そのあとすぐだ。もう少しで十三歳になるっていう侯爵家のお嬢サマは名乗りもせずに非礼をしたと謝罪の言葉を口にした。ロゼリア・ユフィ・エルディアードです、自分をそう名乗って。
 不名誉な覚えられ方はともかく、べつに名乗られなかったことなんて問題じゃなかったんだけどな。それを言うなら失礼はたらいたのはむしろおれの方だ。お嬢サマが旅の疲れを理由に侯爵子息サマと一緒に自室があるらしい棟――おれが普段立ち入ることのない場所――に消えてしまってからはじめて、あれ、そういえばおれこそ名乗ってないじゃんてことに気づいたんだから。

 出迎えのため一同に集まってた使用人たちがそれぞれの職場に戻っていくのを目に映しながら今日のこのあとの行動を考えていたおれに、ジョエルから声がかかった。場所を変えて正規雇用についての話があるらしい。さっき侯爵子息サマと接触すらしてなかったと思うんだけど……いつの間に話がいったんだ。謎だ。

 連れてかれた部屋は厨房や洗濯室なんかが集中してるエリアにある休憩室だった。
 使用人や私兵の食堂も兼ねた広い部屋の半分に、学院の食堂に似た機能的な形状のテーブルと椅子。掃除途中だったらしく、部屋の隅にバケツやモップなどの用品が立てかけられている。壁の飾り棚にはクリアな花瓶に生けられた、みずみずしい花弁の青と白、それと小さな細かい黄色の花。屋敷全体に漂う剛健さにさらに実用性と小さな癒しが添えられたこの空間の居心地は、けっこう好きだ。
 これまでに、ハラルドに連れてこられて二、三回、ここで昼飯を食べたことがある。その全てで給仕のおばさんや交代時間待ちの衛兵のおっさんやらに興味深そうに話しかけられた。いろいろ聞いてくることに鬱陶しさを感じはしたけど……学院で四年の間決して消えなかった行為、鼻で笑われたり無視されるなんて行為をされたことは一度としてない。この信じられないレベルの友好姿勢にはむしろ気が引けるというか、戸惑うものがあったんだけど……まあこれからどう変わるかわからないし。それにまあ、うまくやっていけるに越したことはないよな。

 使用人も兵も交代休憩が基本だから、昼飯時に限らずだいたい誰かがいて食事や談笑をしてるんだって聞いたこの部屋だけど、どうやら今は例外らしい。誰ひとり人の姿はなかった。お嬢サマと……あと奥サマが帰ってくるから、きっといろいろ仕事が立て込んでるんだろうと思う。
 なんかおれ一人だけ暇なのが悪いような気がしてくる。なんか手伝うべきなんだろうか。でもおれこの屋敷の勝手全然わかってない。全体図もぼんやりだからたまに一人で動いてると迷うことすらある。どこそこにあれを取りに行ってほしいって言われたとしても役に立てる自信がない。
 外ならなんとなく勘が働いて初めての場所でもだいたい迷わず元の場所に戻れるんだけど……屋内はだめなんだよなおれ。慣れないうちはどこもみんな同じ廊下や扉に見えるんだもんよ。

 とにかく……こんな日におれになんか構ってる時間惜しいだろうに、超のつく生真面目なジョエルは雇用後のあれこれについて丁寧に、ただし事務的に話してくれた。

 その中の一つが下宿の話だった。
 ジョエルやハラルドみたいな側近、執事や侍女、下男なんかの使用人なら屋敷に住まわせることができる。でも私兵はそうはいかないんだってさ。おれは兵ってわけじゃない。でも使用人よりはどっちかといえばそっちだから、屋敷の中に部屋を用意することはできないんだと。できたとしても遠慮したい。こんな格式高い屋敷に自分の部屋があってそこに住むとか無理すぎる。精神的に安らげる気が欠片もしない。庶民以下の底辺経験者には拷問だ。

 それで、王都に家を持ってない私兵には良心的な借家を紹介しているそうなんだけど……。
 おれは最初のうちはともかく、この先、王都に腰を落ち着けることは少ないだろうってことでどこかの家の中の一部屋を借りる形式、つまり下宿を勧められた。
 当てはあって、了承は得てるんだそうだ。ただ、そこから出ていく予定のやつがまだ借家を探してる最中で、空き状態になるまでもう少しかかりそうなんだと。それでおれが学院の寮を出るのを少し待ってほしいっていう話だった。数日か、一、二週間程度なら邸宅の空き部屋を提供してもいいって提案されたけど、それは断固拒否させていただいた。いろいろ無理だ。

