「人のものを盗んで逃げるとは何様のつもりだ! 止まれ! その腐った性根、叩きなおしてくれる!」

 遠く響いた鬼気迫る女の怒声に、心臓をわしりとつかまれる心持ちで立ち止まる。

 ……誓って言おう。
 おれ、なにもやってないから。





 エルディアード侯爵邸は城門に近くて街門(というか貴族専用の通用門)もすぐそば、内外両方の火急の用に応対しやすい絶妙な位置に配置されている。王家の番犬の名は伊達じゃない。
 ただし貴族街と平民街のちょうど中間地点にある学院までとなると、当然といえば当然、そんな関わりの薄い機関へのアクセス利便は考えられてない。わかりやすく、かつおれの気分的に貴族連中の馬車があんまり通らない道を選んで使うとものすごい回り道をさせられるはめになる。

 これまでみたく、たまーに用事があってってことならまだしも、学院を卒業し毎日のことになったら嫌気が差す。さらに、面と向かって言われたわけじゃないけど卒業したのにまだ寮に住んでんのかよっていう微妙な居心地の悪さも手伝って、さっさと下宿先に引っ越してしまいたい気持ちは日を追うごとに加速していた。

 それが、少しでも近道はないもんかと帰り道のルート開拓に励むことにした理由の、だいたい半分。寮から出てしまえば使う必要がなくなる道だけど、王都の裏道を知って損にはならない。幸いなことにこうやって地道に道を探す行程は苦にならない性質だ。
 方向感覚には勘がきく方だという自負もある。目的の場所と方角さえはっきりしてれば、感覚的に方位を見失ったことがない。

 そんな特技の前に、ごちゃごちゃした平民街とはまた違う道の設計が立ち塞がった。
 平民街は利便性を求めたせいでいろいろわけがわからなくなってったんだと思うんだけど、その性質ゆえに道は必ずどこかに繋がってる。袋小路はないって言っても過言じゃない。方角を見失わないおれにしてみれば近道し放題な親切設計だ。
 対して貴族街の細道は人を迷わせる気満々で、一回変なとこに入るとほんと迷う。町並みとかで「これはあそこらの道に続いてるだろ」って判断しても、延々歩かされた末がの袋小路がものすごく多い。防犯上はなるほど効果的だ。ただ道を探してるだけのおれはたまったもんじゃないけどな! 袋小路に辿り着いては悪態ついて引き返すのを何度繰り返したか。
 それだけならまだいい。うろうろと行ったりきたりを繰り返して不審人物と勘違いされるのは面倒だった。ここらの警備の人ら、仕事しすぎ。

 行きたい方向がわかってもこうした障害物にぶち当たってたもんだから、連日の後悔に襲われた。それでもルート開拓を続けたのは、理由のもう半分、アイザックがいなくなっておれ以外に戻ってくる人間が一人もいない寮に帰るのを避けてたからだ。近道を探すっていう目的から生まれる結果とは反対の心理。だから、最短距離を見つけたあとも、おれはきっと理由や用事を作って寮への帰りを遅くする行動をとるに違いなかった。

 そんな柄にもなくセンチで面倒くさいおれの心境はおいておくにして……昨日、ついにおれはエルディアード侯爵邸から貴族街の裏道を通って平民街の学院近辺に抜ける最短と思われる経路を確立したわけなんだよ。でもって朝から実証を心待ちにしてたんだけど。お嬢サマからエルディアード侯爵家と黒の一族の成り立ちをご丁寧に午後いっぱいにわたって講義され、続きはまた明日なんて言われるし、帰り際、なんだか知らないけど門番から好きな食べ物はなにかとしつこく聞かれるし、「なんなんだよもう」って憤慨で危うく普通に遠回りの方の道に向かいかけてしまった。

 ……ああ、そうだ。あのまま大人しくそっちの道で帰ってればよかった。あんな馬鹿みたいな騒動が待ってる未来、知ることが許されてたら。
 後悔が先に立つなんて、当然あるわけないんだけど。










 十数日を費やして頭の中に作り上げた地図通り、最速記録で貴族街を抜けた。
 ついにしてやった。いましがた通り抜けてきたばかりの細道をどうだという思いで睨みつけ、しばしの充実感にひたる。
 平民街まで降りてしまえばあとはもうこっちのもんだ。それなりに歩き慣れた商業区を抜けて、遠く先端だけが見える学院の時計台を目指せばいい。目をつむってても……は言い過ぎだけど、よそ見くらいなら余裕でたどり着ける自信がある。

 侯爵邸を出たときに時計台を染めていたオレンジの暁光はとっくに色を変えていた。扉の隙間からもれるランプの光みたいに細い月光は頼りなくて、弱い。青紫の薄闇に呑まれた盤の数字はもう完全に視認できない。
 冴え冴えとした空気は冷たく乾いている。冬が着実に深まっているのを感じて、それまでたいして気にしてなかった寒気に身を震わせ、コートの前をかき合わせた。そのうち雪が降り始めるかもしれない。雪の中この距離の朝夕出仕を繰り返すなんてごめんだ。できれば、っていうか頼むからその前に下宿先に移ってしまいたいものなんだけど。

