一人で朝飯を食ってる人間のちらほらうかがえる道脇の小広場で、隅のベンチを陣取ってパンにかじりつく。
まだほんのりとあたたかいそれは、なるほど、勧めた子どもの言うとおりに甘い。すっきりした後味なのは、甘いのが生地全体じゃなくて一緒に練り込まれたりんごのフィリングだからだ。小さく、しかし歯ごたえを楽しむには丁度いい大きさに切られたりんごは少し芯が残っていて、噛むたびに軽くしゃくりと音がする。ふっかりしたパンと絶妙なマッチング。
これは帰りがけにでも寄ってやっていいかもしれない、そんな感想を持ちながら一気に半分を腹の中に収めたところで、すいっと視線を持ち上げる。
超見てる。
自意識過剰? いや、そんなはずない。斜め前から無視できないくらいの距離で、がっつりおれに――正確に言えばおれの手元に向けられた視線。これを自意識過剰とみなすなら、そいつの眼球はいったん取り出して湧き水で洗ってからはめ直した方がいい。
……あのパン屋を出てからずっとなんだよな。ここにくる途中、通りがかった開店直後の焼鳥屋を急かして串焼きを焼かせてるときも、名物だっていう謳い文句のどこででも売ってそうな饅頭屋のぞいてるときも、背後から突き刺さる視線。隠れてこっそりどころじゃない、むしろ隠すつもりないだろわざとだろってくらいの熱視線。
やられる側に立って初めて実感できる。これ、人選を間違えなければホント効果的。犬とか好きな人間はたぶん無視できない。そんな腹を空かせた野良犬を思わせる態度と雰囲気は、こいつらにとっては立派な武器だ。
おれは動物全般そんなに好きじゃないし、無視しようと思えばいくらでもできる。やってるのが大人だったら完全無視だ。自分で調達できるだろって話だ。でもそいつはおれよりだいぶ年下の子どもで、お世辞にも楽して生きてるなんて思えない出で立ちだ。昔のおれと、同じ。
及第点はくれてやる。上から目線に評定して、おれは視線の主を手招いた。
にへらっと表情を明るくしたそいつが小走りに近づいて、手の届くか届かないかの位置で止まった。こいつ相当慣れてやがる。
にこにこと無害そうに『見える』笑みを向けてくるそいつに、おれは身振りで紙袋を置いてあるのとは反対側の、自分の隣をぽふりと叩いた。そいつは口の端をわずかに下げて難色を示した。それも、正解。こういうタカリはモノだけもらって姿を消すのが手堅い。だがタダでお恵みなんてしてやるつもりはない。おれは半分になったりんごのパンを見せつけて。
「来ないならやらない」
かじりつきながら、最初にして最後の通告を通達した。
八才、いや九才くらいいってるか。棒っきれみたいな手足を服からのぞかせたそいつは、野良犬みたいにこっちの意図を探ろうと距離をはかる。が、そう時間をかけずにこっちのパーソナルゾーンに入るのを承諾したらしい。ベンチのおれの隣に収まると、紙袋から出して渡そうとしたパンを俊敏な動きで奪い取って、勢いつけてかぶりついた。よく噛みもしないで胃袋にパンを収めていく食べ方は、リスかネズミか、そんな小動物を連想させられる。
そうか、おれ、こんなふうに見えてたわけか……立場の逆転で見えたかつての自分の姿に、微妙な笑いが禁じ得ない。
あっという間にパンを平らげてしまったそいつに油紙から鳥の串焼きも出してやると、やはりそちらも奪い取られた。危なっ。やっぱりおれの分先に取ってくわえといてよかった。
口の周りをべったべたにして、むしゃぶりつく、そんな表現がぴったりの食べっぷりを眺めながら、おれもくわえてた串焼きを片づけにかかる。いや、もちろんそれなりにキレイめに。
丸飲んでんじゃねぇのって早さで先に食べ終えたそいつは油とタレを、サイズの合ってない薄汚れた服の袖口でぐしゃぐしゃっと適当に拭い、残った串をぽいっと放った。汚ねぇなおい。身に覚えのありすぎる、思えば普通にやってたなっていう行動がいちいち気になるのは、そういう境遇から脱却した後に身を置いた環境が、比較して綺麗でお行儀がよすぎたせいだな、これ。
気づけば意外と開いていた昔の自分とのギャップに乾いた笑いをとばして、地面に転がった串を拾い上げる。……なんでおれがこいつの後始末して下町の美化活動に一役買わなきゃなんねぇの。おかしいだろ。
「おまえ、どこんとこのヤツ?」
一本しかない牛乳の瓶を一人で飲もうかそれとも否か、頭の隅で天秤にかけながら、おれはまだなにか出てこないかと期待に目を輝かせているそいつに投げかけた。
「下町のすみっこの貧民街」
