前髪の隙間から覗く、穏やかでない光を宿した一対のアイスブルー。
学院の実技演習、演舞会でも属性に火ばかりを選んでいた学年主席卒業生サマが、氷色の瞳に対極の炎を燃やしておれの前に立ちはだかる。
「黙っていれば、横でごちゃごちゃとくだらない、低俗な言い争いを……っ!」
いや、黙ってなかった。べらべら喋るばっかで、お嬢サマ完全に相槌打つだけになってた。いちおう見てたから知ってる。
「言われてる。アイザック。邪魔だって」
「え、ここで俺に振るの話を」
「僕は! 貴様に! 話をしている!」
びしりと突きつけられた指。……人を指さしちゃ失礼だって教わらなかったんだろうかこの公爵子息サマ。ああ、こいつにとっておれは人扱いじゃないのか。ネズミか。だからいいのか。
「ああうん。そう。で、何」
「何、とはなんだ、何とは!!」
お坊ちゃんの激昂にも、少しもテンションあげてやれない応対がお気に召さなかったらしい。ウェイン坊ちゃんは「貴様はいつもいつも、そうやって僕を虚仮にして……っ」なんて震え声でわなないている。顔が真っ赤だ。
というか、だ。
「虚仮にして」、これはむしろおれの台詞だ。いつも先に虚仮にしてくるのはお前の方だろうが。だからおれの方もこういう態度になるんだっていうのがなんでわからないのか。人に肯定されて持ち上げられることに慣れすぎて、その反対側の人間の気持ちなんて気にもしてないんだろ。お前みたいなやつは。
「何って聞いてるんだけど。取り巻きがいないと悪態一つもまともにつけないの、お坊ちゃん」
「〜……っ! ロゼリア嬢の手前、仕方なく同席を許したが! 本来なら貴様風情が僕やベルテ、ましてや、ロゼリア嬢に! そのような口を利くことなど許されないとなぜ理解しない! 貴様のような排水溝生まれの底辺ネズミをこれ以上のさばらせまいとしたというのに……神聖なる王立学院を汚すに飽きたらず、今度はエルディアード侯爵家に出入りするなど! 厚顔、甚だしい!」
「……うん。まあ、面の皮が厚いのはわりと自覚してるけど」
あと、エルシダの貧民街、ひどいとこだと排水溝すらなかったよっていう補足は……しないほうが賢明だろう。空気的にも。
肩を上下させるお坊ちゃんの荒い息。そしてアイザックが頭を掻いて「あー……」と発した相槌というかある意味での感嘆だけがいやに響いた。
往来まばらな昼下がり、足を止めて様子をうかがう通行人の視線、ささやき。高く飛沫をあげる噴水の清涼音が遠い。
銅像近くのベンチでは、肩を怒らせた姉が弟に羽交い締めにあっている。余計に話がややこしくなるのは回避できそう。弟、ナイス判断。
片手で顔を覆っていたおっさんが盛大なため息をついた頃。すっかり顔から血を下げたお坊ちゃんが、おそるおそる、ぎぎ、と錆びついた動きで首を後ろに巡らせた。
そこにいたのは修羅だった。
これ以上の言葉は必要ないな、むしろこっちに飛び火してきそうだから余計なこと言わないで黙っとこ……と、身を引くには十分すぎるくらいの修羅。
全力でその視界の外に待避したい。ていうか、既にした。
「シュタインベルグ様」
笑顔が怖い。
「言質いただきました」と顔に書いてあるような笑顔、怖い。
こんなところで兄妹をアピールしなくていいのに。お嬢サマ、侯爵子息サマが身も蓋もないことを言ってくるときと同じ顔してる。こわい。
