魔術師と呼ばれるためにはパスしなきゃならない資格試験があって、それに合格することで晴れて協会の組合員としての称号「魔術師」を名乗ることができる。
 そうじゃない魔術を使える人間は「魔術士」って呼ばれるわけだけど、おれらにとっては当たり前のこの分類、あんまり認識されてないのが実状だ。
 魔術を使える人間の数が絶対的に少ないのもあって、世間一般のやつらは「魔術が使える=魔術師」程度にしか思ってないんだとか。そうだよな、魔術から縁遠い人間はどっちだって変わんないもんな。ほとんど直接関わんないから。

 魔術師の称号を発行する世界共通機関「魔術師協会」。
 通称、協会。

 その発祥地で総本山がこの国、イヴァンの王都の中心部にある。
 王家の始祖が立ち上げに携わった関係で、協会は今でもイヴァンの国の中枢に関わってるんだそうだ。王立学院自体は国立教育機関なのに、魔術部に限っては同時に魔術師協会付属っていう二重組織状態は、それのわかりやすい関係性だ。それは別に構わないんだけど……そのせいでひとつ、魔術部の特待生への制約加算が発生してるのは、おれとしては嬉しくない。
 だってそのおかげで、王立学院の卒業試験に受かっても魔術師資格試験に受からなかったら今度は協会からの拘束が生じるんだよ。どんだけ拘束したいんだよ。
 ……まあ、受かればなんの問題もないんだけどな。受かれば。





 寒冷地帯にしては温暖とはいえ、王都の夏は一瞬で過ぎて終わる。
 王都で生活するようになってきっかり四年。それだけ経ってもまだこの短すぎる夏と、一気に下降する気温変化には慣れない。今年はなんとかこの季節の変わり目を乗り越えられそうだけど、王都に来てからというもの、毎年この時期は熱出して寝込んだり、よくて鼻をずびずびさせてたもんだ。

 幼少を過ごしたエルシダはもう少し長く、ただし水不足に陥りがちな乾燥期が続く。そこから南のラムロットは肥沃な土地の広がる農耕地帯なだけあって、さらに長くて適度な湿度があって過ごしやすい夏が続いて緩やかに秋が訪れる。しかも養い親の家はラムロットの村から排斥でも受けてんのかよってカンジに孤立した、森林部の入り口付近にあったせいで、少し森に入れば夏でもひんやりした涼しさを得られる超がつく快適な立地だった。ああいうのを避暑地っていうんだろう。
 それと比べるのはどうかとも思うんだけど……秋を通り越して一足跳びに夏から初冬へ、ってのはさすがに体に堪える。おれはそこまで体が丈夫じゃないから余計につらい。いや、これけっこうマジに。



 屋内でも防寒に上着を羽織るのが当然になってきた初冬の空気も、このエルディアード侯爵邸においてはその魔手を伸ばすことが難しいらしい。
 建物自体の断熱性が高いのか、それともこの屋敷に張り巡らされてる魔術結界の効果なのか、実際両方なんだろう恩恵のおかげで体感気温湿度ともに快適だ。おかげで無用の長物になり下がった薄手のコートは今、おれの片腕にぶら下がっていた。

「うん、よかったね。おめでとう」

 エルシダから帰ってきてからというもの、まぁそれ以前もそうだったんだけど、この人の執務机はいつ見ても書類が山積み状態だ。それがジョエルによって築かれたのは想像に難くない。
 手に取っていた、その中の一つだっただろう紙束から目を上げて、侯爵子息サマは相変わらずの無駄なロイヤルスマイルを炸裂させた。これを難なく受け流せるようになってきたのは、慣れてきた、そういうことなんだろうな……。

 魔術師になってきました、小指の爪の先ほどしかない真新しい協会員章を手に報告したおれに、侯爵子息サマは『おめでとう』と言った。
 おめでとう。
 うん。間違ってない。正しい状況と用法だ。単語だから用法とは言わない気もするけども。
 それなのになんとなく釈然としないものを感じるのは、きっとこの人のにこやかな笑顔の中に『当然だよね。それで?』的な副音声が聞こえる気がするせいだと思う。……そんなん言われても。べつに自慢でもなんでもないし。報告だし。手放しに誉め称えられたらそれはそれで困るけど、この空気も困る!

