今日の朝はいつもより早い。
 夜のうちにまとめておいた私物を抱え、四年と少しを過ごした部屋のドアに鍵をかける。大した量もないと思っていたけれど、かき集めると意外とある程度になった荷物を抱え、鍵を返して寮を出た。これでもう学院の敷地に足を踏み入れる機会はないだろう。
 時間が経つごとに増していく気がする重さの原因は、四年の間に古本屋に通ううちに増え続けた本だ。正直、持ち続ける意味のないものも中にはある。けれど売るには書き込みをしすぎたし、譲る相手もいない。
 潔く不要物として置いてくればよかったと後悔し始めた頃、最近少しずつ身にしみるようになってきた寒気の中、おれの名前を呼ぶ声を耳が拾った。立ち並ぶ住宅地の中、とある家の玄関先で手を挙げているのはよく話しかけてくるあの門番だった。

「迷わなかったか?」
「だいたいこの辺て聞いてたから」

 門番……たしかターナーって名前だったな。今日から世話になる下宿先の家主ターナーに、自然に荷物を一つ奪い取られる。「ん、ずいぶんと重いな。何を入れてきたんだ」とか言いながら、全然重いと感じてなさそうな平然顔だ。

「本」
「なるほど、そりゃあ重い。まあ入れ」
「……世話になります」
「思ったよりはしっかりした挨拶をしてくるな。うむ。よろしく頼まれた」
「…………おれはなんだと思われてるの」

 中で迎えてくれた一番世話になるだろう家主の奥さんにも挨拶をして、用意してくれたあった朝食をほどほどの質問を浴びながら済ませ、ターナーと連れだって今日からの仮住まいから見送られる。
 道中、おれと同じ歳の息子が王立学院の武術部に通ってるから仲良くやってくれだの、訊いてみたらその息子はおれのことを知ってただのという他愛ない話をしながらエルディアード侯爵邸に向かった。
 まさかとは思うけど、これから毎日一緒に仕事行くとか言わないよな……。そんなことを思ってたら、自分は勤務によって出るのも帰りも時間がまちまちだから、明日からは好きな時間に勝手に出てくれと言われてほっとした。……安心したか、なんて聞いてこないでほしい。したよ。安心。





「少年! いいところに! 匿え!」
「やだ」

 エルディアード侯爵邸の敷地に入ってすぐ、猪並みの勢いで向かってきた赤銅色の髪の女の体当たりを寸でのところでかわして避けた。

「なぜだ!」
「関わりたくないから」
「私と少年の仲だろう!」
「仲を勝手に捏造しないでほしいん、だけ、どっ」

 執拗に後ろに隠れようとする鬱陶しい女を引き剥がそうにも剥がせずに、しまいにずるずる引きずって邸内に入ろうとしていたところ、かかっていた体重がするりと抜けて前につんのめりかけた。文句を言いたかったが逃げる方が重要事項である。後ろを確認もせずに邸内に逃げ込もうとしたところ、庭先からお嬢サマに名前を呼ばれてつい立ち止まる。まだ時間に余裕もあるし、あのメルとかいう女に捕まるよりはよっぽどマシだ。よし、避難場所にさせてもらおう。

 「今日は寄宿舎に入っている兄二人が帰ってくると連絡がありましたの」と頬を上気させてなにやら意気込んでいるお嬢サマに適当な返事をしてから、おれはあらためて猪女の状況を目で追った。猪の狩人はハラルドだった。

「人の話の途中で逃げるな!」
「私はお前の説教を聞くためにここを訪ねたわけではない。だから逃げる」
「開き直るな! だから、確実に相手に書簡届けたいなら! 最低でも二通三通、とにかく複数! 使うルートが違う人間に分けて預ける! 常識を知れ!」
「その話はさっき聞いた。聞き飽きたんだが」
「一度目が終わってないからしてんだよ! お前一年前にも同じことしただろうが! 盛大に事故ってそっちも昨日届いたわ!」
「……一年前?」
「ああうん覚えてないって顔だなそれ……知ってた……信用できない記憶力を……! というか訪ねてきたなら引き下がるな! 騒ぎ起こして連行でもされて留置所入りでもされててくれりゃあ嫌でも俺かジョエルのどっちかが確認に行かされるんだからそこでかち合うわ! 引き下がったらスルーして終わるだろ実際スルーするとこだったわ! お前らが監視の目かいくぐってクレメールから出られたことも、最後まで捜索網に引っかからなかったことも驚きだし、箱庭育ちのくせにここまで旅ができたこともびっくりなんだが、とにかくこれ以上誰の目も届かない状態でふらふらと出歩かれたらたまったもんじゃねえんだよこっちはああもう! アドルお前がついてながらなんでこうなった!」
「俺に責任を求めないで! ごめんなさい!」

 なんというか……完全にとばっちりを受けたとしか思えない弟が哀れだ。というかあれはいつからそこにいたんだろうか。存在感を姉に奪われすぎてるせいか印象が薄い。

「あの二人、元は恋人同士だったそうですわ」

 そこに、目をきらっきらさせてのこの密告である。吹いた。嘘だろ。思わず指さして訊いてしまった。

「あの二人……?」
「はい。ハラルドとメルお姉さまが、ですわ。クロヴィスお兄さまも、ジョエルもそう言っていました」
「あ、そう……」

 その二人が、特にジョエルがそう言うなら間違いじゃないんだろう。
 それにしたって、こう……なんというか、こう……これに関して感想が一つしか出てこない。

「ハラルド、女の趣味わっる……」

 ぼそっと漏らしてしまったのも無理はないと思う。

 とにかくこれを見るだにあの姉弟、確かに侯爵子息サマ……いや、正確にはハラルドの旧知には違いなかったらしい。門前払いの理由についてはハラルドの罵倒の中身が原因のようだ。手紙、同じもの複数をルート分けて出すのは基本だよな……。これは猪女が悪い。

「あらまあ。賑やかですこと」

 少し離れた奥の花壇で手入れをしていた女性が、切り揃えられた幾本の花を手にしてゆったり歩み寄ってくる。嬉色を見せたお嬢サマが「お母さま」と駆け寄り、持っていた花を受け取った。
 初めて会うエルディアード侯爵夫人、そして王サマの妹だという人は、自分を値踏みする不作法を咎めるわけでもなく(これは後になってお嬢サマに咎められた。むしろその時言ってほしかった……)、おれに向かってふんわりと透明に笑んでみせた。

「娘が世話になっていると聞きます。我が侭な娘ですが、どうぞ仲良くしてやって頂戴ね」

 エルディアード侯爵邸の庭に佇む女主人はそんな言葉をおれにかけてくれたと、記憶する。でもおれは、それにどんな返事をしたか、そもそもなにか言葉を返したのかさえ覚えていない。

 だって。
 その人が、あんまりに。
 おれを拾いあげてくれたあの人に。あの人が歳を連ねたらこうなるだろうという姿に、あまりにも重なりすぎていたから。


『私はね、思い出さえあればいいの』



 おれを過去にしてしまっても構わないという、当然みたいな諦観が。聞こえる。

 知らない。なにも見てない。おれは昨日、誰にも会ってなんかない。
 きっと一番もらいたかった祝いの言葉も、ただの幻想で白昼夢。それでいいんだ。それで。










 黒猫が一匹、塀の上に座っている。長い尻尾をゆるりと垂らし、森の緑を宿した瞳が映すのは、騒がしさを増した侯爵邸の園。
 猫は欠伸に瞳を閉じて耳飾りの鈴をちりりと鳴らす。
 冬を運ぶ王都の風が、三角耳から青い薄羽を揺らしている。