揺れないって素晴らしい。
 自分の足で大地を踏みしめて前に進むことがどれだけ自分が自分だと知らしめてくれるのか、おれは生まれて初めて実感した。
 悠々自適な自由旅じゃないし、馬での移動が一番速くて合理的っていうのはわかるんだけどさ……。

 ただ歩くだけでこんな哲学的認識に浸るくらいには、おれは馬という生き物に頼った移動に嫌気がさした。
 おれ絶対馬と相性悪い。あの地に足が着かない感じと振動、生理的に無理。そのうち乗馬を教えてやるなんてハラルドがぬかしてたけど、やっぱり謹んで辞退させてもらおう。おれ、辻馬車とか歩きでいい。その方が身軽だしこの人たちと、特にクロヴィスと一緒でなければ目立たない。

 治癒が十分効力を成してくれたおかげで、移動手段が徒歩に変わったあと大人三人に置いていかれるのは避けられた。けっこうなハイペースだったから、なんとか、って枕詞がつくんだけども。

 明らかに文官以外のイメージを持てないジョエルに抱いた淡い期待は無惨に消えた。……普通にいつもと変わんない涼しい顔で、時々おれを振り返っては気遣いの言葉をかけてくれた。詐欺だ。

『きみはまだ学生で、本分は魔術師だ。つまり騎士である自分たちにとって庇護対象ということになる。倒れられてもあそこの体力馬鹿に担がせればいいので問題ないが、一人の社会人としては限界になる前に申し出るように』

 ……って。途中までの優しさが、ハラルドの罵倒と心構えに持ってかれて、この人の中でなにが一番重きが置かれてるのかがわかんなくなった。一応、優しさと受け取っておけばいいのかなと思うことにする。

 同じく、ほどよく筋肉ついたいいガタイしてるけど、最近デスクワークが多いっていうクロヴィスに抱いた、体なまってるんじゃね、という期待も脆く崩れた。むしろ先頭きって颯爽と進んでったよあの人……。

 時々さらさらした砂に足を取られかける以外はおおむね快適な徒歩の旅は、地獄の馬上に比べれば一瞬に感じられる時間で終わった。
 おれたちがエルシダの街門に着いたのは、あと一時間もすれば西の空が朱に染まるだろうかという絶妙の時間帯。街の周囲を哨戒していたと思われる重装備の警備兵が数人、おれたちの横を足速に通り過ぎていく。門の内側で談笑してた同じ出で立ちをした男たちが、彼らに気づいて居住まいを正した。おそらく交代要員なんだろう。

「エルシダは貿易街だからな。地方都市群の中でも重要地点ってことで、外周警備の規模も王都とさほど変わらない。さっきすれ違ったのは記章から判断して第六班だったな。いくつかの班に分かれての哨戒は基本だ。ちなみに時間で動きを読まれないよう交代時間を疎らにするのは軍の規定で定められてる」

 引き継ぎを終えた兵たちが街の外へ出ていくのを目で追うと、前を行くクロヴィスの側にいたはずのハラルドが、いつの間にかおれの横にいて小声で解説してきた。さっきまでハラルドがいた位置には示し合わせて入れ替わったようにジョエルがおさまっている。こういう動きは本当に、洗練された軍人だ。

「……記章なんて、してたっけ」
「あった。襟のここの部分。今は外してるが俺もクロヴィスもジョエルも普段はしてるぞ。階級を示すものだからな。軍に所属する者は任務中の付帯が義務づけられる」

 へぇと感嘆する。感嘆しか出てこないと言った方が正しい。これ、どうでもいいとかじゃなくて感心の感嘆だから。

 なるほど? よく考えると階級主義の軍なら、一目でわかるラベリングがされていて当然だな。命令系統を確立するには確かに必要だよな。従う人間と従わせる人間を、説明なしでお互い認識しあうには。学院でネクタイとリボンの色で学年を示すのと似たようなもんだな。

「そのうちでいいから覚えとけ。お前は軍に所属ってわけじゃなくて私兵扱いだから、そんなもんないがな」
「あってつけてたら、ここの家の人間が動き回ってるってひけらかすようなもんだろ」

 街のもっとも外周上に位置する人も疎らな道を前の二人について進みながら、記章の話で遮られた警備の話をおれの方から口にする。

「……それにしてもここ、外にこんな厳重警戒してたんだ」
「お前、ここにいたのは十にもならない年までだったっけ? そのくらいのガキじゃ知らなくて当然だろうさ。それぞれの街の特徴もこれから覚えろよ。知っててもらわないと仕事任せられないからな。新人は覚えることばっかで大変だな?」
「ご心配なく。覚えるのは得意なんで。質問責め覚悟しといて」

 シニカルな笑みを浮かべたハラルドは、たぶん表情にふさわしい皮肉かなにかを口にしようとしたんだと思う。
 推察になったのは、それが音になる前におれがこう続けたからだ。

