扉を開いた瞬間、おれの目にとびこんできたのは想像を遙か上に飛び越えた光景だった。
「こりゃ、また」
……うん。そうだな。確かにジョエル、半年くらいここには手が入ってないって言ってた。人に見せるのがはばかられる状況にあるって言ってた。ついでに少し整理をしてくれると助かるとも言われた。散らかってるんだなって事前情報はもらってた。でもな? ある程度謙遜入ってるって思ってた。
だから、断じてこんな――机の上、これでもかと存在を主張する本の山とか、幼児の意味わかんない努力の痕跡みたいに床から生える本の塔(複数)、それが倒壊したと思われる惨状とか……さすがに想像してなかったから!
ひどい。これはマジでひどい。ありえない。本への冒涜。大貴族のお屋敷の一部屋として以前に、まず書庫として間違ってる。この状態になるまで放っておける神経は見上げたもんだ。ここ使うやつがいなかったのか。いてもよっぽどのずぼら人間か。その筆頭として当てはまりそうな顔がほやんと一瞬浮かんで、消した。だってなんかいらっとする笑顔してたから。
この惨状を知りながらジョエルが放置してたって事実に地味にショックを受けつつ、足音を殺して塔の一つに近づいてみる。振動が命取りになりそうで。
本の向き、どれもこれもばらっばらだ。本当になんにも考えずに積み上げてそのまま感がひしひしと感じられる。当然、他の塔や山も同じ。棚に残ってる分は普通に探せそうだと思うだろ? 甘かった。一部分がごそっと抜けてるんじゃなくて、あちこちからまんべんなく抜けた状態で残ってるんだよ。ジャンルのまとまりも期待できない。
このちょっとした図書館の規模した書庫で、なんの予備知識もなく、かつ「こんな感じの内容の本」っていうぼんやりした標的しか持ってないおれが最短で目的にたどり着こうというなら……急がば回れとはよく言ったもんだ。整理しながら探すのが一番早い。結論が出るのは早かった。
始める前からの脱力感に襲われつつ、塔の一番上の本を手に取ってみる。
『大型犬飼育者の必読書 しつけ中級編』
……初級と上級はどこだ。
『あなたの知りたい花言葉』
『兵法教育虎の穴』
『世界の武器大全』
『女性がときめく手紙の書き方、教えます』
誰だよこのへん選んで読んだやつ。方向性絞れよ!
「なにをなさっていますの……?」
似たジャンルの本の分類作業に無心で没頭していたおれは、訝しそうな女の子の声でふと現実味を取り戻す。
おれが作り上げた本の山越しにのぞき込んでくるお嬢サマは困惑顔をしていた。見るたび違う髪型は、今日はひとつのゆるい三つ編みおさげだ。どういう構造でか白いリボンと花が編み込まれて、肩から胸に垂らしている。変なごてごてしさのないすっきりした印象だ。
学院魔術部の数少ない女生徒も、揃って毎日構造のわからない手の込んだ髪型してっけな。自分を飾り立てるって目的とは別で、髪を扱わせてる雇い人の技巧自慢会かよと思ってたもんだけど……そういうのを抜きにして、さらに単品で見ると目新しい。ちゃんとおれの目にも可愛いものとして映る。
「この書庫に秩序を取り戻す作業を」
「それは、だれかに頼まれまして?」
「いや、読みたい本を探したかっただけで。でも普通に探せる状況じゃなかったんで。片づけて落ち着いて探せる状況を作ってからにしようかと」
「それは、きっと、時間がかかりますわよ?」
視線を気にしたのか、お嬢サマがおさげを押さえてリボン部分を指でいじりだした。あんまりいじると崩れると思う。
ていうか時間かかることはわかってるんだよ。この、ずらっと並んだ書架の数をわざわざ数えなくても。でも探せないんだから仕方ないだろ? この辺にあるはずっていうあたりすらつけられないんだから!
「それに、ほらあそこ」
「扉?」
「続き間ですの。ここと同じ広さの書庫が……ここと同じ惨状で、もうひとつ」
その事実は、おれを撃沈させるのに十分だった。
完全に打ちのめされた。ありえねえ。本気でありえねえ。もういろいろありえなさすぎる!
