季節は初夏を通り越し、夏本番。
イヴァンは温暖な冬国で、北部山間部の豪雪地帯を除けば長冬といっても積雪は少なく割と快適だ。反対に夏は短くて、昼日中でも日常生活程度なら軽く汗ばむ程度の気温までしか上がらない。総合的に見て、一年のうち気温変化の少ない、世界でも指折りの人間が住みやすい土地らしい。
ただし長冬の弊害として穀物をはじめとする農作物の多くを他国からの輸入に頼っていたり、暖冬のせいで冬眠しない害獣が街まで下りてきたりと問題もある。まぁ、でも鉱脈とかの代替資源が豊富だし、魔術師協会の本部を持ってる魔術大国っていう売りもあるから、物資も人も自然と集まってくる。
長く続いてた戦争……っても膠着状態だった期間がほとんどだったらしいけど、その決着がやっとついたのも大きいな。出入国規制が緩和されたおかげで、ある程度せき止められてた人の流れがイヴァンに向いた。そりゃそうだ。勝った方に流れてくよな、堅気の人間なら。
あぁ、なんか脱線した。
とにかくこの国、風土的に過ごしやすいってことなんだけど……こうして日がな一日馬上で、たいして仲良くもない知り合ったばかりの三十路目前の男と相乗りしている状況は、まったくもって喜ばしくない。
加齢臭するとまでは言わない。でも自分の倍近く年の開いた男の汗の臭いとか間近で感じたくねぇ。せっかくの気候の快適性を無にしないでほしい。
……相乗りってさ、普通素人の方が後ろに乗らね? そんなイメージあるんだけど。そう言って躊躇するおれに「野郎に後ろから抱きつかれろって? 寒気するわ。ごめんだね」なんてさらっと言ったしハラルド。
いや、おれだってやだよ。できればお一人様がいいよ。そういう趣味ねえもん。今だってハラルドが背もたれ的な感じだけど、めちゃくちゃ落ち着かねえよ。
王都より乾いた、砂埃混じりの風が心地よく感じられるのは……どういうわけかな……。ちくしょう、どうせ武術部に紛れ込んでたんだったら馬術の授業もとっておくんだった。
それはともかく、果てなく続く脳みそ揺さぶられる振動、慣れない高さと内腿の擦れるじんじんとした痛み、馴染みの薄い生き物に身をゆだねている不安。そして、先輩を自称してる他人同然の男に常に背後をとられてるっていう落ち着かないこの状況。
これらの不快感を頭から排除できるなんて芸当、もしできたら奇跡だと思う。
ここのところ就職先を求めて街中を駆け回っていた日々が続いてたから、街の外に出るのは、……一月ぶり。基礎剣術課程に混ざってたおかげで教官に「お前暇だろ」って武術部一年の課外演習につき合わされて以来。
内定もらってたとこからまさかの不採用通知くらったのはその演習から帰ってきた直後だったっけ。そこからおれの学生生活終わり際になってやってきたどん底の日々が……あ、やめよう。過ぎたことだ。
おれがエルディアード侯爵家に雇われて、一週間。
その間に、特例で指定の関係機関以外に就労する場合の奨学金免除手続きは、笑えるくらい簡単に終わった。
早い話が権力振りかざしてのごり押しだ。権力万歳。
こういうときだけ現金に諸手を上げるのは小市民の証だと思う。
ただ、おれがどんだけ足掻いてもどうにもできなかったことを軽々と解決されたのを深く考えると……複雑だ。第一おれを囲い込んでくれたのも権力だったんだし。結局は、おのれ権力、ってところに行き着くんだよな……。
で、その侯爵家サマ並びに非似王子サマの権威をこれでもかと見せつけてくれたクロヴィスは、書類仕事を先取り分まで片づけたことで視察という名の自由をもぎ取った。
やれば早いんだから溜めこまないで少しずつやればいいのにと愚痴っていたジョエルも、未決済書類もなにもないなら文句はないらしい。今回の視察にも素直に同行してる。
前の方で青毛の馬を駆るクロヴィスは、初めて外に出た深窓のお姫様かよってくらいにわかりやすくご満悦だ。醸し出す雰囲気が生き生きしてる。いい年した……つっても二十六だっていうから若いのか。それでもその年の兄ちゃんが町の外に出たくらいではしゃいでるってのもシュールな光景なんじゃないだろうか。
ハラルドが言ってたことには、クロヴィスは五年前まで国境線の部隊で隊長代理をしてたらしい。
その頃と変わって、父親である侯爵の補佐をしてる今はデスクワークばかりの屋敷から出ない生活で相当ストレスたまってる、ハラルド自身も鬱屈そうに言っていた。つまりあれは久々の解放感に浸ってる表れなわけな。納得。
しかし首をひねりたくなるのは、五年前ってちょうど四十年戦争が終わった時期、てことなんだよな。
国境線、て。
どこの国境線だよ。
まさか戦争後期で唯一の戦場になったウルスペディアとの国境線? ……行くわけないよな、そんなとこ。むしろ行かせないだろ。周囲が。でも終戦時期までっていう期間が引っかかるのと、将軍輩出しまくってる実力派エリート騎士の一族だし、もしかしたらとも思う。
話の流れで訊ければよかったんだけど、宿で朝飯食ってからこっち、数時間馬に揺さぶられ続けて、正直気力が尽きた。気を抜くともっさり硬い触感のたてがみに顔が埋まってく。その方が楽は楽なんだ。でもこの獣臭さが乗り物酔いを助長して……今度は胃が気持ち悪くなってくる。これでも昨日の出立直後に比べればだいぶマシになったんだけど。自分のことで手いっぱいで、他人の詮索とか今果てしなくどうでもいい。