「そんなん見りゃわかる。そうじゃなくて、どこかのグループ入ってるんだろ。それがどこかって聞いてんの」
そいつは丸い飴色の目をぎらりと光らせて、雰囲気を一変させた。
下手な動きをしようものなら逃げられる。警戒心が強くて結構なことだ。……いざ外側からつつこうと思うと、案外扱い、難しいんだな。
「にーちゃんなんか調べてんの? オレからなんか聞き出そうって? だったら、ただでってわけにはいかねーなー」
「いや、べつに調べてるわけじゃないんだけど。ただおれ最近のここの情勢とかなんの前情報もなしに引きずられてきたから。おまえら、そういうの詳しいだろ。あと、今のパンと串焼きでもうタダじゃない。こっちは恵んでやったつもりはない。だから対価を求めるのは当たり前」
きっぱり前金支払い済みを告げてやると、そいつは不服そうに口をとがらせて、えーだのオーボーだのと文句を垂れやがった。礼の一つも言わないでなにが横暴だよ口のきき方がなってない……って、おれも人のこと言えないな。この一週間でジョエルに『身分階級云々以前に、君はまず年長者に対しての口のきき方に問題がある。すぐにとは言わないが直していくように』って何回苦言を呈されたことか……。
「ま、いーや。にーちゃんさぁ、オレらとごドウハイってやつだろ?」
うって変わったけろりとした顔でそいつは言った。地面につかないはだしの足をぶらぶらさせて。
「……わかんの?」
「わかるわかる。だってあのパン屋の夫婦のチワゲンカ見て、ケッ、ってカオしてたもん。フツーのやつらはみんなさ、なまぬるーいカオすんの。それ見てさぁ、あーこのにーちゃん絶対オレらの方だーって思った」
「あ、そう。そこ」
そこで判別したのか。ていうかあの見習いと店員の女、夫婦だったのか。改めて、余計なこと言わなくてよかった。
「ごドウハイのよしみ? てーの? もあるし、仕方ねーな。よし、オレの知ってることでよけりゃ教えてやるよ。耳かっぽじって聞いとけよ!」
にかりと異様に白く見える歯をむき出しに笑って、そいつは偉そうに腕を組む。
「にーちゃん口はともかく腕っぷし弱そうだから、下町ひとりで歩くのさ、気をつけた方がいーよ。昼間でも。最近このへんブッソウだからさぁ」
「へえ。そう」
いやこの界隈は最近じゃなくてもそれなりに物騒だろと思ったが、相槌だけで先を促す。
「にーちゃんエルシダ来たばっかだって言ったっけ。中央広場にも行ってねぇの? なんか張り紙出されてるらしーよ。スリ・強盗にゲンジュー注意って。あ、いっとくけどオレらカンケイねーかんな。オレらのグループはリーダーがそういうのキライでしねーもん。最近さ、なんかムカシここでそういうことしてたヤツらが出戻ってきてさ、オレらも困ってんだよね。フーヒョーヒガイっての? しかもそいつらのアタマ、ウチのリーダーのムカシのアタマだったらしくってさー。リーダーどっちかってーと頭脳派だから腕っぷし強くなくてさ、逆らえないみたいでさー。もーちょっとちゃんとしろよーとか思うんだけど、でもちょっと頼りないとこが仕方ねーなーオレらがちゃんとしなきゃなーって思わせる、リーダーのいいとこっていうかー」
途中からリーダーへの愚痴に、しまいにはノロケにシフトした。これだから子どもってのは理路整然の真逆を突っ走ってくれる生き物だ。そこまで支離滅裂とはしてなくて、時系列はしっかりしてたから聞いててイラつきはしなかったけども。
でも情報の提供者がこいつで、享受者がおれだからこそ繋ぎ合わせられたことがある。
「なにその面倒極まりない状況、ってか、……今更、なにソレ…………」
思わずぼそりと漏らした心の声に、そいつはおれの事情を知った風な顔をして「そうだろーメンドクサイだろー」と相づちを打った。
どうする、と自問する。
背を向けてここを後にした身のおれがノコノコ出ていったところでそれこそ今更だ。お呼びじゃないに決まってる。
でもこいつの話が全部間違いでなかったとしたら、それはおれにとって無関係な話じゃない。むしろ、当事者といっていいかもしれない。
どうする。
どうするのが、正しい。
――頭に浮かんだそんな言葉、「正しさ」とか「こうするべき」とか。
そんなものが、今、おれにとって大切なことか? おれは「どうしたい」?
最後の自問に呆気ないほど簡単に出てきた答えは、きっと間違いじゃないと思う。
そう教えてくれた人がいる。
「おまえらのリーダーさ。どこに行ったら会える?」
犬顔のクッキーをちらつかせたおれの顔は、悪い顔だったに違いなかった。