「事務的な諸々はジョエルを捕まえてくれるかな。ああ、今ジョエルは走り回ってるはずだから捕まらないか。あとで私から伝えておくよ。それで……ええと、少し待って」

 書類をぱたりと目の前に伏せて、侯爵子息サマは机の引き出しをあちこち開けたり閉めたり、なにか探してるらしい。
 この人、物事をなんでも優雅にこなすように見えて、けっこうなズボラ人間だってことがだんだんわかってきた。こういうところを発見するたびに、あ、よかった、わりと普通の人だって安心材料が増えていく。

「ああ、あったあった。こんなところに」

 ことり、と書類の山の隙間に置かれたのは、ちょうど協会員章が入ってたのと同じサイズのシンプルな、ただし比較にならない重厚感のある黒いケースだった。

 黒の一族はその通称通り「黒」という色を選択していることがかなり多くて、家に関わる大事なものであるほどその傾向が強い。侯爵子息サマやハラルドたちの持ってる刀身の黒い剣もその一つ。一度材質を訊いてみたら、「んなもん教えられるわけないだろ」って一蹴された。秘伝らしい。
 ちなみに家紋は翼を広げた白い鳥を背にした黒い剣。白い鳥は王家で、これを家紋に組み込める貴族はほとんどいないんだと。現侯爵の奥さんが降嫁した元王女サマだから組み込まれたわけじゃなく、始祖の時代からだっていうから、ホントに昔からの王家の剣だったってことなんだろう。

 開けてごらんと示されたケースを開いてみる。クッションの上で鎮座していたのは、鈍い黒光りを放つ黒鋼の記章。協会員証と同じでピンで留めるバッジタイプだ。ただし比べものにならないくらい精緻で、細工物としての価値も高そうな代物だった。

「それで我がエルディアード家が身柄を保証する人間である証明ができる。失くしても再発行はしないから、そのつもりでね。仕事上必要になる場合もあるから常に携帯すること。ただし、目につかないように」

 おれの用途は裏方専門らしいからそれは当然だ。
 わかりましたと頷いて、侯爵家の記章の入ったケースをとりあえずズボンのポケットに突っ込んだ。協会員証のケースも同じ場所に入れたせいで身動きするとかちゃかちゃして少し気になるし、すべり落としそうで怖い。この部屋出たらすぐにでも両方、ベルトにでもつけてしまおうと心に決めた。

 もう用は済んだし退室の断りをしようとしたところ、がこんと高く響いた外からの音に、思わず窓の方に目を向ける。
 屋敷の最上階、三階の侯爵子息サマの執務室の窓からは、正門から屋敷の扉にかけてのポーチとその両脇に広がる庭園を広く見渡せる。
 誰か来ればたいてい気づくから、それからのんびり階下に降りていっても訪問者を待たせることがなくて便利だって言ってた。別に待たせてもいいんじゃないのと思うんだけど、そこはほら、急務の場合だとそんなこと言ってられないっていう例の騎士道精神?があるのかもしれない。

 その窓からは今まさに開かれている途中の正門が見えて、門の前を塞ぐようにして二頭立ての馬車が停まってる。
 ご主人サマのお帰りか、そう思ったのは、ぱらぱらと外に出てきた使用人たちが統制のとれた動きでポーチに整列していったからだ。そこにはジョエルとハラルドもいて、整然と並んだ列の屋敷側の端で後ろ手に腕を組んでいる。これはもう主人かどうかはひとまず置いといて、家人が帰ってきたのは確実だろう。

 ……この人、というかこの屋敷、侯爵子息サマ以外の家族の影が全然ない。
 おれはこれまでに何度もエルディアード邸を訪れて、日によっては日中の長い時間を過ごしたこともあるけど、現当主の侯爵サマはおろか侯爵子息サマの家族には一切、だれにも会ったことがない。
 屋敷に飾ってある代々の当主の肖像画で父親だけは唯一顔を知ってはいる。それを見た限りでは、だいぶ漢らしさ漂う厳格な気迫背負ってそうな将軍サマだった。

 他に、きょうだいとかいそうなもんなんだけどな。こんなでかい貴族サマの家、主に家督継承の安全を考えれば。

「さて。それじゃ行こうか。君もね、ラト」

 椅子を引いて立ち上がり、首や肩を回してぱきぱきいわせてる侯爵子息サマに「家族ですか」と端的に問いてみると、紫色の目が嬉しげに細められた。いつものどこか作り物めいた笑みじゃなくて、どこにでもいる普通の人間らしい親しみのある顔。

「母上と妹の迎えにね」

 なるほど。母親と妹。
 …………妹?!





「ただいま戻りました、お兄さま」

 地面すれすれまで長さのあるスカートの裾をつまんで軽く腰を下げる、いかにも貴族の女ですって気取った仕草。淑々とした、でも聞き取りやすいはっきりした声で、見りゃわかるからって思ってしまうような帰還の挨拶を告げた侯爵子息サマの妹は兄を見上げてすっと背筋を正した。

 なるほど。妹。……そっくりだ。
 手入れが行き届いた艶のある黒髪も侯爵子息サマと同質だし、毛先に癖があるところとか、人形みたいに整った顔の造作もよく似てる。

 ただ、想像以上に……小さい。
 踵の高い靴の嵩増し分を考えても、おれよりだいぶ背が低い。
 年はどう贔屓目に高く見積もっても十三、いや十四か。それ以上ってことは絶対ない。逆に、低くすると十歳くらいに見えなくもない。この兄妹、余裕で十歳以上離れてる。
 ……ここまでの年齢差は完全に想定外だった。予想は十代後半だったから拍子抜けしたっていうか……侯爵子息サマ、この妹可愛くて仕方ないんだろうな。