 一秒ずつ確実に領域を広げる闇のとばりと寒風に追い立てられるようにして、おれは足早に、ぽつりぽつりとしか人の往来のない細道を早歩いていた。
 そこに、突如。


「まぁあてぇぇええーっ! 貴様、人様のものに手を出すとは、恥を知れえぇえーっ!!」


 空気をまっぷたつに斬り裂く、女の大音声が響きわたった。

 視界に入るだれもが、もちろんおれも足を止めて声のする方へ怪訝な顔を向ける。姿は見えない。反響音の具合からして、たぶん、そう遠くない通りに声の主がいる。

 なにごとだ。
 いや、なにごとなのかわかりやすすぎるくらいわかりやすいけど。

 それでもこの腹の底から絞り出された、引くくらいドスのきいた絶叫はまさしく「なんだこれ」だ。気が強いなんてレベルじゃない。あれじゃべつに助けとかいらなそう。てか自分で解決できそう。もし助けても「余計なことを!」とか理不尽な怒りぶつけられそう。ぜっっ、たい、関わりたくない。
 みんなおれと同じで、あんだけ騒げばすぐに警備の軍人が集まってくるよなって楽観的判断を下したらしい。都会人らしいドライな反応だ。呼子いらずで便利だなあれ、なんて連れと一緒に苦笑する声が耳に入った。うん、その通りだとおれも思う。

 止まってた時間がゆるやかに動き出す。でも路地から男が一人、転がるようにまろび出た瞬間。動いたはずの時間がまた、凍りついた。

 男はまず、角を曲がりきれずに足をもつれさせてすっ転んだ。続いて「ひぃいいっ!」とほとんど音にならない叫びをあげながら起きあがると、鬼気迫る様子でこっちに向かって走ってくる。どことなく助けを求める被害者の面もちで。
 ……この狐顔の男がなにをしたのか、ここらおれの視界に入る人間は全員、正しく理解したと思う。
 それでもだれ一人として男を捕まえようとは動かない。むしろ「いいから早く逃げろ。ていうかアレに捕まる前に早く警備兵にでも捕まえてもらえよ。俺らが捕まえる? やだよ! 絶対追っかけてくるあの女の相手すんのこわい!」的な空気を感じるのは、うん、きっと気のせいじゃない。

 そして、猛然と、という表現がぴったり正しい靴音に遅れること数秒。追跡者は予想通り現れた。
 やや背が高めかなっていうくらいで、あんな威勢いい大音量を発せるようには見えなかった。目鼻立ちが整っているけどそこまでの美人じゃない。でもまぁ、確かに気が強そうで存在感はありそう。その程度の印象の、旅装束の女だった。旅行者はカモにしやすいからな。金持ってるから。

 逃げる狐顔の男の背中を見つけた女の目が、ぎん、と鋭い光を宿す。
 怖! 獲物見つけたハンターの目! おれがもし声を聞かずにこの光景だけを見たとする。加害者と被害者を取り違える自信しかない。

「人のものを盗んで逃げるとは何様のつもりだ! 止まれ! その腐った性根、叩きなおしてくれる!」

 その途中にいた人間が全員、うわぁって顔で道を譲り、壁に背をはりつかせる。ただしこれからの成り行きは傍観者として見届けたいらしく、全員この場から離れようとはしない。
 まぁ、おれもそれなりの野次馬心はあったわけで……そいつらとまったく同じ行動をとった。同じことした五、六人の中の一人、たったそれだけ。目立った素振りもなにもしてない。してなかった。それなのに。

「う゛ええ゛っ?!」

 なんであの窃盗犯、完全におれに目標ロックオンしてダッシュしてくんの!

 嘘! ありえねぇ! いや逃げろよそのまま向こうの通りの先まで! 根性見せろおっさん!
 あとせめて、助け求めるならもっとこう、おれの向かい側にいるガタイいいおっちゃんに求めて! なにふた回り以上は年下のガキに自分の運命委ねようとすんの! おれ助けねぇよ?! いくら昔は同じことしてた同類だからって、働いて普通に金稼げるくらいの年のやつがそういうことすんのバカだと思ってるからな? 昔の自分を正当化するわけじゃないけど!

「だのむだずげでええええぇえ!」
「知るか! なんでよりにもよっておれを選んで助け求めたのあんた!」
「相手が子どもならあ゛の悪魔も強く出れないとおもっでえぇええ!」
「正常な判断できてないからそれ! 離れろよ、ちょっ、ふざけんなおっさん!」

 背中に回って離れなくなった窃盗犯を引きはがそうともがいてんだけど、べったり貼りつきやがって全っ然ふりほどけない。くそ、このおっさん酒臭い。アルコールのせいか? この粘着力の強さ!

