不慣れな移動で疲れの取れない体にいきなり差し込んでくる朝日とか、殺人的。
いつもなら目覚めと同時に今日の予定や前夜に読んでいた本の内容を思い出せるってのに、頭に霞がかって使いものにならない。昨日の酒が残ってるせいじゃない。そもそも次の日に残るほど飲まなかった。これは全部、慣れない乗馬のせいだ。
全身、特に背中が凝り固まってる。背筋に変な力入れてたんだな。それもこれも全部、馬なんて生き物が、騎士サマ方の通常移動手段としての地位を確立なんかしてるせいだ。
罪のない馬に脳内で呪詛を吐きながら寝返りを打ちつつ掛け布団で光を遮断する。そんなおれの行動は不本意にも同室の人間とシンクロしていたらしかった。
「いい加減に起きろ」
張りのある声と、布がばさりと勢いつけて風を切る音がほとんど同時にびりりと響く。それはたいして大きな声でも音でもなかったくせに、空気を斬り裂く破壊力をもっていた。
ああ……カーテン開けてくれた犯人はあんたか、ジョエル。
暢気に頭の隅で推察できたのは、おれがまだ、さらりと軽い肌触りの掛け布団にくるまったミノムシ状態を保っていたからだ。
「勘弁してくれ……俺、帰ってきたの明け方よ……? 脳がブルブルする……」
無情にも布団をはぎ取られたらしいハラルドがむにゃむにゃと主張している。もっと早く戻ってきてろよ、なんてこっそり思っている場合じゃない。気配が、重々しく、近づいてくる。
……と思ったら、ジョエルはすいっとおれの横を素通りして――え、そっちも? てっきり完璧に支度整えて、やあおはようとか言って朝っぱらから無駄に輝いてそう、とか勝手に想像してたんだけど。
「貴方もです。起こされないといつまででも起きないなどという悪癖、せめて自室でだけにしてください」
こっちはさすがに力技を使うわけにはいかないんだろうな。さっきより大きく聞こえる声が若干くぐもっているから、たぶん耳元で怒鳴られてる。それ地味にクる。
そしてこうやって聴覚情報で事態を見守る――つまり他人事だと引いてる間に、おれの頭は完全覚醒した。脳が最後の後ろ髪を引くような特大の欠伸をやりすごしてから、おれはもうそれほどの未練を感じずにミノムシから脱却した。
跳ねまくった髪をがしがし掻きながら横を向くと、耳引っ張られてねちねちと結構な音量の小言くらってる侯爵子息サマ。昨日の殺気すら感じた迫力なんて微塵もない。
前を見ると、抱き抱えた枕に頭を埋めたハラルドが目に入る。普段の余裕とか微塵も感じられない。二人とも。ていうかハラルドはともかくとして、これ主人の正しい起こし方? ……違うだろ絶対これ。
朝って人間の本性をさらけ出させるよな――
まだ少し残っていた欠伸が生んだ涙と鼻水を軽くすすり、備え付けの洗面台に向かってそう思った。
『自分たちは視察の名目でエルシダに来たわけだが、喜ばしくないことにこの方といると嫌でも目立つ。この先君に求める仕事上、この方と結びつけて顔を覚えられるのは好ましくない。必然敵に君には基本的には別行動を取ってもらうことになる』
あのまま部屋にいたらハラルドに対ジョエルのバリケードにされかねない。純粋に力じゃかなわないハラルドにホールドされて、おれに関係ない小言一緒に聞かなきゃいけないとかなにその拷問。ジョエル、その状況でおれへの配慮してくんなそうだし。侯爵子息サマは未練がましくベッドに貼りついてるし。
そういうわけで、クロヴィスの耳を引っ張り続けるジョエルからそんなお達しを受けたおれは適当に身支度を整えてから早々に逃げ出した。
振り回されてる感ハンパない。
だいたい出発からして突然だった。この一週間でエルディアード邸の門をくぐるのに慣れてきたかなと思った矢先、「明日からエルシダ行くから用意してこいよ」ってハラルドが。しかも帰りがけ、いかにも思い出した風に。思わず「はぁ?!」って間抜けな声上げちまったじゃん。しかも二回。