頭を抱えて机の脚にずるずるともたれかかる。お嬢サマが申し訳なさそうな顔で「すみません……これまでは兄の一人が率先して管理をしていたのですけれど……昨年士官学校の寄宿舎に入ってからは、その、荒れる一方でしたようで……。わたくしと母で、帰ってきてから暇をみては整理をしているのですけれど、とてもすぐには。今後はもういい加減に司書の方に管理をお願いしようと話していましたの」なんて言っている。じゃ最初から司書雇えよ。人件費ケチってんじゃねぇよ。罵倒したいのにする気力もない。乾いた笑いしか出てこない。
「へぇ、そう……」
「それで、ラトはなにをお探しでしたの? たぶん力になれると思います。わたくし、一週間毎日ここを整理していましたの。片づけた分に関しては、だいたいの本の位置は把握しているつもりです」
「エルディアード侯爵家と黒の一族の、歴史地理全般について、ちょっと……」
「あら、それならわたくしがお教えできますわ。少し待ってくださいませね」
歌うようにそう言ったお嬢サマはところどころ床に形成された山を軽く飛び越え、迷いなくたどり着いた本棚から数冊大判の本を引き出して、胸に抱えて戻ってきた。なるほど。本当に把握してる。
それをおれに渡してくるのかと思いきや、……お嬢サマは空いたテーブルにそれらを置いて自分が腰掛け、さあおまえも座れとばかりに手招いた。え、なにそれ。
「ほら早く。わたくしが答えられること、なんでもお答えいたしますわ」
えー…………そういうこと…………。
違う。おれは久しぶりに、静かに本と向き合いたかったんだ。そんなマンツーマンの授業形式求めてなかった。余計なお世話。ありがた迷惑。お嬢サマ、それ、厚意の押しつけ。
「いや、本さえ探してもらえれば、自分で」
「歴史書自体はまだ目にもできていませんの。これはただの地図ですわ」
ああ、そう。そういうこと……。
……この、欠片も向上してない書庫の惨状に囲まれて、「じゃ自分で探すからいい」なんて……口が裂けても言えねぇよ。
そもそもエルディアード侯爵家と黒の一族について調べようと思ったのは、おれがあんまりにもこれらの話に通じてなかったからだ。
それ致命的だぞって指摘を受けて、せっかく書庫があって使っていいならそこで調べるかって考えたわけなんだよ。書庫の整理に勤しむために来たわけじゃない。それは断じて違う。
意外なことにお嬢サマは教師として優秀だった。おれが訊ねたことの意味から逸脱することなく、曖昧なときは「それはこういうことです?」ってちゃんと確かめてから説明を始める。学院にいた要領を得ない教師よりよっぽど教えるの向いてると思う。
国内全域地図のページを広げ、成長途中の頼りない指が南西部の七つの領地をひとつずつ順繰りに指さしていく。そこら一帯は隣国との国境近くなのに治安のいい、ラムロットあたりの南東部と共に国の食料庫っていわれる地帯だ。
「――ゼクス領、ユリアン領。これらの領地を治める七家が、貴族の位を持つ黒の一族ですわ」
「エルディアード侯爵家自体はなんで領地持ってないんですかね」
「あの、本家は直接統治する領地を持っていないというだけで……いえ、もう最初から話しますわ。昔はエルディアード領と呼ばれていましたのよ。最大でこのあたり一帯が」
ふるふる振られた頭と一緒に、三つ編みおさげがしっぽみたいに一緒に揺れた。……しれっと匙を投げられたのはこの際気にしないことにしよう。気にしない。
このあたり、とお嬢サマは黒の一族の領地だけにとどまらず、南部全域を指でぐるりと円を描いた。ちょっと待て、それ、軽く国土の十分の一はあるような。
「侯爵の位を賜った建国期、エルディアード侯爵家は南の守護者の任を命じられると同時に、南部の広大な地を領地として任されましたの。近年騒がしいのは北部ですけれど、建国を認めない周辺国のうち、もっとも激しい猛攻にさらされていたのは南部でしたから」
ああ、そこは知ってる。昔、教会が軍事を牛耳ってて魔術士の排斥活動にもっとも熱心だった国が南に接してたんだ。エルディアード候の名前、そのへんの記述で教科書に載ってた載ってた。領地うんぬんは頭から抜けてたけど。
その国はとっくに消えて、……いや分裂したんだっけ? どっちでもいいか。とにかくそこ、今はイヴァンにしっぽを振る、害のない近隣国のひとつになってた……はず。
いちおう歴史の単位、取ったんだけど魔術関係ない政治のからんだ歴史ってどうも苦手なんだよな……覚えてもおれの中で「どうでもいいこと」分類にされるせいか、いつの間にか忘れてのこって。……って、これからはまったくどうでもよくなくなるんだよ。もう一回叩き入れとかないとまずい。
「そのあとも度重なる功績によって与えられる領地は広がりました。ただ……昔からうちの一族は武に秀で、将の気質を備えてはいましたけれど、細事に疎く統治が不得手でしたの。よく言えば豪傑、鷹揚。悪く言えば適当大ざっぱ。今でもよく言われますわ。とにかく、広がりすぎた領地に手が回らなくなりましたの。そこで一部の土地で、傍系の一族に代理統治を任せてみたというわけです」
