見えない境界線がある。
 触れなければ、越えようとしなければ変わらない。
 その境界線の先に。ぼんやりと存在だけを感じるなにかに手を伸ばせば、拒絶されて幕を落とされる。実際されたわけじゃない。でもそうだろうという確信がある。届かない背中に追い縋る無様を晒す勇気はない。だって、そんな弱さを見せたからって、「もう一度」の機会をもらえる確証なんかない。一度目からして奇跡だった。二度目があるなんて考えちゃいけない。
 その先にはなにもないと、目を瞑って意識を背ける。あったとしても、つかむ前に消えてしまえばないのと同じ。境界線のこちら側だけがおれのすべて。
 そう思い込むために、余計なことを考えないために、許されたこちら側にだけ広がる「知らないこと」へと手を伸ばした。

 見ない振りに限界がくるのには時間はかからなかった。
 このままだとおれは、いつかきっと向こう側に手を伸ばす。踏み越えようとしてしまう。
 どうしてかと訊かれると、どうしてだろうと自問が浮かぶ。どうしてだろう。解いてはいけない問題を目の前に広げられ続けることに耐えられないからかもしれない。
 落ちた幕を無理矢理押し上げてしまったとき、向こう側どころかこちら側にあったはずの居場所まで失ったら、おれはどこへ帰ればいいんだろう。心の、身の置き所。途中からではあるけれど、おれの原点。帰着点を。失いたくなかった。

 だから逃げた。
 もういらないと捨てられる前に。

 相手どころか、自分の心すら本当には守りきれない最低手段を選択したおれが欲しかったのは、本当に、『捨てられたわけじゃなかった』――そんな意識を得られた安心感?

 違う。
 本当は。
 境界線を越えた先にあったかもしれない、なにか。
 おれはそれを――









「あ、久しぶり。四年ぶり?」

 ころんと丸い鈴音の声は耳朶を転がり脳を駆ける。
 水のように指先の一端にまで沁み渡る心地よさに、知らず、全身の緊張が解されてしまったのを自覚する。

 たった一言。それだけで、おれの中でしまわれた様々なものがまぜこぜになって溢れて、押し流されそうになる。この声に従ってさえいればいいと思ってしまう。尋ねたいこと、確かめないといけないと心に決めていたはずのもの諸々、憤りも含めて、すべて。

 流されるな。嵌るな。
 たった一言耳にして、一目姿を捉えただけでこの体たらくだ。自分がまったく当てにならない。雨のせいではなくじっとり湿った手のひらを握りしめ、己を鼓舞する。

「訊きたいことがある」

 四年前、ラムロットの森。木々の向こうに見送りの姿を小さくしていったおれの養い親は、初めて会った九年前から少しも歳を重ねていないように見えた。どんなに高く見積もっても二十代半ばそこら。到底三十には届かない。
 エルシダで薬師のばあさんに植えつけられた疑惑は、種。芽吹いて膨らんだ蕾は花開く瞬間を今かと待ちわびている。

「なぁに? 相変わらず単刀直入ねぇ、ラトくんは」

 古書装丁の本を閉じ、一時的な部屋の主は一般的にいえばおっとりとした――おれに言わせれば婆くさいのったりした調子でまた鈴を転がす。

 後ろの高い位置で一つに結い下ろされていることの多かった蜂蜜色の長い髪は、今はなんの手も加えられず背中を覆って流れている。四年の間にどのくらい伸びたのか切ったのかもまったくわからないが、本人のいろいろ頓着なさが表れて、真ん中から下にかけての部分の艶が微妙なことになっているのは変わらない。「もーちょっと自分で身なりに気を遣ってほしいんですけど!」そう訴えて、後ろに立って髪に櫛を入れていた誰かの幻覚が見える気がする。

「あんたは本題に入る前の前置きが多すぎる」
「最近の若いコはね、なにごとも性急すぎだと思うの。もっと心に余裕をね?」
「おれは無駄な問答で時間を浪費したくない」
「そう? じゃ、その前に教えてくれるかな」

 侯爵子息サマとまったく同じ色、青紫色の瞳がやんわり笑んで細まった。

 ああ、まただ。惹かれる。囚われる。侯爵子息サマよりずっと、比べものにならない強い力で。
 逆らえないんじゃない。逆らう意思すら奪われる。
 きっとラムロットの閉鎖空間にいたときはそういうものだと疑いなく受け入れていた。四年の空白を経たことでようやく気づいた違和感。それらを振り切って主張する。