早く言えよとか、そんな急に言われてもとかの文句をハラルドに浴びせたけど、……実は、すぐ、諦めはついてた。
だって慣れてる。この、おれに決定権のないカンジ。
そんなとこまでそっくりだ。あの侯爵子息サマとおれの元養い親は。
昨日の侯爵子息サマとの会話が尾を引いてたようで、ラムロットでの生活を思い出すのはいつも以上に容易だった。決定権なしって連想で引っ張り出された記憶は、……うん。ろくなもんじゃない。
あのヒトたちは基本的に最終決定権はおれにくれはする。問答無用でくれないことも多々あるけど、基本的には選ばせてくれる。選択肢が、はいとイエスしか用意されてない場合も半々くらいの確率であるけども。……あれ、これって決定権あるんだろうか。いやいや、あった。あったはず。固定選択肢が用意されてるのはだいたいで結構どうでもいいことだった。……はず。
昨日のクロヴィスの様子もあるし、これでホントに生き別れのきょうだいかなんかだったら笑えるなんて実際そうだったら全然笑えないことを想像しながら、おれは人通りもまばらな町を見渡した。
「時間、早……」
ゆったりとした足取りで散歩する風体の老人、道の真ん中を我が物顔で悠々と闊歩する猫。その横を、荷車に大きくふくらんだ麻袋を乗せた若い男が特大のあくびをしながら通り過ぎる。明らかに、街としての機能がまだ動き出していないと知れる。ジョエルの起床時間設定、早すぎ。これはハラルドでなくてももうちょっと寝かせろと思う。
朝飯も調達したいし他に目的ないし、店が開く時間まで適当にそこらをぶらぶらするか――適当な方向に歩きだしてすぐに、街のあちこちから立ちのぼる白煙が目についた。
砂埃を押し退けて、香ばしい匂いに、嗅覚が、記憶が刺激される。
「あのパン屋、早かったっけな」
下町で一番早くから開けてた店が近くにあったはずなのを思い出した。あった。あの、緑色の三角屋根。絶え間なく白煙が昇ってる。
「いらっしゃい、おはようございます!」
ドアの小さな鐘が立てる、からんと乾いた音。外までふわりと漂う香ばしい匂いの源に包まれる。音に連動して若い女が明るい笑顔で出迎えた。パンを籠に並べていた恰幅のいい若い男もそれに倣う。
売り物にならない焦げたパンを目当てにネズミみたいにゴミ箱を漁ってた自分の汚い手が、見えた気がした。焦げパンはいつの間にかわざと生ゴミと一緒にされるようになってた。ああそうだ、優しそうに見えたパン屋の見習いがくれた卵が腐ってたなんてこともあった。で、滅多に手に入らない高級品に疑いなんて持たずに食って、当然腹を下した。あんときは死ぬかと思った。
一度開いた記憶の扉が次々に連鎖反応を起こしていく。同時に、笑顔で迎えられたことに激しい違和感を覚える。
……今おれは客なんだから、当然だって。迎えられて当然。そう自分に言い聞かせても違和感は逃げていってくれなかった。
気がつくと男の店員がおれから女と客をかばうように目の前に立っていた。困った犬のような眉毛が、険しげに顰められている。ドアを開けただけで突っ立っていれば、そりゃ怪しい。
「……ちょっと、前に来た店で合ってるかどうか、思い出そうとしてて」
半分くらいはあながち嘘とも言えない言い訳をしている途中でふっと気がついた。
こいつ、アレだ。あの見習いだ。卵の。
昔と比べてずいぶん横に広がってるけど、このムク犬っぽいぽわんとした眉毛、間違いない。さっき掘り起こしたばかりの記憶にばっちり該当してる。
「あ、ああ、そうでしたか! すみません、失礼なことを」
「……気にしてない」
あの程度を気にしてたら生きてこれてない。あの侯爵子息サマの下にいる限り、きっとこの先も推してしかるべし。
おれを不審人物ではないと判断したらしく、揃いの白いエプロンをつけた男女の店員は何事もなかったように仕事に戻っていった。