「こちら側の都合だ。学院側には自分が申請しておこう」
「あの寮、おれともう一人しか住んでないし、来期も特待の申請者いないって聞いたから……少し出るの遅れたところで問題ないと思うけど」

 その上、唯一の同寮生のアイザックは明後日には寮を出て騎士団の宿舎に入るから、それ以降居住者はおれしかいなくなる。
 十人までの収容を想定して作られた寮に一人きり。だれもいないよりはそりゃ食事の用意やリネン類の洗濯、掃除の手間と人件費がかかるだろう。でもだれもいなくなったらなったで、いつ入るとも知れない入寮生のために維持は続けないといけない。使ってないと建物ってすぐ痛むっていうからな。世話役のおばちゃんの予定を狂わせるし、面倒な手続きが必要な理屈もわかるけどさ。

 いちおう頭にあったそういう理由を全部排除した大人の事情完全無視発言に対し、眼鏡の奥、切れ長の黒い目がわずかに鋭くなる。あ、まずい。これはアレだ。ハラルドに冷ややかに暴言吐いてるときの目だ。
 慌てて「申請、お願いしマス」と先制防御したのが功を成したようで、おれはジョエルの口を封じることに成功した。よし。

「これ、申請書?」

 テーブルに広げられた書類の中、王立学院と宛名の記された封書に目が留まる。ジョエルがそうだと肯首した。

「提出くらいしに行く」

 どうせ今日だって学院敷地内の寮に帰るのだ。遅くなって学生課の窓口が閉まってたって、明日の朝ここに来る前に寄ればいい。やってくれるって言われても、自分でできることは自分でやるべきだとそう思う。

「そうか。では、君に預けよう」

 渡された封書をポケットにしまおうとしたところで、おれはそこがすでにいっぱいになっていた事実に気づいた。ほとんど同じ大きさのケースを二つ取り出して、テーブルの上に並べて置いた。
 話は以上で終わり、なにか質問はと口にしながらジョエルは無駄のない動きで書類をひとまとめにしている。質問は……ひとまずない。その意を伝え、まずは魔術師協会の会員証をベルトが重なる下の部分、裏側に表を向けてピンを留める。せっかく証としてもらったものをこうやってこそこそ持ち歩くのはもったいない気もする。でも侯爵子息サマのお庭番なんて仕事をするらしいおれには、この称号をひけらかして回るのは自滅行為になるんだろう。

 続けて侯爵子息サマからもらった記章を同じようにベルトに留めつけてたおれに「今日はもう定時を待たずに帰宅して構わない。もちろん残っても問題はないが」って言い残し、ドアの取っ手にかかったジョエルの手が止まる。なぜか開いている隙間――そこから中を窺う闇色の瞳と、目が合った。
 すい、とぎこちなく視線を外し、背けた顔についつい渋面を刻む。大人しく部屋に引っ込んで休んでればいいもんを、なんでこんなとこに。しかもおれのいるときに。なにをしに来たお嬢サマ。

「ロゼリア様? このような場所へいかがなされました?」
「……彼、お借りしても?」

 はい指名入った。全然嬉しくねえ。










 旅装を解いたお嬢サマは、動きに制限の少ないシンプルな、ただし明らかに上質で肌触りよさそうな服に着替えてきていた。
 一つにまとめ上げてた髪も下ろしてて、さっきとずいぶん雰囲気が違う。従順で礼儀正しい部分ばかり――おれへの失礼発言は抜きにして――が見えたのに、今はずいぶん明朗闊達さを強く感じる。たぶんこっちが本性だ。おれに対して猫をかぶる理由がない。歳のはなれた兄や使用人の前だから気取って見せてたんだろう、と思う。

「少しお話、よろしいです?」

 これを「よくない」ってばっさり拒絶してしまうのが、今後を考えれば一番楽だったんだと思う。でもおれはこのとき、邪険にするのを躊躇した。
 棘もなく、高圧的でもない。ちゃんとおれの出方をはかって、うかがってくる姿勢。それがなんだか学生生活初めの頃の――話をするようになったばかりの頃のベルテと似てて。小動物をいじめてるような、全部こっちが悪い錯覚を覚えるあの感覚をまた味わいたくなかったんじゃないだろうか。曖昧に、「はぁ」なんて頷いてしまったのは。