クロヴィスのことは機会をあらためるか、帰ってからオースティに訊けばいい。
あいつは今、学年主任脅して卒論提出期限延ばさせて、半泣きしながら論文作ってる真っ最中のはずだ。二日前まで資料まとめと方向性の修正までは手伝ってはやったけど、帰っても終わってるかどうか。本人は散々卒業できなくて中退でもいいとか抜かしてたけど、やっぱり親に卒業はしておけって言われたらしい。そういうところはきっちりするやつだから、まぁ大丈夫だろう。……手段は選ばないけどな。
「おーい大丈夫かー」
たてがみに埋まったおれの呻きを拾ったらしいハラルドが、背中から声をかけてきた。余裕が恨めしい。
「……まだ、なんとか」
のっそりと頭を上げながら答えはしたけど、振動、もう、そろそろキツい……。大丈夫じゃないのはおれの方だ。
「お前軽くてよかったなー。馬の負担になるから軽い奴じゃなきゃ相乗りなんてできないしな。ただでさえ変なところに力が入るのに、自重のせいでそこ、内腿。だいぶクるだろ。体重あったらもっとヤバかったぞ」
「……特に役に立たない情報、どうも」
「まったく。どうせ相乗りするなら美人の女性だったらよかったものを。なぁにが悲しくて、こんっな口の減らないガキを乗せなきゃならんのよ。はー悲しい」
「おれだって、一人で乗れさえすりゃ、あんたみたいなおっさんとの相乗りなんて願い下げ」
「だからおっさんやめろ言ってるだろうが。俺まだ二十九! 二十代!」
「おっさんだよ十分」
「く……っ、そうなのか……十代から見て、やっぱり二十代後半はおっさんなのか……?! あ、じゃあ二十六のクロヴィスも四捨五入でおっさんだな」
「あれはまだおっさんじゃない」
「は? 判断基準どこよ」
「さあ。おっさんて言葉に過剰反応するところ?」
たぶんクロヴィスはしない。
どうでもいい会話で気を紛らわそうとしてくれてるのはわかるんだけど、ちょっとほっといてもらいたい気分でもある……。
「お、見えてきたな。喜べよ朗報だ。あそこで馬の旅が終わるぞ」
明朗な声にのろのろとたてがみから顔を離すと、なにもない野っ原が続いてるだけだった街道の先に、ぽつんと人工物が見える、気がする。
それはおれが目を凝らしている間にだんだんと近づいて、休憩地点の東屋だなと思う頃、馬のスピードはゆるゆると歩く程度になっていた。
「よし、少し休憩な。上がったらあとは歩きで、二時間くらいで着くはずだぞ」
「……馬の方が早いんじゃ?」
「お。余裕発言。馬好きになったか」
「全然」
むしろ願ったり叶ったりだ。
先を行っていた二人に倣い、ハラルドは井戸の近くで馬を止めた。一日半、おれを苛んでくれた馬の背中からこれ幸いと逃げ出す勢いで飛び降りて、自前の二本の足で降り立った地面はまだ揺れているように感じた。
「目立つのは極力避けたいから」
馬に負担をかけない静かな所作で地に足をつけながら言い聞かせるように言うと、ハラルドは井戸から汲み上げた水を馬に飲ませてからジョエルの方へ向かっていった。
今のうちに擦れに擦れた内腿に治癒魔術かけておこうと構成を練る。休憩のたびに使ってるのと精神疲労のせいで魔力も危険域にあるんだけど、放置したら満足に歩ける気がしない。
治癒の魔術は苦手だ。魔力消費が大きいし、より精密な治癒魔術の行使に必要な人体組織関連の知識をあんまり勉強しなかった。
治癒魔術ってのは生き物に元々備わってる自己治癒能力を無理矢理引き上げるっていう、下手に使えば対象の生命力を奪う危険性をはらんでる。元々そのへんのさじ加減が難しくて、自分に使うなんてさらに見極め困難。その道の手練でも、小さな怪我じゃない限り自己治癒なんかせず仲間に任せるのは魔術士であれば持ってる常識だ。
まさに今のおれの擦れ傷程度じゃどうってことにもならないけど……これが骨や内蔵の損傷をなんとかしようとしたら、痛みに集中力持ってかれて自己治癒力引き上げすぎて自滅すると思う。いや、その前に魔力尽きるのが早いな。悲しいことに。
おれが東屋の隅で治癒魔術を使っている間、主人の気まぐれにつき合わされているはずのハラルドとジョエルはうんざりする素振りなんて見せず、頭をつき合わせて真面目っぽい話をしてた。本来ならおれもあそこに混ざるべきなんだろうけど、王都を出る前に「とりあえずついてきてくれればいいよ」って言われてるから別に問題ないと思う。
それより今は自分の体調管理だ。ただでさえおれ体力ないし、移動で足を引っ張るのだけは避けたい。
クロヴィスは一人、厩に繋がれた自分の馬の背中を撫でながら、なにかを熱心に言い聞かせてるようだった。いい子で待ってろよとかそんな感じのことだろうな。
あー……あの、今にも鼻歌歌い出しそうな上機嫌な横顔……もういい加減にこの既視感にも飽きてくる。
南に広がる砂地の向こう、いつの間にかうっすらと浮かび上がっていた巨大な影に目を向ける。
巻き上がった砂で霞がかって見えるのは、イヴァン南東部の中心で、旅の中継地点として栄える貿易都市。
期せずしておれは、この砂埃の吹き抜ける街に戻ってきた。
残してきたものたちへの懐古の思いは浮かんでも、決して帰るところではない場所。
おれの始まりの街、エルシダ。