「学院でおれの担当したことある教官、結構な確率で胃悪くして休職したんだよね。質問責めにしすぎたせいだって言われた。友達に」

 これを耳にした瞬間のハラルドの表情、なんて表せばいいのか。
 見たそのまんまを言うなら、石化。直前まで浮かべていて表情に怪訝と引きつりを混ぜこんだ、前後を知らない人間が見れば立派な変顔。
 ハラルドが呼吸以下全ての動きを止めてたのは、数えていたとすれば七秒程度の時間だった。しかしそれだけ足を止めていれば前を歩いている二人との距離が開く。案の定、不審に感じたらしいジョエルが訝しそうに首を巡らせていた。

「……お前……そういうのさ、真顔で言うのやめてくれ。マジ話に聞こえる」
「いやホントの話」

 僅かに眉値を寄せているジョエルになんでもないと手背を振ってから、ハラルドはげっそりして息を吐き出した。

「……お手柔らかに頼むわ、後輩」




 日が暮れ始めた頃到着した宿は、おれたちがくぐった街門からすぐ近く、旅人がよく利用する区画のこぢんまりとした建物だった。
 街まで来れば道中泊まった宿場と違って、もっと中心部の豪勢なところに泊まるものだと思ってたから肩すかしを食らった気分だ。豪勢だったら豪勢で、これだから金持ちはとか思うんだろうけど。おれ以外の面子の身分はともかく、身なりは普通の旅人に合わせてきてるから、こっちので当然といえば当然なんだろう。

 なんというか、いろいろ柔軟。侯爵子息サマ。
 平服着てるクロヴィスとか、最初マジ似合ってなくて笑いを堪えるの大変だった。今は目が慣れて気にならなくなったけど、やっぱり違和感拭えないんだよな。服が雰囲気に馴染んでない。
 通行人から不躾に視線を感じたし、宿の受付の親父も妙にへりくだった態度だし。変装の意味が薄いというか、逆に目立ってる気がするのは気のせいじゃないと思う。





「飲むかい?」

 風呂から戻った後、クロヴィスが突然そんなことを言い出した。
 浴場が備えつけられてる宿なんて最高級のランクでないとあり得ない。ここも例に漏れない安宿だったから近くの浴場施設を使わなければならなくて、地味に面倒だったわけだけど。いや、今そんなことどうでもいい。

 コルク栓を開けられた瓶から漂ってくる匂いは甘くはあったけど鼻の奥をつんと刺激するアルコールのそれで……返答に詰まるおれにかまわず、既にクロヴィスはいつの間に用意したのか二つのグラスに瓶を傾けていた。
 部屋に備え付けられた安っぽいグラスにとくとくと注がれる液体は、濁りなく透き通った黄金色。あ、これ間違いなく高級品。

 お守り役――ならぬ、側近二人はここにいない。
 最初部屋に入った時点でジョエルは一部の荷物を持ってどこかへ行ってしまったし、ハラルドもその後すぐに夜の街に消えてしまった。
 おかげでおれは、まだそこまで会話を交わしたことのないクロヴィスと二人で夕食を共にする羽目に陥ったわけなんだけど。ああ、そうじゃなくて。どうしよう。この有無を言わさず酒を勧めてくる侯爵子息サマ。

 この国、十五才で成人認定飲酒オッケーの国だから、未成年を盾に断れない。ベルテやオースティの説明じゃ、十五才は社交界デビュー云々がどうのだから成人年齢もそれに合わせてるとか言ってたな、たしか。どうでもいい知識だって解釈したからそれくらいしか覚えてないけど。

「蜂蜜酒だから大丈夫だよ。甘めのものを選んできたから君の好みにも合うと思うよ。私も強い酒は苦手でね、きつかったら水で割るといいよ」

 いや、大丈夫って。そりゃ少しなら大丈夫だけど。アイザックに連れてかれた武道部のやつらとの馬鹿騒ぎで飲まされたから、まったく初めてじゃないけど。……なんでこの人、おれが甘党だって知ってんの。そんなことまで調べたの。

 まだしっとり水分を含んだ髪を昼間より低い位置で束ねたクロヴィスがグラスを傾ける姿は、なんていうか……おれからでも色気が目に見える。
 この人、決して女っぽいわけじゃないんだけどさ、男っぽくもないんだよな。かといって中性的ってわけでもなくて。自分でもわけわかんないな。とにかくなにこの色気。艶。つい、目を背けたくなる。

「……じゃ遠慮なく」

 これ断るの失礼だよな、たぶん。あとは純粋に手の出ないレベルのものを飲んでみたい好奇心に駆られて、吸収の悪いタオルで適当にかき回した頭をぶるると振ってそう答えた。「猫みたいだね」と笑われた。

 侯爵子息サマが手ずから注いでくださった黄金色の蜂蜜酒は、とろりとした口当たりに違わない甘さを脳に伝えた。ただ甘いだけじゃない。後味がすっきりしてクセをあとに残さない、発酵モノとは思えない爽やかさをもった甘さだ。
 これ絶対高い。侯爵子息サマが出したって時点で間違いないけど絶対高い。そんな味する。
 あと、舐める程度しか含んでないのに喉が焼ける感じしたからアルコール度数もだいぶ高いと思うんですけど。誰、強い酒苦手って言ったくせにストレートで涼しい顔して飲んでるのは。