「先に質問したのはおれなんだけど」
「男の子はそういう物事に寛容じゃないとね?」
「先に質問したのはおれなんだけど」
「うん。だからその前にラトくんに訊きたいのだけれどね」
「だから先に質問したいって言ってんのはおれなんだけど」
「無駄な問答で時間を使いたくないのは誰だったかな」
「だからあんたに先に答えてもらいたいんだけど」
「無駄な問答で時間を使いたくないのは誰だったかな?」
「だから……っ」
「無駄な問答で」
「ああ! もうわかったから! 何!」

 挑もうとしたおれが馬鹿だった。
 そうだった。学院ではわりと多用してた、こっちの要望が叶えられない限り前に進ませる気のない堂々巡り話法の本家はこの人なんだった……! 自分で食らうと超イラっとする、これ。のほほん顔でやられると、ほんっとイラっとする!

「私に似た人に会った?」

 問われてふっと浮上したのは侯爵子息サマ。同じ色の瞳で笑顔の圧力をかけてくる、初対面から『同じ』匂いを感じた人間。
 どくり、と心臓が鼓動を早めた。体は心に正直だ。おれのなまくらな感性なんかより、ずっと。

「具体的に、どこが」
「こう……顔立ちとか? 唐突によくわからないこと一方的に言ってきたと思ったら勝手に一人で納得したりとか。あ、似てないけれど、にこにこ笑いながら気に入らない相手を物理的にも精神的にも槍で積極的にえぐったりとか。あとは赤い髪の女の子を連れていてね、」
「会った」

 「似た人」とやらが侯爵子息サマではないことに若干の肩透かしを覚えながら、思い当たった違う人物像を想起する。見事に全部合致する人間がいた。
 これ絶対エルシダで会ったやつだ。兄貴……いや、ホークの関係者。今も一応、要注意対象になってて調査続いてるって人。……ていうか、似てないって前置き挟んだとこ、しっかり似てる部分だよ。物理は知らないけど、あんたも精神部分はざっくりしっかりえぐってくよ。してるとこ見たし、何度もされたし。

「正確には、会ったみたい、だけど」
「うん?」
「そのときの自分の記憶が怪しいから、あとから聞いた伝聞情報での判断。でも確実にあんたが言ってる相手と会った」
「そう。そのとき治癒魔術を受けた?」
「された。超意味わかんない治癒魔術」
「……そう」
「あと。なんでおれが持ってるのかって。訊かれた。なにをかは知らないけど。あいつはあんたの知り合いで、あんたが持ってるはずのなにかをおれが持ってたからおれは助けてもらえた。そう考えていいわけ?」

 おれがこの人から譲り受け、今でも持っているものは、二つ。

 一つは短剣。あのとき治癒魔術と思われる現象を起こしていった男が現れたときはおれの手元にあった。
 もう一つは緑色の石だ。いつも肌身離さないように首から下げている、端から見ればたぶん大した価値もない、ただ少し明度が高くて綺麗なだけの少しいびつな涙型の石。でも、おれにとってはなににも代え難い、決して手放したくない宝物に等しい。
 どちらも普段、外からは見えないよう身につけてるもの。短剣の方は直前に侯爵子息サマが持ってきてよこされ、手元に転がしてあった。だからあの場に来てすぐに気づいても不思議じゃない分可能性はそっちの方が高い。ハラルドの目利きだとかなりの値打ちものだっていうし。

「代わりにあんたに礼を言うべき?」

 養い親は、硬さの含まれる笑みでゆるりと首を横に振った。

「一度助けた相手を、次に微笑って殺す。あれは簡単にそれをする。無差別に快楽を貪ってというものではないけれど、思惑をもっている分、目を付けられたら厄介よ。関わらなくて済むならその方がいい。あちらから絡んできても、対峙しようなんて思わないで」

 ひどい言いぐさだ。でも、あのときのおれは当然、一緒にいたイムザにも見えなかった恩人の辛辣さ、やばさは、あとになってハラルドから聞いた。人は見かけによらない。その見かけもおれはさっぱり覚えていない。背後関係も含めて正体が掴めないままだと置し難いらしく、もしかすればそのうちおれにも調査の鉢が回ってくるかもってことで外見特徴教えられたけども。……もう既にそういう筋の部下に調査させてるのに、その上でおれになにを求めるっていうのか。無理難題すぎる。