「それが黒の一族の始まり、と」
「ええ。……ですけれど、謀反を起こされ独立された地もありました。ひとつと言わず、何カ所も。それなのに当時の本家は本当に暢気で……内政に頭を悩ませる必要がなくなるし、その領地がうまくやっていってくれるならそれはそれで楽でいいなどとという考えでいたそうで……そうやって放置すれば当然ほかでも、それなら自分のところもと調子づきますわよね。少しずつ領地が減っていき、南部全域だった領地は今や半分以下ですわ。鷹揚どころの話ではありません」
「うわ」
……領地くれた王サマ、執政官くらいよこしてやればよかったのに。あ、中央の体制作るので手いっぱいだったのか、そういうのに秀でた人材は。それにしたってもうちょっとこう……こう、さぁ! それとも領地取り返そうと躍起になって内乱なんてことにならなくてよかったなって感想を抱くべきなのか? でもなんだろうな。この素直に賞賛はしたくない感じ。
「そんな反面で、あくまで代理領主としての本分を果たしていた分家には、新たに爵位を賜り正式にその地の領主として認められるものも出ましたの。先ほどの七家がそういったものたちですわ。野心と敵愾心を持つ分家を淘汰して、忠誠心の強い分家が残ったわけですから……結果としてはよかったと言えるのでしょうか。今は最終的に残った領地がすべて、七分家それぞれに分割されています。それでも、あくまで代理統治の形ですの。彼らは本家の決定には従いますし、仕えるという立場は崩れていません。実際はほとんど各家に統治権が委ねられておりますから、よほどのことがない限り口出しすることはないそうですけれど。ですから本家の役割は視察や監察、調停などの雑務と、一族の旗頭として高潔であること、王家の剣として盾として誠実であることくらいでしょうか」
「……へぇ」
「それと、分家からは従者提供という形で本家への忠誠を表しておりますの。ジョエルはゼクス領主の、ハラルドはユリアン領主のそれぞれ次男です。領地に置いてきたわたくしの従者も七分家の出ですわ」
それ、聞いただけで忠誠だけじゃなくて動向監視とかすり寄りとか、あと分家同士のどろどろした関係のにおいがものすごくしてくるんだけど。本家からの重用とか七家間の勢力バランスとかを巡っての覇権争い、あるだろ絶対。あるだろ。お嬢サマ、それをわかって言わないのか、まだそこ気づいてないのかはわかんないけどさ。
それにしても……ジョエルとハラルド、この屋敷でけっこうでかい顔してるからそれなりの家の出なんだろうな、とは思ってたけど。それなりどころかれっきとしたお貴族サマじゃねぇの……!
机に突っ伏したいのをこらえて地図に記された「ゼクス領」の文字に、主観でもそうとわかる死んだ目の焦点を合わせる。よく聞く領地名だ。ほとんど内陸のイヴァン唯一の港を持つ領地で、海洋貿易を独占してる交易重要地。おいジョエル、あんたそこの領主の息子かよ。
次に目が行ったのは当然、ユリアン領。こっちもよく聞くわ。純度の高い鉄鋼石の鉱脈のある、鋳造・鍛冶業が盛んな地域。あと国内では数少ない葡萄産地でワインで有名。市場に出回る国内産ワインならだいたいがユリアン領産だっていうくらい。で? ハラルドがそこの、なんだって?
おれの周りに軽く転がりすぎだってば、貴族。もういいよ。いらない。これ以上出てくんな。おれ的にはベルテとオースティまでで十分ていうか腹いっぱいだったのに、なんでこんなことになった。
払い落とせるわけでもなしと知りながら、うなだれた頭をゆっくり横に振ってみる。今、アイザックと無性に話がしたい。イムザでもいい。価値観の相似性が欲しい。それ以上に気安さが欲しい。
わかってる、おれが順応しないといけないってことは。でもさ、侯爵子息サマやジョエル、ハラルドにやっと慣れてきたところだったんだよ。振り回してくれるけど――特に侯爵子息サマが――、気を回してもくれるから。
そこにきてまた新登場とかほんとやめてもらいたい。どうせ出てくるなら一度にわっと来て。小出しでくるな。少なくともこの侯爵家にまだ会ったことない当主サマと奥さん、それと侯爵子息サマの弟二人が残ってるわけだけど、ぜひともおれを気に留めないで。もし奇特にも関わってこようってんなら、むしろもうウェインのやつみたいに嫌味で頼む。そっちの方が対応しやすい。おれの精神にいくらか優しい。間違っても、中途半端な友好姿勢と興味を見せないで。迷惑だから。
……そういうわけで、おさげ髪の先をくるくる指でもてあそんで首を傾げてるお嬢サマ。そう、あんた。見た目はたいへんにうるわしくいらっしゃるあんた、兄を上回っておれの目下一番のストレス要因になってくれてるよ!