 そんな要領得ない返事にお嬢サマは、ぱっと表情を明るくした。そこで初めて、あ、実はお嬢サマ不安な顔をしてたんだなってことに気づく。

「先ほどはすみませんでした。わたくし、いやなことを言いましたわよね。負けた方だなんて言い方……反省しています」
「や、事実なんで。負けたのは」
「……あのウェイン・シュタインベルグに善戦したと思います。こんな気休め、嬉しくもなんともありませんわよね。でも、もう一つだけ。言わせてくださいませね」

 そこでふっと様相を変えたお嬢サマの表情に、ぞわりとする。
 ……なんて顔するんだよ。十二そこそこの子どもが。

 濡れた黒真珠の瞳。唇にそうっと添えられた指が匂わせる、女の色香。まるきり悪戯を思いついた悪女じゃないか。

 これ以上見ないようにとひとまず目を閉じた。
 ……あれはやばいだろ。だめだ。目の毒。どきりとするどころじゃない。というか逆に冷める。どんな教育してんだここの家の大人どもは。おい、教育責任者出てこい。

 お嬢サマはおれの心中なんて知るはずもなく、ふふ、と闇色の瞳を細めて笑う。

「もしもあれが、手段を問わない戦場であったのでしたら。勝ったのはあなたの方だったと思いますわ」
「それは、どういう」
「あなたの武器は魔術だけではないのでしょう?」

 ああ、侯爵子息サマに聞いたんだ。なんかずいぶん買いかぶられてる気もするけど。
 それにしてもルールなし、か……やってみたことないから一概に勝てるとは言えない。でも魔術以外の攻撃禁止よりはよほど可能性はある。接近戦に持ち込んで、そしたらとりあえず拳で横っ面はり倒す。顎の下蹴り上げてやるのもいい。それ完全に入ったら脳震盪で気絶して終わりそうだけどな。……いい。超楽しそう。

「ところで、あなたにお願いがあるのですわ。そちらが本題なのです」

 あのお坊っちゃんをあの手この手で手法を変え、地に沈める光景を脳内展開させてこっそりほくそ笑んでたおれは、お嬢サマの「お願い」とやらに我にかえった。
 ものすごく、嫌な予感がした。

「……お願い?」
「はい。必要なときだけでよろしいの。わたくしが外出するときの供を引き受けてはいただけません?」
「外出」
「はい」
「それは馬車に乗っての、お供を引き連れての観光で」
「いいえ? 徒歩での。わたくしとあなた、二人だけでの」

 まずは来週のマーケットに行きたいのですわ、なんてわくわく顔で両手を合わせるお嬢サマ。……頭痛がする。
 待て。マーケット? 待って。あれ、マーケットって貴族のお嬢サマが好んで足を運ぶ場所だったっけ。おかしい。あれは毎週末の週休に開かれる、食材や生活雑貨なんかを安く扱う庶民向けの用足しの場だったはず。子ども向けの娯楽や商品を扱ってる店ももちろんあるけど、そんなちゃちいもん欲しがるの? 今まさに本物の宝飾品を身につけてるこのお嬢サマが?

 ……それらもろもろの突っ込みたいものを飲み込んで、とりあえずこの場は、おれは防犯上の問題だけをあげてみることにした。不毛な気がしたから。

「元々、そういう役割の人間がいるんじゃないんデスか」
「もちろんいます。ですけれど、今は休暇を取らせているのでいませんわ。奥さまに二人目の子どもが生まれて、領地に置いてきましたの」

 あ、そう。いるんだ。でもって「そういう役割」で通じたってことはこれまで当たり前みたいにそういう役割が必要になることしてたってことだな。……アクティブだ……。

「他に適役がいるはずなんで、他を当たって――」
「あなたくらいの歳格好が外で一緒にいて自然ですの。ですからあなたが一番の適役です」
「つまり、ありていに言うと、お忍びにつき合えと」

 はい、とお嬢サマが笑顔で肯定する。
 ……小さい頃の侯爵子息サマのあまりの機動力の高さには本気で手を焼いた、泣きそうだったってハラルドがぼやいてたことがあるけど、……しっっ、かり兄妹だ。これは、巻き込まれる方は頭が痛いな! って、いやいや巻き込まれたくない! 兄の方だけでおれまだ手いっぱい!

「いや、それは勘弁し」
「もう兄の許可を得ておりますの。それでも異を唱えられまして?」

 え、無理。拒否しても侯爵子息サマは決定事項を覆さない。こういうことは絶対引かないあの人。無理。

「引き受けてくださらないのでしたら、わたくしは一人で抜け出します。そうなったらわたくしだけではなく、あなたも怒られましてよ」

 それ怒られるくらいで済む? そんだけで済むならそうするよおれ? でも済まないよな?! だいぶ脅しだぞこれ!