 その確証になるような「よく戻ったね、ロゼリア」って二割り増しくらいに甘ったるい声と口調の侯爵子息サマが新鮮だ。しかもなんか腕に飛び込んできて欲しそうにうずうずしてるように見えるし。妹の方はまったくそんな素振り見せずに落ち着いたもんだけど。若干漂う一方通行感。これは、あれかな。女の子は思春期になると父親と距離を取るようになるっていう、二次性徴中かな。年齢の開きだけなら兄妹よりも親子の感覚に近そうだし。

「道中不便はなかったかい」
「いいえ。皆さん、よくしてくださいましたので」
「そうかい。それはよかった。長旅で疲れているだろう? 休んだあと、夕食の席にでも旅や領地での話を聞かせておくれ」
「はい、お兄さま」

 疲れの滲む表情を努めて笑みに形作った無理のある顔してる――と思った。

 馬車での移動ってのは結構疲れるものだ。おれもラムロットから王都への長距離を辻馬車乗り継いだことがあるからわかる。
 座ってるだけ、景色を見てるだけ、うたた寝するだけ、話すだけ。本を読むくらいはできるけど、継続的な揺れで目が疲れるから長時間は難しい。最初の物珍しさを過ぎれば暇をどうやって潰すか、それだけになる。そしてなにより、体を動かせない。肉体労働や鍛錬から生まれる疲労とは違う、筋肉が凝り固まることによる疲れは休息と睡眠くらいじゃ思うようには取れてくれない。ただ、おれもこの子も成長期まっただ中って補正が入る分、回復は早いだろうけど。

 侯爵子息サマはごく自然に妹の手を取って――ああ、これはエスコートってやつだろう――屋敷へ入るのを促した。それを遠慮がちに、見間違いじゃなかったらかすかにだけど身を引いたその子は、でもすぐ素直に兄の歩みのまま身を任せた。

「母上はご一緒では?」
「お母さまは伯父様に呼ばれましたの。王宮へ足を運ばれております。夕刻には戻るとのことで……先にわたくしだけが」
「じゃあ父上と一緒に戻られるだろう。あとはアルとディルだね。母上とローゼが到着する日は連絡しているから、そのうち戻ってくるとは思うけれど」
「お兄さまたち、あまり家には帰ってこられませんの?」
「アルが去年、泣き言を言いに週休のたびに戻ってきていたのは知っているだろう? 今年、ディルもまったく同じでね。でも最近はさっぱり家に寄りつかないよ。音沙汰がないのは二人とも楽しくやっている証拠だろうけれど、こうも便りがないとね。お兄様は寂しいよ」
「そうですの……、?」

 そこでやっとおれに気づいた様子の女の子は、どうしたらいいもんかわからず棒立ちになってるおれを捉えて、眉の間にかすかに皺を刻んだ。おまえ誰だ、って言いたそうに。
 とりあえず頭だけ下げてみる。我ながらもうちょっと敬意を出せないのかっていうお粗末な礼だな。いや、だってさ、年下の女の子に敬意とかおれには難度高い。

 さらに訝しげに首を傾げていたその子は不意に、あ、となにかに気づいた様子だった。大きな目をくりんと見開いている。そんな顔をすると礼儀正しいしっかり者って体裁がはがれて、年相応の女の子に見える。

 瞳は黒曜。なににも染まらない、底の見えない黒。
 まん丸の闇色の双貌に見つめられて、どこかで会ったことあったっけ、と記憶を探る。そういう反応だよな、これ。……ない。知らない。こんな目立つ子、見た覚えない。

 その子は片手の指先で軽く口元を隠し、おれを上目に見上げ、悪びれなくこう言った。


「演舞会の初戦……シュタインベルグ公爵のご子息に負けたかた、ですよね?」


 予想だにしなかった精神攻撃に顔を引きつらせたのと同じくして、離れたところでぐぶっと吹き出したやつがいた。だれだ。ハラルドだ。そうだよな、そういうことするのはハラルドだよな!
 ジョエルはさすが、鉄面皮。ただそのほかの……一見平常運転な侯爵子息サマは目が笑ってるし、使用人も何割かが肩震わせてるし。あ、門番。あの門番もちょっと笑ってやがる! おい侯爵子息サマ! これちょっと使用人の教育なってないんじゃねぇの!? おれが言えた口じゃないけど!

「あの、わたくし人違いをしまして?」

 不意打ちのダメージから立ち直れないおれがいつまで経っても返答しないことに人違いの可能性を見いだしたのか、ことんと首を傾げる女の子。小鳥みたいだ。これはいよいよ悪意がない。悪意がない分、余計にこっちはいたたまれない。

「……や。間違ってない、デス」

 違ってないけどその覚えられ方は嫌だった……っ!