「どうかな。父上の酒蔵から失敬してきた五十年ものなのだけれど」

 むせた。
 アルコールの強さも相まって。

「ちょ、……っ!」

 なんつう高級品おれに飲ませたっ!
 父上って、つまり侯爵……っ、もしかしなくてもこれは共犯に仕立てあげられた……!
 盛大にむせ返るおれを見て、クロヴィスはこれまた涼しそうに笑ってるわけだけど、変なところに入ったみたいで文句言う余裕がない。ちくしょう。

「平気平気。父上は集めるだけ集めて眺めて楽しむだけで、自分では飲まないのだよ。情けないことに下戸でね。だから、たまにこうしてこっそり在庫を減らして棚に空きを作って、父上の楽しみを増やしてさしあげているというわけだよ。酒にしてみても人目につかない場所でただ並べられておかれるより、こうやって飲まれる方が幸せだと思わないかな?」

 理屈こねてるけどさ、つまりそういう名分作って酒ちょろまかしてるだけだろ。しかもこの悪びれなさ、絶対、常習だ。
 
「ところでラト、もしかすると君の周りには私のような人間がいたのかな」

 蜂蜜酒の瓶に視線を留め、侯爵子息サマは二杯目のグラスを揺らす。
 最初に勧められたように水差しから水を注げるだけ注いでアルコールを薄めていた最中だったおれは、突然切り替わった話題に気を取られ、グラスから蜂蜜酒の水割りを溢れさせた。思わずうわっと小さく声を上げ、頭を拭いたタオルをひっつかむ。

「はあ。クロヴィス、サマみたいな、っていうのは?」

 侯爵子息サマが笑みを刻む。
 テーブルにこぼれた香り立つ液体を、あまりのもったいなさに若干震える手で拭きながら口にしたおれの、とってつけたぎこちない敬称を指摘して。

「言葉遣い。最初みたいに砕けた話し方でいいって、言ったよね?」

 そうなのだ。
 オースティとベルテに脅されておれがせっかく直した言葉遣いを、このヒトはこうやっていちいちダメ出ししてくるのだ。

 おれにハラルドみたいな気心知れたフランクさを求めないでほしい。あっちはこう、周囲にも知れた長い信頼関係なんだろうけど、おれはつい一週間前にひょいっとすくわれた雇用される立場なわけだ。そんなのにタメ口許すとかなにふざけたこと言ってるんだ。いや、一番ふざけてたのは契約結びに行ったその場所でナメた口ききまくったおれなんだけどさ。

「いや、やっぱりそれはちょっと色々マズいと思う、ん、ですけど」
「お願いでだめだというなら命令にしようか。君も喋りにくそうだし」
「いやあの、ホント勘弁して」
「そう、それだよ。そんな感じでよろしく頼むよ」

 ください、と声に出す前に丁寧語を遮った侯爵子息サマ。強い。逆らえない。

「私のような人間というのは、まあ、そのままだよ。強いて言うとすれば今のようなやり取りかな。覚えはないかい?」

 満足げにグラスを傾けるクロヴィスの紫の瞳が、アルコールの色をはらんで、気だるげな艶をいっそう深く刻んでいる。
 ありすぎるほどに。覚えがあった。

「……おれの、養い親が」

 グラスの淵までいっぱいになった蜂蜜酒の水面に目を落とし、一口すすった。強すぎるアルコールとともに薄まった甘さが、ふわりとした酩酊をともなって喉を通り過ぎていく。

「まるっきり、同じ感じで。絡みにくいとことか、勿体ぶった話し方とか。笑いながら相手を黙殺させること言うのとか。目の色まで、そっくりで」

 時々、少し怖くなる。
 最後の言葉は飲み込んだ。それが自分でも不可解な感覚だったから。

「目の色が?」

 下からなで上げられるような声に、ぞくりと肌が粟立った。
 ゆっくりと視線を持ち上げていく。上目遣いに見たクロヴィスの瞳に、殺気とすら思えるくらいの感情を覚えた。
 おれは、なにかまずいことを言ったんだろうか。
 確かに珍しい色だけど、それはこんなに、クロヴィスを気色ばませるほどの意味を持っているのか? そんな、馬鹿な話。たかが身体的特徴の一つで。

「青っぽい、紫、で」

 黙秘の選択は浮かばなかった。ただ事実だけを述べたおれの応えにそうかと呟いて、表情をなくしていたクロヴィスがふっと意味深な、いつものものとは種類を違えた笑みを浮かべる。口元がひきつった。

「ねえラト。御義母堂から、彼女自身の肉親についての話を聞いたことはあるかな」
「……兄から逃げてる、ってのを、本人以外からなら一度」
「ご両親については?」
「それは一切」
「そう」

 この流れで「実は私には生き別れのきょうだいがいてね」、なんて使い古された過去話が始まっても少しも不思議じゃなかったけど、あいにくか幸いか、「いつかお会いしてみたいね」を最後にクロヴィスは自分からこの話題を切り上げた。

 一口すすった甘いはずの蜂蜜酒に、もはや味を感じなかった。