「兄弟? 前に言ってた逃げてる兄貴ってやつ?」

 養い親は曖昧な笑顔で首を傾げるだけ。答える気がないのは明らかだけど、たぶんおれの想像は間違ってない。

「あんたの知り合い、変なの多い。下にいたやつも」
「あれも変なのにカウントされちゃう? あれは結構普通だと思うのだけれど」

 これもあんまり答える気がない。ただし知り合いだっていうのは認めてる。でも、おれが聞きたいこととは関係ない。どうだっていい。

「……あんたさ、今、王都に、他に知り合いいたりするんじゃないの?」
「それは一人や二人、いてもおかしくないと思うのだけれど。ラトくんは誰のことを言っているのかな」
「言い方変える。知り合いじゃなくて、親戚」
「親戚ねぇ」
「あんたの目。真王色っていうんだって。そう、聞いた」
「そう。それが?」

 真王色、そうと指摘した瞳は笑みの形を保ったままで揺らぎもしない。たった一言「それが」の先、口を開きもしやがらない。
 ああそうか。これも答える気がないのか。
 でも、もう引き下がってなんかやらない。やらないんじゃない。できない。

「あんた、なにから逃げてるんだよ。やばい兄貴からだけじゃないだろ。うちの侯爵子息サマがあんたに興味持ってた。あんた絶対知ってるだろ。同じ真王色持ってるクロヴィスって人。関係あるんじゃないの。だからあんな、目立たないような場所に住んでたんじゃないの。面倒事から逃げて。隠れて」

 もうとっくに境界線は踏み越えたってわかってる。わかってるはずなのに。どうしておれの口は止まらないんだろう。どうして。

「エルシダのジルってばあさん知ってるよな。そのばあさんから面白い話聞いた。自分はあんたの弟子だって。若いときからあんたがずっと今のままだって。おれがなに聞きたいかわかるよな。なんでって、どういうことだって。聞きたくなるの。わかるよな」

 なにも応えは返らない。一言も。相槌すら。

「……おれはあんたの質問に答えた」

 おれはたしかに言葉の槍を養い親に突きつけた。目の前に。簡単には逃げられないように眼前に。それなのにあの人は、おれの向けた槍の穂先を霧散させてしまう笑みをこぼして、あのね、といたってゆったり口を開いた。

「私はね。思い出さえあればいいの」

 眉間に思いっきり皺を寄せたおれの様子にも当然構わず、視線を木張りの床に落として、あの人は続ける。

「それさえあれば生きていける。思い出は私を裏切らない。置いていかない。私が忘れない限り、ずっと共にあってくれる」
「……そんなの。自分に都合のいい夢を見てるだけだ」
「うん」
「うん、って」
「それでいい。そう言われて当然だと自分でも思う。でもね、私はその答えを出す前に、他の答えがないか探しはしたの。それでも、それが私にとっての最良と思って、納得した。だからなにを言われても構わない。私が私にそうと定めた。だからそれでいい」

 たいして強くもない。眩しいくらい煌めいているわけでもない。色のない煙みたいにまとわりつく、絡め取ろうとする視線がおれを捉えて離さない。
 明度が高いとばかり感じていた紫水晶の奥底に広がるのは、深い、暗い深淵だ。その底に溜められたものの正体が何なのか、推測もさせてくれない。

「ねえラトくん。都合の悪いことから逃げて、閉じこもって。『好き』だけを選んで生きる。それってそんなにいけないこと? やりたくないことをして、嫌われて敵を作って、責任に縛られて。それでも前を向いて頑張るって、そんなに格好よくて、そうありたいと思えるもの? そんな生き方、きみはしたいと本当に思える? 心から?」

 また、頭の中に侯爵子息サマの姿がちらついた。
 ジョエルに引きずられて執務室に押し込められるという株のだだ下がる姿を何度目にしたか知れない。それでも放棄したり逃げだしたりはしないのは、責任の重さを受け止めてるからなんだろう。おれにはその重さがどんなもんなのか、ご苦労様、くらいにしかわかってないけど、だからって負ってみたいとは思わない。どれだけ贅沢なものが食べられて、あれこれ世話を焼かれて大事にされるとしても。人の一生を簡単に動かせる力を持つ権限なんて、直接人の命を刈るよりも怖いものだと思うから。
 そういう責任を受け止めて、しかるべきときにしかるべき使い方をするっていうのは、見てくれの格好良さよりずっと格好いいことなんじゃないだろうか。なぁ、侯爵子息サマ。