「は、はいロゼリア嬢。どうぞ私のことはウェインと呼び捨てください」
「シュタインベルグ様」
「はい」
「そちらに座っていただけませ? そうです。そちらに」
「はい」
一度目はまだ余裕ある返答のできたお坊ちゃん、二度目は命令された犬が反射で返したような返事だった。三回目に至ってはもう泣きそう。だって「そちら」って指定された場所、地面だし。そして座るのかお坊ちゃん。正座で。それでいいのか。しかもなんで泣きそうなくせしてちょっと嬉しそうなのか……この一連の流れのどこに嬉しい要素があったのか教えてほしい。あ、やっぱいい。なんか知りたくない。
ずむんと腰の据わった空気を背負い、お嬢サマが満足そうに頷いた。
「先ほどのお言葉をもう一度。聖獣様の御前で胸を張って申し上げていただいても?」
聞き分けのない駄犬に言い聞かせるみたいな有無を言わせない、命令。舗装された石畳に正座で縮こまったお坊ちゃんが、「えっ」って顔をした。うん、おれも「えっ」って思った。
お嬢サマの言う聖獣様とはアレである。噴水前にいる雌獅子か豹か、とにかくそういう系のすらっとした大型猫科動物……の、銅像。
この銅像の逸話は建国期に遡る。
魔術士の台頭と同じくしていたその時期は、長かった寒冷期の終わりと重なった。イヴァンが最初に国土とした、それまでただの人の住みにくい寒冷地でしかなかった大陸北部が肥沃な地に変わったことで、イヴァンの建国黎明期は侵略国からの国土防衛が連続していた。
魔術士部隊の筆頭として戦地を駆けた建国王の盾となり剣となったのが、エルディアード侯爵家の祖(……っていうのはこないだお嬢サマに教授された。発掘できた歴史書、自分で読むからいいって言ったのに)。そして牙が、銅像のモデルになったと言われてる獣だそうだ。
建国王以外の言うことは聞かず、主従というより友として背中を守りあっていたなんて話の残る、王都のシンボル。
そんな話が現在に至って「建国王様の血を受け継ぐ方に危害を及ぼそうものなら頭から丸かじりにされる」だとか、反対に「建国王の血筋でありながら彼の王に顔向けできない行いをした者は牙の粛正を受ける」だとかいう、「血」にかけてなのか、血なまぐさい系の都市伝説になってるらしい(これもお嬢サマが情報源……知る人ぞ知る、王都七不思議の一つとか言ってた。あとの六つが気になる)。
――という歴史的事実はあるものの、あくまで逸話である。それをこのお坊ちゃんへの脅迫? に使うのはさすがに無理があると思うんだよ。
おれより確実に事態を飲み込めてないカンジのアイザックと顔を見合わせ、首を竦める。お嬢サマ、これ、どうやってどうにかするつもりなんだ……。
にっこりとそれはもういい笑顔でお坊ちゃんの腕をつかんだお嬢サマは、嬉しそうには見えない若干引きつった顔のお坊ちゃんを「さ、参りましょう」と立たせて銅像の方へとぐいぐい引っ張って行こうとする。「いえ、あの、ロゼリア嬢」と明らかな拒否を見せつつも無理矢理振りほどけない。そんなお坊ちゃんの目が、おっさんに訴えていた。助けろ、と。渋い顔で小さく横に首を振るおっさん。絶望顔になるお坊ちゃん。え、嘘。効いてる? なんで?! 七不思議が効果出してる?!
