とも言うかな」
「……ちょっと待って。…………それ、を、おれにしろとか……、言う?」
「うん」

 にこやかに、こともなげに頷かれた。

 ちょっと待って。
 マジ待って。
 なにを言いくさってんのこのお貴族サマは。

 おんみつ? は? 隠密?!

「無理!」

 即座に拒絶したおれの反応を予想していたかのように、侯爵子息サマはやんわり笑って組んだ指の上に顎を乗せた。

「なにをもって無理だというのかな」
「いやどう考えても無理。おれ天井裏に潜んだりとかそういう訓練受けてない」
「うぅん……これはあれかな。暗殺者を想像した?」

 そうそれ。まさにそれ。地面の虫をついばんでる鳥みたいにこくこくと頷く。それとは別物だって説明してくれたのは文官だった。

「裏方仕事であるのは同じだが、暗殺者ほど物騒なものではない。町に溶けこみ情勢や噂話、調査対象の情報を探るなどの、主に市井における情報収集を行う者を指す。あとは内密に書状を運んだりと……つまり人目につかないように動いてほしい人間だな」
「あ、そういう」
「ハラルドやジョエルには内密に動いてもらおうと思っても難しいことが多くてね。この通り目立つだろう?」

 ああうん。確かに目立つ。二人とも珍しい黒髪だし、そうじゃなかったとしても、こう……洗練された雰囲気がもう目立つ。下町になんか下りたら絶対大注目浴びる。ベルテとかオースティもそういう雰囲気持ってるんだけど、あいつらとはちょっと格が違うと思う。
 ていうかあんたが言うなって話だ侯爵子息サマ。一番目立つ人!

「君、実技での得意分野は探査系だそうだね」
「それは他に得意って言える分野がなくて、必要魔力も選択履修してるやつも少ないソレが結果的にそうなっ」
「気配察知とそれと結ばれる反応もいい。ハラルドの動きについていける俊敏さもある。剣と体術、魔術を使い分けられて、相手を罠にかけることを厭わない。総合的な能力は器用貧乏ではあるけれど、言い換えれば万能、だよね」

 かぶせて遮られた。侯爵子息サマ、華麗なスルースキルをお持ちで……。

 それにしてもむずがゆい。おれ、誉めちぎられるの慣れてなくて苦手なんだよ。確かに、器用貧乏=万能の図式を自負してはいる。でもおれの万能の前には「ある程度」がつく。おれよりずっと上の万能人間を、おれは知ってる。

「買いかぶりすぎ、だと、思う……」
「はは。君、思った以上に面白いねぇ。ここは普通、多少は能力を過大評価して売り込むところだよね」

 侯爵子息サマが汗をかいたグラスに手を伸ばした。
 おれの目の前にも、最初この部屋に入ってきたとき女の人が置いてくれた同じグラスがあった。つられて、というか喉がからからに渇いていたことに気づかされ、一口含む。……味がある。これレモン水だ。一口のつもりが一気に飲み干してしまい、すっかり小さくなった氷だけがグラスの底に残った。

「魔術師を名乗る術師であれだけの動きのできる人間は、そうはいないよ。私はね、大層な魔術を使える魔術師を欲しているわけではないのだよ。調べて欲しいことに魔術的なものが絡んでいるのか、それがどういった種類のものなのか、どのような行動推測を立てられるか。そういう観点で、魔術師としての考察をできる人間がいたら便利だと思ってね。君、そういう論理はできるのだよね?」

 今言われた内容だと、求められてるのが本当に調査員的なものだとわかる。これならできる……んじゃないかって思う。論文を作るのと手順が同じだ。
 実質、主なのはフィールドワークになるみたいだけど、辿る過程はたぶん一緒。じっくり練っていくんじゃなくて直感を頼りに追っていく、そんな感じになるんだろう。うん、直感。わりと持ってる方だと思う。

「まあ、ある程度……」
「それと外見。外門で疑われたろう。警備隊にはあまり情報を出していなかったからね。君、ちょっと目つきが悪くて愛想がないけれど、普通の人間は年格好に騙されてくれるね。市井出身だから空気に馴染みやすいだろうし、そちら側の観点からものを見てくれるのも点数が高い」

 なんかすごい失礼なことさらっと言ってくれるよな。悪意はないんだろうけど。にこやかにホントさらっと言ってくるから流しそうになるけど。
 ……ホント、人畜無害なのは第一印象だけだな!