「それは……おれには思えないし、できない、けど。そういう、疲れる生き方しかできない人間もいるんじゃないの」

 おれだって、今さら生き方は変えられない。十六年程度しか生きてないけど、そのたった十六年ですら、自分を否定できない。侯爵子息サマだってそうなはずだ。誰だって。

「うん。だからね。私もこういう生き方しかできない」

 この答えだって予想の範囲内だったはずなのに。
 紡がれた鈴音の声は、ひどく虚しく耳に響く。

 思い出があればいい。
 それって。
 今、ここにいるおれがいなくなっても、それでもいいって。そういう脅迫。

 踏み越えようとしてしまった境界線から足を引かなければ、おれはこの人の思い出にされる。過去にされる。事実かどうか確かめたわけじゃないけど、ラムロットの人たちがこの人のことを忘れてしまったのと同じように。消されてしまう。一方的に他人にされる。覚えてるのはあの人の方だけ。そうして、これでよかったって言って笑うんだろう。この人はきっとそれをやったことがある。きっと。

 少しも変わらず浮かべている笑みに、腹の芯がぞわりと騒いだ。血の代わりに冷たく重く体中を駆けめぐるものの正体を、おれはきっと知っている。

「そんなの間違ってる」

 なにを言いたいのか整理できないまま、口をついた言葉は否定。声が震えているのがわかった。情けない。それでも、ただ、こみ上げてくる感情のままに。

「あんた、それ、間違ってる。思い出? 勝手にそんなもんにされてたまるか。勝手に拾って、勝手に今度は捨てる? なんだよそれ。最低限の責任くらい持てよ。あんた、いつもそうだよ。全部わかってるって顔して、当たり前って顔して、自分以外の人間に関わること全部諦めてる。諦められる方の身にもなれよ。新しく人を信じてみるのも悪くないと思うっておれに言ったの、あんただろ。悪くなかったよ。じゃああんた、なんで自分はそれをしないんだよ。できないんだよ! おれは嫌だ。なにもわからないまま過去にされるのは。また、ぜんぶなくすのは。嫌だ」

 いつの間にか養い親の顔から笑みが消えている。少し眠そうにすら見える、もしかすれば初めて目にしたのかもしれない真顔からはなんの意図も感じ取れない。
 背中に冷たいものが流れた。ホークの剣の刃が迫るのをなすすべなく見ていたときのそれよりずっと冷たい――

 施錠の外れる金属音が、湿気を含んだだけではない重苦しさを割った。
 おれが入ってきたのとは九十度右側の半開きにされた扉から、白くひょろ長い影が、くわぁと欠伸をしながら現れて。

「ねー。それって同族嫌悪?」

 嫌な空気が払拭されるだろうか、そんな安堵は一瞬だった。

「こら。盗み聞き」
「だぁって丸聞こえですもんー。もーせっかく寝てたのになんか不愉快なこと言っちゃってるコの声が気になっちゃって気になっちゃってー」

 開ききってない目をこすりながら、そんなものがあったらしい続き間からのたのた出てきたそいつは、おぼつかない手つきで部屋の隅に置かれた水差しから水を一杯一気に呷った。と、すかさずぐるっと首だけを巡らせて、寝起き特有の据わった目をおれに突き刺してくる。

「裏切られたくないとか。置いて行かれたくないとか。都合の悪いことには答えたくないとか。きみだってそうでしょ。だいたいみんなそうだからね。ぼくもそうだしね。普通。どこからどこまでが普通かどうかって定義の話は置いといて、広義の意味でのふ、つ、う」
「あ、ソウデスカ……」

 寝起きくさい動作の割によく回る口から矢継ぎ早に繰り出される言葉の羅列に気圧される。そのどれもに乗せられた、色とりどりの感情。「最初」は困惑して、慣れてからは「もう一人」に倣って適当に流すようにしていたそれが、ベルテとかお嬢サマの気質に似てることにふと気づく。毎日の料理担当で、しかも毎日菓子作ったりしてた時点でだいぶ女みたいだなと思ってたけども。