「……あんたみたいのが外に出たら格好の的になるだろ。王都の治安は悪くないけど、そういう種類の人間がいないわけじゃない」

 あ、まずい。イライラしてきたせいで口調が荒く。極力丁寧めを心がけてたのに。
 苛立ちをありありと表面に出してしまったおれの態度に眉をひそめるでもなく、お嬢サマはあっけらかんとした顔でぱちりと目を瞬かせた。

「心得ております。わたくしそこまで世間知らずの小娘ではありませんのよ。ちゃんとその場にふさわしく装いますし、振る舞います」
「いや、カモフラージュ優先するよりもっと腕が立って牽制のきく番犬見つけてくださいよ。おれのこのなりじゃ舐められるし、あんたを守れる自信もない」
「……ねえラト。あなた思い違いをしています。わたくし、護衛をしろなどとは一言も言っておりません。わたくしがお願いしましたのは随行ですわ」

 つまりあなた、ついてきてくださるだけでよろしいの。単独行動はしていないという証明に。言葉を重ねてお嬢サマは、つり気味の目尻に力を入れる。

「たしかにわたくしはあなたよりも若輩で、女の身。頼りなく見えることは承知しております。けれど、わたくしは曲がりなりにもエルディアード侯爵家の娘ですの。幼少から兄たちとともに武芸全般の教えを受けております。黒き剣も与えられています。今でも毎日修練は欠かしません。実戦経験はさすがにありませんけれど、兄にだって――下の兄にですが勝ったこともありますのよ。それにわたくし、先年、あなたに先んじて魔術師の位をいただきましたの。ですから。大人しいばかりの屋敷の外にろくに出たこともないような貴族の娘と同列視しないでくださいませ。よろしくて?」

 勢いに呑まれ、呆気にとられて「……はい」と頷く選択枝以外選べない自分が情けない。
 これだけは言っておく。おれはただ黙って呑まれたわけじゃない。何度か口を挟もうとはした。え、魔術師なの、とかの驚きも全部、最初の一音すら出させてもらえなかった。しかも矢継ぎ早にまくしたてられたんじゃなくて、微妙なイントネーションの変化と転調だけで、おれの口を封じにかかりやがったんだ。
 ……話術スキル高ぇ。ベルテに似てるかも、なんてちょっとでも思ったおれがバカだった。

 お嬢サマはにこっと満足げな笑みを浮かべると、その笑顔のままにおれに選択を迫った。

「それで、引き受けてくださいますの? くださいませんの?」

 ああ、うん。ほんとにこういうとこ間違いなく、妹。

 なんでおれの周りにはこういう、はいかイエスかの選択枝しか基本提示してこないやつらが無闇に逆らえない人間として寄ってくるんだろう。逆らえないのがわかってるからか。揃いも揃っていい性格してる。

 黒曜石の瞳が返答を求めて、じいっとおれの目をのぞき込んでくる。侯爵家の庭先に放り込まれたばかりの石ころは、磨き上げられた黒曜石に逆らえない。そうだ。逆らえない。こんなにまっすぐに目を見据えて、真意を見極めようとしてくる年少者には。
 エルシダで年下のやつらがまとわりついてきてたのは、おれが口はともかく結局最後は面倒を見てやってたせいだ。年下には頼られると弱い自覚がある。自分の力だけじゃどうにもできないことがあること、知ってるから。

 このお嬢サマにはおれ以外に頼る人間がいる。どう考えたってそっちが与えてくれるものの方が質も量もいいだろうに、物好きな。
 新鮮なんだろうと思う。屋敷にいる歳の近い、同じ魔術師。そのうち飽きたら解放される。少なくとも、本来の護衛が育児休暇から戻るまでの辛抱と思えば。

「……引き受ける方向で」

 いろいろ観念するしかなかった。

「安心してくださいませ。不埒者はわたくしが返り討ちにしてさしあげますわ」

 お嬢サマは自分に任せろとばかりに張った胸をぽんと叩いた。勇ましい。なにこの男前発言。

 ていうか守られるのはおれの方? 決定事項? ……あまりにも立場ねぇよ、それ。

 えー……と半開きになった口だけで不満、というか一周半回って感嘆に転じた息を吐きながら、そういえばおれの名前普通に呼ばれてたな、なんてもはやどうでもいいことを考えた。