「時には交戦する場合もあるだろうけれど、君は別に勝負に勝つ必要はないのだよ。決定的な証拠さえ残さず逃げられれば、それで勝ち。君ほどの適役はいないと思うよ? それこそ、訓練すれば暗殺者にでもなれるくらいに」

 ああ大丈夫さすがにそこまでは求めないよ、なんていう笑えない冗談に、顔を引きつらせずに済んだおれの表情筋を誉めてやりたい。

 分厚い茶封筒を抱えている文官が、いつの間にか復活していた涼しい顔のハラルドが、そして端正な顔に柔和な笑顔を刻んだ侯爵子息サマが、黙っておれを注視している。
 おれの言葉を待っているんだ。

「……これ以上ないってくらいに身元が保証できなくても、いいんだ?」

 おれはまだ頷かず、こんな問いを口にした。
 侯爵子息サマはおれの不躾な言葉に笑みを歪めることもなく答えた。

「無能な身内よりは能力的に信頼が置けると思うからね。そちらの方が重要かな」
「シュタインベルグに、恨み買ってても?」
「彼らに文句を言われたところで痛む腹はないよ」
「奨学金の返済……」
「私を誰だと思っているかな?」

 あ、強権発動するんだ。侯爵家すげえ。さすが。
 ……ん? あれ、おかしいな。シュタインベルグって公爵だよな。侯爵より偉いんじゃなかったっけ? うん。問題ないらしいからいいや。気にしない。

 ……もう、いい加減言わないといけない。
 口にすれば、守られると同時に囲い込まれる一言を。

 ごくりと渇いた喉に生唾を流し込む。握ったこぶしの中がじっとり湿っている。
 首の皮すれすれを抜き身の刃が掠めていったときよりも、その一言を音にしようとするまでの今の方がずっと、ずっと背筋が寒い。

 自分でも、なんでこんなことに緊張してるんだって不思議でならない。
 簡単なことだ。ただ頭を下げればいいだけ。難しいことじゃない。プライドがあってできないわけでもない。ここで「そんなに渋るならこの話はなあったことに」ってなる方がずっと怖い。
 それなのに自分が理解できなくて、でも自己理解に割いてる場合じゃないから、おれは無理矢理声を作って口を開いた。

「よろしく……お願い、しま、す」

 絞り出した切れ切れの申告を、侯爵子息サマは、それはそれは満足げな笑みで受け取った。

 ……ああもうこの人絶対人使い荒い!
 でももう逃げられない。後戻りできない。四面楚歌から抜け道見つけて滑り込んだら漁夫の利狙ったこの人に上からがばっと鉄網かけられたみたいな。そんな心境。

 そんな獲物を捕らえた漁師は、茶封筒からわさっと書類を取り出してテーブルに並べ始めた文官にきらきらしいアメジストの目を向けた。

「よしジョエル。彼を無事捕獲できたことだし、早速来週、例の件に都合をつけて」
「そういう寝言はご自身の仕事を片づけてきてからほざいてください。執務室に形成されている書類の山がそろそろ雪崩を起こします」
「山を作っているのは私ではないよ」
「そうですね。貴方はそれを見て見ぬ振りして放置しているだけでしたね。今からこちらは事務手続きをしますので。ーー邪魔です」

 すげなくきっぱりあしらって侯爵子息サマとハラルドを問答無用で追い出した文官は、眉の間に板についた皺を刻んで「まったく……」と不平をもらした。仕方ないなって諦め半分じゃなくて、なんていうか、こう、吐き捨てるみたいに。え、主人……だよな。この文官の。侯爵子息サマって。……これだけで普段のこの人の苦労が忍ばれる。

 あとは淡々と、要項別に綺麗に揃えられた分厚い書類から、要点かいつまんで契約内容の説明を受けた。
 契約書に書いてある基本報酬の数値は、最初に内定もらったとこよりはるかに好待遇……というかもうおかしいレベルだった。誤記入かと思っておそるおそる文官に確認したら間違いじゃないって。
 ……なにこれ。侯爵家こっわ。

 言われたとおりにサインして拇印押して、この日からおれはエルディアード侯爵家、もとい侯爵子息サマ直属の「お庭番」になった。