おれの他には母親と子どもが一人。母親のスカートの裾を握って形大きさ様々な焼きたてパンに心を奪われ目を移ろわせていた子どもが、おれと目が合うとにぱりと笑った。
「おにいちゃん、ここはじめてー?」
「昔来たことはあるけど、ほとんど初めて」
買ったことはないと言うと、子どもはにたりと自慢げに胸を張り、籠の一つを指さした。
「じゃあこれ、ここのおすすめ! オレのいちばんすきなやつ。ふわふわで、あまーくっておいしーよ!」
「あんたの好みはいいのよ。それより自分のは決まったの?」
これーと悪びれなく子どもが指し示したのは、同じ籠。丸パンと一緒に所望の品を紙袋に入れてもらっている横で、子どもは背伸びして店員の一挙一動を見守っている。
体いっぱいを使って手を振る子どもに軽く応えてから、おれは子どものお墨付きを受けたパンの籠を示して同じものを二つ包んでもらう。寝起きの頭に甘さが欲しかった。カウンターの端に並んだ牛乳瓶も一つ。
「見ない顔だけど、前も来てくれたことがあるってことは……定期行商してる団商んとこの子?」
「……まあ、そんなところ?」
おれの適当な答えに、釣りの硬貨を数えながらムク犬似の男が「なんで疑問系なの」と笑った。笑った顔まで困って見える。
「ここの前はどこに行ったんだい?」
「王都」
「へぇ、羨ましいなぁ。エルシダも大きな街だけど、王都はもっと洗練されて華やかで、ここの足下にも及ばないんだろうなぁ。はぁ……僕も王都に店を出して、成功の一歩を踏み出してみたいよ」
「そういう身の程知らずな夢を語るのは、せめて師匠に免許皆伝もらって店を任されてからの方がいいんじゃないのかなー、と」
通りがかりにわざとらしく煽ったのは、奥から焼きあがったパン籠を抱えてきたさっきの女だ。なるほど。まだ見習いをしているのか。
見習い男は見る間に顔を赤らめて釈明を始めた。適当にあしらわれる様子に、尻に敷かれているのを理解する。うん、そんなん知ってもなんの益にもならない。
「と、とにかくさ、そのパンは僕が焼いたものなんだよね。まだ何日かエルシダにいるの? そっか、じゃあさ、王都でも通用する味かどうか、もしよかったらでいいんだ。教えてくれないかな。ね、気が向いたらでいいから。頼むよ!」
へにゃりと元々下がった眉尻をさらに下げ、ぱんと両手を合わせて拝んでくる犬似の男。いや、拝まれても。
昔、親切そうな顔して孤児に腐った卵渡してくるようなやつには無理だと思う、なんて言葉が一瞬口をつきかけて、即座に頭から叩き出す。
学院生活で養われた常識でーー考えるとろくな常識養われてない気がするな。うん、それはいい。ともかく一般常識で考えて、ここは間違っても毒を吐く場所じゃない。こっちの若い女、絶対彼女か奥さんかって感じだろ。そんな近い間柄、おれの推察が間違っていたとしても同僚には違いない人間の前で十年は昔の話混ぜっ返されて困るのはおれも同じだし。
そんなことを一瞬で考えた結果、おれは「気が向いたら」とだけ答えてそそくさと店を出た。ドアを閉めてなお店の中から、頼むよーという念押しと、しつこい! って突っ込みが聞こえてくる。外部者から見れば微笑ましい光景なんだろう。でもおれは、冷めた気持ちで背中を向けていた。
昔のことを恨みに思っているわけじゃないと思う。
たぶん、今着実に未来をつかもうとしている好青年が少年だったとき持っていた、きっと一瞬の裏の顔。それを知っているおれが近づくのはよくないという思いが働いた。今のあの人たちには関係ない。これはおれが勝手にはかった『他人』との距離。
温もりを伝える紙袋を抱え直し、はぁ、とため息をつく。
おれ、エルシダにいる間に何回こういう心理状態に陥るんだろう。朝一番からこれって。ていうかココなにしに来ていつまで滞在するんだよ侯爵子息サマ。
うんざりしつつ何気なく隙間見た紙袋の一番上には頼んでもいないクッキーが一枚乗せられていた。
犬の顔の形をしたその厚意は、受け取ることにしておいた。