おれたちが頭の上に疑問符を乗せて置いてきぼりにされてる間にも、お坊ちゃんはお嬢サマにずるずる引きずられていく。控えめに言って滑稽だ。あの姉弟も、自分たちに近づいてくるお嬢サマたちを見てぎょっとした顔で身を引いていたいた。
「シュタインベルグ様も歴とした始祖王の末裔のお一人ですもの。大丈夫ですわ。シュタインベルグ様のお心に曇りがないのでしたら、聖獣様の牙がふりかかることなんてございませんもの。ね?」
「ロゼリア嬢! 申し訳ありませんが少々急事を思い出しました。ですので本日の続きはまた、日を改めてっ」
「だめですわシュタインベルグ様。あちらをごらんになってください」
慌てて用事を取り繕って逃げようとするやつの常套句を吐いてこの場を辞そうとするお坊ちゃんの腕を離すまいと、がっちりホールドするお嬢サマが噴水広場を指さした。正しくは、件の銅像を。
「聖獣様の使者がお見えになっていますもの」
しなやかに引き締まった脚が地を蹴る瞬間を切り取りとった、銅の獣。主に仇なす敵に狙いを定め、襲いかかるさまを写したものなのか。
躍動感に満ちた銅の後ろ足に隠れるように、黒猫が一匹、体を半分のぞかせていた。
影そのものが溶けだしたかに見える闇色の被毛の中にあり、唯一きらりと潤い輝く緑の瞳に。懐かしさを覚える鮮やかな森の色を映して。
ちりん、と。
かすかな音が空気を転がした。
それは、黒猫の片耳を飾る耳飾りにつけられた鈴が、歌う音。
黒猫がなぉんと低い平坦な鳴き声をあげる。
声にならない音で呼んだ名前を、あいつは耳に拾っただろうか。
ちりん。
鈴が鳴る。
だれかの名前を存在を。ここにいるぞとささやき示して。
※
建前を捨てたお坊ちゃんが声にならない悲鳴の尾を残して退散したのに時間を置かず。
今朝以上の機嫌の悪さを全開にしたハラルドが迎えに来たと思ったら、なぜかメルとアドルの姉弟の首根っこを鷲づかみ、二人を引きずって行ってしまった。おれとお嬢サマにそろそろ戻るようにとだけ注意して。
……うん。よくわからないけどとりあえず、エルディアードの人間と接触はできてよかったんじゃなかろうか、あの姉弟。接触というより捕獲された感が強かったけど。
おれ以上にわけがわからないアイザックとはおざなりに別れ、お坊ちゃんを負かせたからか妙に機嫌のいいお嬢サマを、いつの間に増えたのか覚えのない戦利品と一緒に邸に送り届けたのがほんの半刻前。
そのときは控えめながらも空を彩っていた茜錦はすっかり消え、おれの持つ色と同じ陰気な鈍色の空に覆われた王都は、はらはらと落ちる小雨を受けて雨日独特の静けさに包まれていた。
エルディアード侯爵邸門の軒先で雨宿りをしていた黒猫の道案内の末たどり着いたのは、大通りに面し、賑わいを見せる旅籠から一歩も二歩も引いた場所に佇む、注意深く見なければ見落としてしまいそうな小さな看板を掲げた宿場だった。
ゆらゆらと尻尾を揺らして小雨の止まない空の下に消えてしまった黒猫を見送って、おれは思わず息をついた。軒先に入れたことへの安堵か。それともこれから向かう場所への緊張からか。自分にも、いや、たぶん自分だからこそわからなかったけれど。
開いた扉への条件反射だろう、宿の中から年配女性の「いらっしゃいませ」の声が響いた。
細かい水滴が残る髪を適当に手櫛で撫でつけ、そう広くない店内を軽く見渡した。静かなのは単に客がいないだけ――ってわけでもない。
男が一人。その向かいにもう一人、おれより3〜4歳は下に見える子ども。目に入る客と思しき人間はこの二人だけだった。
テーブルを抱える姿勢でつまらなそうにグラスの中身を啜っていた子どもが、顔を上げ、にぱりと笑顔で手を振ってきた。少しくすんだ麦藁色の黄金髪を短い尻尾にまとめた少年だ。
カウンターの向こうから出てきたエプロン姿のおばさんがにこにこと「ごゆっくりどうぞ。なにか注文があれば声をかけてちょうだい」だけ言って、止める隙もなく奥に引っ込んでいってしまった。荷物一つ持たない軽装のおれは客と見なされなかったらしい。あと、笑顔大安売りの子どものせいでおそらく顔馴染みの挨拶と思われた。