「引き際を勝手に見定めた気になって、ものわかりいいふりして諦めて、必要以上に踏み込まない。そのくせ実は自分のことを見てほしくて仕方ないんだよね。つまりそれ、諦めきれてないってことだよね。きみさぁ、諦めるなら潔く諦める、諦めないなら意地汚くてもなんでもいいからなりふり構わず食らいつく。いらっとするからどっちかにしてくれる?」
「ていうか勝手に割り込んでこないでほしいんだけど、話」
「え、それ本気で言ってるー? ぼくが出てきたときの『助かったー』って言いたそうだった顔はなんだったのさ。恩知らず!」
「知らないし。お前が勝手に出てきたんじゃん」
「お前って何! きみねぇ、いったい誰のおかげてそれだけ肥えたと思ってるの!? 見た目ぜんぜん肥えてないけど! ぼくの努力が形になってないけどね!」
「あの人の財力?」
「財力単体でお腹はふくれません!」
「……それについてはどうも。ついでに舌まで肥やされたんだけど、これどうしてくれんのブラン」
「えっ、それ誉め言葉? ありがとう??」

 途中から馬鹿馬鹿しいものへ変わった応酬の空気がそうさせたのか、気づいたときには養い親は、おれがこの部屋に入ってきたと同じ体勢で本に目を落としていた。これ以上同じ話を続けることに対する拒絶。腹立たしさと同時に少しの安堵が胸に落ちた。
 つむじをつんとつつかれて、おれのものよりずいぶん高い――それでも四年前からすれば少しは距離の近づいた顔の位置を予測して振り返る。
 そこにいるのは言うなれば人懐っこい細身の大型犬。付け加えるなら、自分の大きさを考えず、小型犬や子犬に混じって本気で遊びにかかる大型犬だ。
 養い親と違ってちゃんと中身のわかる表情を見せてくれるその人は、少し頬を膨らませ、口の先を尖らせてわかりやすく拗ねている。二十代半ばくらいの外見した男のそんな仕草、可愛くもなんともない。

「ぼくはノワールみたいに見て見ぬふりして見逃してなんてあげないよ。リィン様みたいに警告を前置いてもあげないんだから。ぼくはぼくの言いたいことを遠慮なく言うの。お節介して、足りない言葉を補うのがぼく役目。リィン様もラトくんも、ホンっト大事なこと言わないからねまったく」
「……おれは言った」
「え、言ってないでしょ。なに言ってんのこの子は」
「言ったよ。質問にもちゃんと答えた」
「違いますー。そういうことじゃありませんー。ちょっとーリィン様もー! 一番肝心なことまだ言ってないでしょ。話聞いてるくせに」

 おれにじっとりと向けていた呆れ半眼を養い親――自分の主人にも向け、これでもう仕事は終わりとばかりにブランは口を噤んだ。
 オレンジの明かりに照らされた紫色の目が、ついと動いておれを捉える。反射的にびくりと肩を跳ねさせたおれに、息をついた笑みをこぼして、その人はふわりと破顔し、立ち上がった。


「卒業おめでとう」

「『魔術師』も、おめでとう」

「頑張ったね」


 頭を撫でる手の思いがけない細さ。
 ほとんどなくなっていた身長差。
 おれはこうやって追いついて、追い越して。最後は置いていくんだろうか。何人もに置いていかれたんだろうか。自分だけ置いていかれることのこわさは、おれもよく知ってる。こわくて、さびしくて、自分の中身がからっぽになるのを、知ってる。



 捨てられること。
 必要ないって、ハズレだって、放っておかれたこと。
 誰の目にも留まらないこと。
 信じていたものに忘れられること。
 おれが「こわい」と思うこと。

 だから、捨てられる前に捨てた。
 そうすれば。
 少なくともおれは、おれの中では、この人の「子ども」のままでいられる。
 それはおれのわがままだ。

 この人が逃げるこわいことからの自己防衛が「忘れられる」こと、思い出に浸ることだとしたら。

 自分勝手で相手のことを考えないところ、他人のくせによく似てる。

 案外似たもの同士だったのか、そう考えるとなんだかおかしくてつい笑いを声に出したら、「あら、お母さんに誉められて嬉しかった?」なんて自惚れられた。違う。