 そんな酔っぱらい窃盗犯との攻防の前に、いつの間にだろう。女が腕組みをして立っていた。ずむん、と重々しいオーラを纏って。
 ……なんで……なんで、こうなった。なあ。なんでだよ……。

「こともあろうに子どもの後ろに隠れるとは。つくづく見下げ果てる」
「ひぃいいいーっ! すみません! すみません! すみませんでした財布返すんで命だけはーっ!」
「取るか!」
「えっ、じゃあゆるしてくれる」
「わけがないだろうが! そのおめでたい頭、体ごと突き出すところに出してやるに決まっている!」
「え、ちょ、そぉんなあぁ。頼むよぉねえちゃあぁん。俺にゃあ家で腹を空かせたかあちゃんと、ガキが十人……ありゃ? ガキとかあちゃんが十人、だっけ? ありゃりゃ?」
「……もう少しくらい信憑性のある嘘をつけないのか。見え透きすぎて笑いも出ない! 金がないなら働け。いい年をした大人が情けない! 人の所有物を略奪した者が法の裁きを受けるのは当然だ! 来い!」
「そぉんなあぁああ〜! たすけてくれよぉにいちゃんよぉおお〜!」

 ……このくっだらないやり取りを、おれは誰よりも近く、一言一句聞き逃すことさえ許されない――超至近距離っていうかもはやゼロ距離、板挟みの緩衝材状態で心を無にして聞いていた。いや、無我の境地を目指して聞き流していた。このときのおれは死んだ魚よりよっぽど死んだ目してたんじゃないかと思う。

 キンキン声が耳に痛い。
 全身から安っぽいエール臭を発する男にがっくんがっくん揺さぶられる。調停に入るなんてもってのほか、もう文句を口に出すことすらあほくさい。
 もうこのまま、魂とばして魔術式の公式でも頭に羅列させてようか……ほら、向こうの方から統率されたばらばらばらって底の分厚い革靴の音が聞こえてくるし……あの人らが事態を収束させてくれるだろ。

 酔っぱらい窃盗犯と被害者兼追跡者の女が現れたのと同じ路地から三たび現れたのは、三人の軍服姿のやつらだった。道を探してただけのおれを不審者呼ばわりしてくれた貴族街の巡回騎士とは違って、もう少し親しみやすさのある一般兵、つまり下っ端連中な。

 そんな下っ端の、揃いの制服に袖を通した兵士のうちの一人が、こっちを見るなり笑いをかみ殺すみたいに引き結んだ口を歪めた。変顔だ。……なにがおかしい、人の不幸をいきなり笑うとか!
 忌々しく三人のうちで一番体格のいいそいつをよく見ると……なんつう制服マジック。本気で誰かと思った。お返しにおれも「似合ってない」って笑ってやりたかったけど、とりあえずガンをとばしておくだけに留めておいた。ちくしょう、あとで覚えてろよ! 

「協力感謝する。その少年が窃盗犯だな?」

 三人の中で一番の年長者、気難しそうな顔した中年兵士の口から出てきた言葉に、おれは目ん玉が飛び出るかと思ったよ。
 ……おい、今、あんたなんつった。誰がなんだって?
 でもってその後ろで噴き出すのを必死で堪えてるデカブツ、お前、ホンっトにあとで覚えてろ。

「ち、が、う!」

 違う。断固として違う!
 あろうことか犯人に感謝して巻き込まれただけの一般市民を犯人呼ばわりするとか、どこに目ぇつけてんだこのクソ兵士! ガンとばしたおれが勘違いの要因を作ったとかいうなら、さらにその要因はおたくの新人だから!

「窃盗犯、こっち!」

 親指で背後に貼りついたままの男をびっと突きさすと、事態を見守っていた数少ない観衆連中も「そうそう」「坊主は運悪く板挟みにされただけ」「で、そこの姉ちゃんが窃盗被害者ね」って擁護してくれたし、被害者の女も「そうだ、私の財布を盗って逃げたのはその男だ!」びしりと指を突きつけて断言してくれた。
 その通り! だからさっさとおれをこのくだらない茶番から解放して!

 おれに向いてた二対の「大人しく縄につけ」って言わんばかりの厳しい目が、背後に貼りついたままの真(?)犯人へと横滑る。

「お、……おまえら全員動くなああぁあーっ!」

 呂律の回りきらないダミ声をはり上げて、背後から首に回った腕。反対の手が前に突き出すように掲げている、玩具みたいに小さな刃物。

 ……ちょっともう……いい加減にしろよ。おい。

 こんな使い古されて手垢でべったべたのセリフ吐きやがって……もういっそのこと博物館にでも展示されとけよ。三流犯罪者の典型例として。さっきの女じゃないけどもっとこう、捻りのある言い回しできないの。

 このおっさん、おれのやる気をどこまで削げば気が済むんだろう……。
 腹が小さく切ない音で空腹を主張する。遠い目で見上げた空は、すっかり闇色に染まりきっていた。