子どもの愛想の良さに呆れた視線をやっていた連れの男の視線が、ふっとおれに向けられたのを感じた。それがすぐに、無視できない凝視に変わったのも。
「……何か」
「いや。気にするな」
気になるよ。めちゃめちゃ気になる。
ハラルドより確実に年嵩の男だ。30をいくつか過ぎたくらいだろう。それなのにハラルドよりずっと、昼間のお坊ちゃんの護衛のおっさんに近い……寄るには躊躇う雰囲気を纏わせている。
確実に初対面のこの男の、胸中の芯まで透かし見ようとしてくるような視線が気味悪く……心地が悪い。
「ふむ。成程」
「なに一人で納得してるのさ? ねぇねぇボクにも教えてー」
「後にしろ」
「なにさ、けち」
「二階の右奥部屋」
気持ちだけでなら数歩も後ずさったのは、束の間。
相手にされず、頬をぷくりと膨らませる子どもを手で制し、男はおれが気を詰めたのが馬鹿らしくなるくらい拍子抜けするやわさをもって、切れ長い目の端を緩ませた。意味ありげに、親指で後ろの階段を示しながら。
「はあ」
「失せ者探しをしていたのではなかったか?」
「失せモノ」
その通りではあるんだけど……おそらく的確な答えを与えられすぎて逆に違和感を覚えたわけで……。
「なんで」
「さて? 何故だろうな」
男は気まぐれな猫を思わせる表情で口角をにいっと引き上げた。そうすると重くはあったが悪さのなかった人相に、一気に胡散臭さが滲んでしみた。
「強いて言うとするなら、お前の失せ者捜索歴を考慮した」
言ってることまで急速に胡散臭くなった。
いや、おれは確かに探索魔術を得意なことは得意としてる。でも初対面の他人に名を轟かせるほど行方不明者捜索をした覚えなんてない。そもそもしたこと自体そんなにない。
ただ、この、なんでもお見通しだっていうこのカンジにはものすごい既視感がある。たぶんこいつが示唆してるだろう『失せ者』その人との同調性が半端じゃない。実はちょいちょい見当はずれなとこも含めて。
「なにそれ」
明らかに引いてるおれの様子を面白がっているのか、男はふんと鼻を鳴らして首を竦め、「冗談だ」と失笑した。
それきり男はにやにやとした、だが不思議と嫌悪は感じない顔を見せるばかりだ。嫌悪はないけどむかつく。
もう胡散臭さしか感じられない男に睨みを贈るおれを見かねてか、話に入れてもらえずふてくされていた子どもが口を挟んだ。
「おにーさんおにーさん。あのね、これ、さっきのおばさんの様子と、ここに他のお客さんが泊まってないからっていうただの推察だからね」
「ばらすな。つまらん」
「つまんないことでへそ曲げるのやめてよ。それこそつまんない。それにね、そっちが面白くてもつまんなくてもボクがつまんないのは同じだもん。どーーぉでもいいもんねーーぇだ」
「どうでもよくて一向に構わんよ、こちらも。さて。そんなことよりだ。お前、これの中身をどうしてくれた?」
「知ぃらない。のけ者にした誰かさんが悪いんじゃないの」
涙混じりの怒りの形相で、子どもは琥珀色の液体をぐいっと呷る。同じ色の瞳を潤ませてべそべそぐちぐち文句を並べ立てる姿が、まるっきり話に入れてもらえずへそを曲げた幼児だ。杯の中身とかみ合わない。
それを宥めるわけでも責めるわけでもなく、男はすっかり空になった酒瓶を回し振って、乾いた息をひとつついた。そして退散するタイミングを量っていたおれに、しっしと手を払う。
「ここで俺なんぞを睨んでいても時間の無駄だぞ。それともなんだ。せっかく枝に留まって尾羽を見せた鳥だろう。悠長にしていては捕まるものも捕まらなくなるぞ」
「……どーも、ご親切に」
謝意は一切こめなかった。
それからすぐにカウンターの奥で皿を拭いていたらしいおばさんを呼んで宿泊客の名前を確かめたところ、男が押しつけで教えてきたおれの探し人の情報に誤りはなかった。最初からこうしていればよかったのだ。胡散臭い酒飲みになんて構わずに。
階段を上りながら横目に見下ろした男はもうおれのことなんて目に入らない様子で、連れの子どもの絡み酒を適当に受け流し、新しい瓶の栓を外しているところだった。